社会の体温(2)

「樹さん、今夜は少し飲みませんか?」

 神岡の過労を案ずる宮田と須和くんの言葉が胸に焼きついたまま迎えたその週末、土曜の夜。

 子供達を寝かしつけた後、俺は意を決してワイングラスを二つ出しながら神岡を呼び止めた。


 仕事に全力で向き合いたいという彼の意思に、本当は横から口出しなどしたくない。

 俺だって、仕事に心血を注いでいる最中に誰かから「程々にしろ」と言われたところで、ちゃんと聞く耳を持てるか自信がない。むしろ、そんな言葉は鬱陶しくさえあるかもしれない。

 パートナーの忠告に、彼がどんな顔をし、どんな言葉が返ってくるか。思ってもみないような冷ややかな反応をされたら……それを思うと怖い。

 それでも、ここは言わなければ。俺だけじゃなく、周囲の人間までも、目に見えて疲労を蓄積し始めている彼を心配しているのだから。


「子供たちもぐっすり眠ったし、俺たちもたまには二人でゆっくりしませんか……あ、でも疲れてたら無理はしないでくださいね」

 最近は、土日も子供の寝かし付けが済んだら二人ともまっすぐベッドに向かう生活になっていた。神岡を誘って改めてそんなことに気づく。


「……ああ、そうしようか。そういうの、何だか随分久しぶりだ」

 神岡も、重そうな瞼をふと上げて微笑んだ。

 その目の下や、以前より削げた頬の青さが不意に強く目に飛び込んできて、俺の心臓がヒヤリと冷たくなる。

 夕方冷蔵庫に入れておいた口当たりの良い白ワインを、グラス二つに控えめに注いだ。疲れている時の酒は思った以上に効く。酔ってしまっては充分な話し合いなどできない。

「ほんと久しぶりですね」

 重苦しく沈んだ気持ちが神岡に伝わらないよう、俺は敢えて明るい笑顔を作った。


 つまみに生ハムを少しだけテーブルに出し、二人でグラスを軽くカチリと合わせた。

「毎日家事と育児おつかれさま、柊くん」

「毎日お仕事お疲れ様です、樹さん」

 冷えたワインの滑らかな口当たりが、ぴりぴりと尖った俺の神経を微かに解す。


「こうやって静かに君とグラス傾けるなんて、ほんと久しぶりだなー。ワインの味わいが全身に沁みるね」

 神岡の穏やかな表情を見つめながら、俺はなるべくさらりと軽い声を出した。

「最近、忙しそうですね。会社の方はどんな感じですか?」

「ん、いろいろ大きな企画が動いていてね。僕が副社長に就任して以来、今が一番社内に活気に満ちている気がするよ。

 今進めているのは、大阪支社の方の案件でね。市街地の再開発の動きに合わせて新規マンション建築の計画が上がってきてるんだ。上質で住み心地の良い住環境を実現しようと、支社も大いに盛り上がってる」

「——大阪ですか。

 地域が変われば、そこに住むお客様の住まいへのニーズも違ってきますよね」

「そうなんだ。この案件は、向こうの地域の『快適』をよく把握している支社の営業部や設計部と充分に連携しながら進めていかなければね」


 瞳を輝かせてそんな話をする神岡の生き生きとした表情に、俺の用意していた話題がますます小さく萎みそうになる。

 あー、ここで逃げちゃダメだ!

 彼の一番側にいる家族として、大切なことは何が何でも伝えなければ。

 俺は内心でぐっと拳を握り、口を開いた。


「『お疲れ様』っていう言い方を、俺たち普段本当に何気なく使いますよね……けど、最近の樹さん、実際かなり疲れてませんか?」

「ん?」

 グラスをテーブルに置き、神岡は改めて俺に視線を向ける。


「いえ……ちょっと思ったんです。仕事に復帰してからの樹さん、そういえば平日も休日も、のんびりする時間を全然作れてないんじゃないかって。

 土日は晴と湊があれだけパパにまとわりついちゃってますし、最近は平日もなんだかどんどん帰りが遅くなってる気がして……実際のところ、少し心配なんです。あなたが、自分自身も気づかないうちに、心身共に疲労を溜め込んでしまってるんじゃないかって」

「……僕、そんなに疲れた顔してる?」

「あなたを責めてるわけじゃないんです、決して。

 それでも、疲労の蓄積が健康に良くないことは明らかですし……宮田さんや須和くんも、美容室に来るあなたの様子から過労を心配してます。スタイリングに来るたびに、疲れが濃くなっていくみたいだって。

 あなたの身体は、今はもうあなただけのものじゃなくて……俺や子供達のためにも、あなたに元気でいて欲しいんです。あなたが健康を損ねるのをただ見ているなんて、嫌です。絶対に」 

 途中で言葉を切ってしまうと最後まで言えなくなってしまいそうな気がして、俺は彼へ向けて一気に思いを訴えた。


 神岡は、静かにワイングラスに手を伸ばし、その中の液体をじっと見つめながらしばらく俯いた。

 何かを深く考えるような間を経て、彼は再び俺を見つめた。


「——そうだよな。

 君が、僕のことを心配になるのは、当然だ。

 思えば、職務に復帰してからここまで、まるで息継ぎもせずに全力で泳いで来たような感覚だ。一年間空席にしたことで、神岡工務店副社長という仕事の重さを改めて全身で感じた気がしてね。

 そして、君が言った通り、今の今まで『息継ぎすらしていない』ということに、全く気づかなかったよ。

 会社での食事や休憩だってそういやめちゃくちゃになってた。昼食を食べたか食べないかすらも意識しないレベルだ。気付けば既に深夜だったり、軽く頭痛や目眩がしたり……そんなのも当たり前のことの一つのようになっていた。

 こんな毎日を送りながらも、自分の疲労に気付かないなんて、ちょっとやばいよな」


 彼の話を聞けば聞くほど、そのリアルなヤバさを目の当たりにする気がして、俺は内心青ざめた。

 やっぱり、今日この話をして良かった。でなければ本当に危険だった。


「——ほっとしました。あなたが、俺の言葉を正面から受け止めてくれて。仕事に取り憑かれたような状況になってることに気づいてくれて……もし俺の言葉をうるさがられたりしたらと、内心めちゃくちゃ不安でした」

 ふうっと大きな息を一つついた俺の肩を、神岡の腕が強く抱き寄せる。

「はは、君以外の誰かだったら、余計なお世話だと聞き流しちゃってるかもしれないけどな。

 君の言葉をいい加減に聞き流したりは、絶対にしない。

 こうして一緒に過ごすようになって、どれだけ時間が経っても、君の思いを適当に扱うようなことだけはしない。

 妻や子供の話を全く聞いてないクソオヤジにだけはならないって、固く決めてるんだ」


 シャワーの後の爽やかなシャンプーの香りが、抱き寄せられた首筋に漂う。

 この人の優しい温かさは、どれだけ時を経ても変わらない。

 本当に久しぶりに、俺は彼の首に腕を回し、額を胸元にぐりぐりと押し当てた。


「……んー、これはもっとスケジュールがはっきりしてから言おうと思ってたんだけど……」

 その胸元から響く声に、俺は顔を上げて神岡を見つめた。

「何ですか?」

「さっき話した、大阪支社での新規マンション建設の件だけどね……この案件は、大阪の大手不動産会社A社と共同で行うリノベーション事業で、シニア向けの介護サービス付き住宅と若年世帯向け住宅を複合した大型マンションを構想している。このマンションが実現すれば、多世代の家族が交流できる有意義な物件になることは間違いない。

 けれど、建設に当たって一部の地元住民から反対が出ていてね。A社とうちの責任者が当該地域へ出向いて、十分な説明をした上で理解を求めるべきだという話になってるんだ。

 その対応に当たるため、来月11月の後半の2週間、僕が大阪へ行くことになりそうなんだ」


「…………」


 新たな不安が俺の胸を占領する。

 反対意見を持つ人々への説明と説得。

 そんなストレスフルな仕事が、これから待っているなんて。


「——それ、あなたでなければだめなんですか」


 神岡は、俺をじっと見つめた。

「……そうだな。

 っていうよりも、僕自身がこの仕事を他人には譲りたくないと思ってる」


「……」


「今、僕の目の前にあるものが、どれもほどほどにこなせば済むものだったら楽なんだろうけど……

 僕には、そのどれもが何よりも大切なんだ。育児も、仕事も。

 どれに対しても本気で、全力で向き合いたい。

 ——この気持ち、わかってくれる?」


 彼の言葉のどこをとっても、反論できる点などない。むしろ、痛いほどよくわかる。

 今の言葉は、二人の息子の父親であり、大企業の副社長である彼の本心そのものなのだ。

 俺は、黙ったまま大きく頷いた。


「それから——これはあまり言いたくなかったんだけど……僕が一年間育休を取得したことを、好ましく思わない人もいてね。

 社外に出れば、会食がてら『一年もお休みしてお家で育児ですか、余裕があって羨ましいですなあ』みたいに皮肉を言ってくるジイさん連中もままいるんだ。満面の笑みで『おかげさまで』って返してるけどね。

 そういう連中にも、目に物見せてやりたくてさ。育児も仕事も、誰にも文句を言わせないレベルにやり遂げる。育休取得を悪く言う根拠などどこにもないんだと。

 未だに、育児は男のする仕事じゃないと鼻で笑う人間が、この国の大部分を占めている。人として大切なことに向き合いたいと願うその熱に寄ってたかって水をかけ、熱を奪っていこうとする——この社会の体温の低さを、改めて見せつけられる思いだよ」 


 何かを嘲笑するかのような彼の言葉に、俺の身体は思わず強張った。

 知らなかった。育休の取得が原因で、彼が外部からのそんな風当たりにも晒されていたなんて。

 この国は、こうして容易には前進しようとしない。

 重い溜息が、小さく唇から漏れる。


 沈んだ空気を払うように、彼はふっと柔らかく微笑んだ。

「こんな僕の身勝手で、君をこれほどに心配させてしまったことは、本当に悪かったと思ってる。

 君の言ってくれた言葉は、今後は絶対に忘れない。どんなに忙しくても、食事や休息はちゃんと確保する。自分自身に負担をかけすぎていないか、ちゃんとセルフチェックするって約束するよ。君と、子供たちのために」


 そんな彼の真摯な眼差しを、俺はじっと見つめ返した。


「……本当ですか?」

「うん。誓う」

「約束ですよ? 

 いつも元気でいてください。あなた自身のためだけじゃなく、俺と子供たちのために」

「——そんなに真剣に見つめられちゃ、破ろうにも破れないな」

「だから! 破らないでくださいってば!!」

「ははは、冗談だって」

 そう笑いながら、彼は俺の腰に両腕を固く回すと、ぐいっと俺の身体を上へ抱き上げた。

「ひゃっ……ちょっ、待って! こういうのずっとやってないし、樹さん腰とか平気ですか!?」

「なめてもらっちゃ困る。副社長がずっとデスクワークだと思ってるの? 君が思っている以上に現場に出て力仕事やってるんだぞ? それに、今夜はもう大人しく睡眠に入るなんて到底ムリだ」

「え、そ、そうなんですか……でっでも準備がいろいろまだ……!!」

「焦らなくたっていい。夜は長いんだから、君の準備を含めてじっっくり楽しもう」

 抱き上げた俺を見つめながら、彼は堪えきれないというように舌先でちろりと唇を舐める。エロい。とんでもなくエロい。

「わっ、わかりましたからもう降ろしてください! これ以上はヤバイですってあなたの足腰が!!」

「うるさい。黙ってベッドまで運ばれろ」

「……」


 何とも久々に甘い命令口調に、俺の心臓は勝手に暴走を開始し——俺はそれ以上言葉を選べないまま、彼の耳元に抑えきれない吐息を零した。


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