現実

 11月半ばの土曜日。穏やかな午後の日差しが窓からリビングに差し込む。

 昼前まで、家族で近くの公園で遊んできた。お腹を空かせた息子たちのため、俺はキッチンで慌ただしく離乳食の準備の最中である。昼食ができるまでの間、神岡は子供たちと絵本タイムだ。

「えんしゃ!」

「そう、電車」

「ばす!」

「うん、バスだな」

 やはり男の子、晴も湊も自動車の絵本がいちばんのお気に入りだ。大好きな車たちをそれぞれにふっくらと小さな指で指差しながら、覚えた単語を一生懸命口にする。新しいものをどんどん吸収していく彼らの目の輝きは、まさに好奇心が溢れ出すようだ。料理中の俺は、キッチンで手を動かしながらリビングの父子のやりとりの声を幸せな気持ちで聴いている。

 今日のメニューは、具沢山ナポリタンだ。

 玉ねぎとベーコンを1センチ角ほどのサイズに切り、バターを熱したフライパンに入れてよく炒める。公園へ行く前に柔らかく茹でておいたパスタと冷凍野菜のニンジン&ブロッコリーをそこへ加え、一緒に炒める。子供に食べやすいよう冷凍野菜をヘラで適当に崩しながら牛乳少々を加え、少し煮る。最後にケチャップを加え、炒め上げて完成だ。二つの可愛らしいトレーに皿を置き、ガッツリ気味に盛る。二人とも本当によく食べるのだ。


 お待ちかねの二人の首に離乳食用スタイをつけ、椅子に座らせる。プラスチック製で胸元の部分が湾曲しポケット状になったこのスタイは、食べこぼしでそこらじゅうベトベトにするこの時期の子供の必需品だ。

「いただきます!」

 家族4人で食事の挨拶をし、戦闘開始だ。

 一応子供用のフォークを持たせているのだが、まだうまく使えず、器用に麺を掬い上げて口に運ぶなどという高等技術には遥かに及ばない。空腹も手伝って、湊はパスタに躊躇なく手を突っ込む。晴はそれでもなんとかフォークを使おうと一生懸命なのだが、途中でもどかしくなったのか、右手にフォークを握ったまま左手でパスタを掴んで口へ運び始めた。うん、そうだよな、わかる。

 夢中で食べるその幸せそうな顔を見ていると、「手を使わずフォークを使え!」みたいなお小言はどうしても言えなくなる。それじゃ食事は美味しくなくなるだろう。


「しかし……本当にうまそうに食べるな、晴も湊も」

「そうですね。俺も腹減ってきた……」

 ほっぺと手を真っ赤に汚し、スタイのポケットに麺をボロボロ落としながらパスタを頬張り、皿の底にくっついたベーコンを指で一つ一つ摘んで皿をピカピカにしてしまう晴と湊の健やかさを、俺たちは心底頼もしい思いで見つめるのである。


 食事を終え、遊び疲れと満腹でお昼寝タイムに突入していく二人を、神岡がベッドで寝かしつける。その間に、俺は子供たちと同じナポリタンを二人分手早く作る。やっと俺たちの昼食&休憩タイムだ。


 明日の日曜から、神岡は大阪へ2週間の出張だ。

 ひと月ほど前、ワーカホリック気味な神岡と正面から話し合ったことをきっかけに、彼の生活はとりあえず最低モードからは脱出した。かなり酷かった目の下のクマは少しずつ薄まり、疲れを溜め込んだどろりと重い眼差しをすることも少なくなった気がする。

 それでも会社からの帰宅時間は早いとは言えないし、土日も子供たちにワイワイ纏わりつかれて、それほどじっくり休養を取れているようには見えないのだが。


「菱木さんにも言われたよ。『本当に、食事や休憩だけはちゃんと取っていただけるようになって安心しました。私が何度言っても一向に取り合って頂けなかったのに急にビシッと守られるようになって、突然の変貌ぶりにちょっと驚いてたんですが、さすがは三崎さん! まさに愛の力ですね〜』って」

 子供たちを寝かしつけ、リビングのソファに背を預けて休憩していた神岡が、ふとそんなことを言う。

「え……以前から菱木さんにもそんなに言われてたんですか? 有能な秘書の忠告なのにどうしてちゃんと聞けないんですか」

 湯気の上がるナポリタンを2つテーブルへ運びながら、俺は呆れ顔で彼を見る。

「いや、彼女から何度も言われていたこと自体が意識にないんだよな、ほんと申し訳ないけど」

「…………」

 そういやこの人、この前も「君以外の誰かに言われても聞き流しちゃってるかもしれない」とか言ってたっけ。どうなのよそれ。

 などと思いつつ、内心ちょっとくすぐったく嬉しかったりしている俺である。いや喜ぶべきとこじゃないんだけど。


「でも、多少改善したとは言え、まだまだハードワークを継続していることは間違いないんですから、出張中くれぐれも無理はしすぎないでくださいね。お願いします」


「うん……そうだな」

 そう答える彼の目は、もう大阪へ飛んでいるかのように遠くを見据える。マンション建設に反対する住民の説得という仕事がそう簡単なものではないことが、その眼差しから隠しようもなく伝わってくる。


「……」

 そんな表情を見ると、今の俺の言葉が彼の耳にちゃんと届いているのかどうか、不安になってくる。


 今度は、彼は俺の目の届かないところへ行ってしまう。ストレスフルな任務を抱えて。

 いや、神岡だって子供じゃないんだし。俺がまた勝手に心配してるだけだ。

 モヤモヤと胸に蟠る不安を、無理やり追い払う。


「あんまり心配しないでよ、柊くん。必要最低限のことをしてくるだけだからさ。

 しかしこのナポリタンのレシピ、美味いよなー。いただきます!」

 そんな俺の内心に気づいたのか気づかないのか、神岡はパッと明るい笑顔を俺に向けると、勢いよくパスタを頬張り始めた。


「……うん、そうですね。

 いただきます」

 その笑顔を信じようと、俺は思った。









 その翌日、日曜の午後1時。

 樹は、大阪市内のある市民ホールの控え室にいた。

 午後2時から、ここでマンション建設に反対する住民たちへの説明会を開催予定だ。


 今回のプロジェクトを共同で進める不動産会社A社の専務取締役と、張り詰めた空気の中で挨拶を交わす。父の充と同じくらいの年回りのガタイのいい男が礼儀正しく名刺を差し出した。

「初めまして。株式会社A不動産の専務をしております、大澤と申します」

「神岡工務店副社長の神岡樹です。どうぞよろしくお願いします」


 ミーティングテーブルに向き合って座りながら、大澤は表情を引き締める。

「お電話では既にお伝えしておりましたが、今回の説明会には約60名ほどの地元の方々が参加予定です。

 参加者は、この地域に古くから住まわれているご年配の方がほとんどです。日当たりや景観の悪化、治安の悪化等、強硬に反対を主張される方々が一部おりまして……」

「そのようですね。

 当社の大阪支店からも、同様の連絡を受けています。従来の説明や説得では聞き入れてもらえないと……その一部の方々をうまく説得できなければ、今後のスケジュールにも支障が出てきそうですね」

「ええ。なかなかに難しい状況です。

 今回のマンション建設は、地域の活性化にも貢献することは間違いないんですがね……いくらそんな話をしても、彼らにとってはそういう問題ではないのでしょうね」


「……」


 この土地に古くから住む住民たち。「昔ながらの住み慣れた街を変えたくない」という固定観念を容易には揺るがす気のない人々なのだろう。

 従来の説明では納得しない——彼らは、どんな主張で立ちはだかるのか。

 目の前のペットボトルのお茶を一口喉に通し、樹はふうっと静かな溜息を吐いた。


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