クリスマス会

 冷たい風に木々の葉はすっかり落ち、夕暮れの街路樹やショーウィンドウには金や銀、青などのイルミネーションが華やかに輝いている。気づけば、もう12月だ。


 つい数日前に、晴がとうとうつかまり立ちを完成させた。

 湊が自由自在にテーブルの周りで立ち上がり、手を伸ばしておもちゃを掴んではご機嫌な様子を静かに観察していた晴だったが、どうやら「俺もこうしちゃいられない」という気になったようだ。ローテーブルに残ったミニカーをじっと見つめ、意を決したように小さな足が地面を踏みしめた。テーブルに必死に手をついて、悪戦苦闘しながらも自分自身の身体をしっかりと持ち上げた瞬間を、俺と神岡は固唾を飲んで見守っていた。

「ああ、あ〜!!(やった、おもちゃ取れたよ!)」

「やったな、晴!! おめでとう!」

 俺と神岡は、晴がその姿勢を崩さないように中腰モードで駆け寄り、拍手で彼を包んだ。ミニカーを手にした晴の弾けるようなナマ笑顔は、神岡の実家で撮影された湊の動画とはまた違う破壊力だ。

「うきゃきゃきゃっ!!」

 俺たちの拍手が面白かったのか、はたまた空気の高揚が伝わったのか、湊も鈴のついたおもちゃをぶんぶんと振ってはしゃいだ。


 こうしていると、まるで毎日が記念日のようだ。少しずつ、温かく積み重なっていく家族の記憶は、ずっと俺たちの心に明るく灯り続けるのだろう。 


 今年の正月に晴と湊がこの世に誕生し、怒涛の双子育児がスタートして、気づけばあっという間に10ヶ月が過ぎていった。妊娠期間中に身体の不調や不安でぐったりしかけた俺に、「ここで弱音を吐いてどうするの! 出産を終えてからが本番なんだからね!」と笑った母の声を思い出す。まさにその通りだと、振り返ってみて思う。

 乳児の時期の眠る暇もない育児による極度の疲労と、ノイローゼになりかけたピンチを宮田に救われたこと。大企業の副社長という立場ながら神岡が長期の育休を取得してくれたこと。紗香さんや須和君との出会い。家庭環境に苦しむ須和くんを誘って、俺の両親とみんなで囲んだお盆の花火。晴と湊の健やかな成長。寝返り、はいはい、つかまり立ち。子供達の定期健診の度に、温かいアドバイスと笑顔をくれる藤堂先生——。

 自分の人生の中で、これほどたくさんのことが濃縮された時間は、どこを探しても見つからない。 

 そしてこの10ヶ月で、俺はそれまでの自分とは全く違う自分に作り変えられつつあることを感じている。それは、身勝手で心細い「自分自身」の孤独さが、次第に緩み、温められていくような感覚だ。

 それまで、「自分」という存在を何とかうまく回すことでいっぱいいっぱいだった自分が、今はその自分をどこかへ放り出して、もっとずっと大切なもののために生きている。自分さえ良ければそれでいいという尖った感情が、気づけば「愛する者のためならばそれでいい」という言葉にそっくり置き換わっている。

 愛する者のために全力を尽くす感覚は、自分は独りではないという感覚にも通じている。自分を必要としてくれる愛おしい体温が、いつも傍にある感覚。ひとりきりで暗がりを辿る孤独から解放されていく感覚。時に途轍とてつもない苦労を味わっても、愛する命とがっつり日々を向き合うからこそ、こんな幸せな感覚が自分の中に育ちはじめたのだ——はっきりと、そう思う。


「あー、柊くん、ミルク吹きこぼれちゃう!」

 不意に俺の側へ走り寄った神岡の声にはっと我に返った。カフェオレ用の牛乳を火にかけたミルクパンが目の前でぶくぶくと白い泡を上げている。夜、子供が寝付いた時間にこうして温かい飲み物を一緒に飲んでほっと一息つくのが俺たちの最近の習慣だ。

「うあー、ヤバい! 沸騰手前で止めるつもりだったのに……」

「はは、まあいいさ。そんなハイレベルな美味を追求しようとしてるわけじゃなし」

 急いで火を止めた俺に、神岡が微笑みかける。

「……そうですね。すみません、風味がちょっと落ちるかもですが」

「いや、君が手間をかけて入れてくれたカフェオレというだけで充分だ。

 ところで、紗香さんから誘われた幼稚園のクリスマス会、今度の土曜だったよな?」

「ええ、12月の第1土曜です。優愛ちゃんの年長クラスのお芝居は11時頃の予定だそうです」

 半月ほど前に、紗香さんからメッセージをもらっていた。もし都合良ければ幼稚園のクリスマス会にぜひ!と。孫の晴れ姿を見たいじいじばあばを始め、園児の関係者が毎年たくさん来場する賑やかな催しのようだ。優愛ちゃんのクラスは『白雪姫』のお芝居をやるらしい。

「小さい子供達が頑張って練習した成果を披露してくれるなんて、この上なく貴重な機会だよね。紗香さんに招いてもらえてラッキーだな。優愛ちゃん、何の役をやるんだろう?」

「そのことは紗香さんは特に何も言ってませんでしたけど……優愛ちゃんは美少女だしいつも笑顔で優しいし、まさに白雪姫が適役ですよね!」

「一つの役に何人かを割り当てて、園児全員何かの役で出させる方法を取るんだろうけど、先生方は配役決めるのなかなか大変だろうな。お母さん達の意見やら何やらも微妙に気になるだろうし」

「あー。……でしょうね」

 以前、紗香さんとママ友達との間で勃発した陰湿なトラブルを思い出す。ママ連合っていうのはとにかく強力なのだ。熱いマグカップの湯気を吹きながら、俺は思わず苦笑いをこぼした。








 幼稚園のクリスマス会の当日。優愛ちゃんのお芝居の始まる少し前に、俺たちは晴と湊をそれぞれ抱っこ紐で抱いて園を訪れた。カラフルで可愛らしい園舎、綺麗に整った運動場や遊具。きちんとした幼稚園だということがひと目でわかる。会場になっている大きなホールには、既に大勢の人が来客用に準備された椅子に座り、子供達の出し物を楽しんでいた。

「三崎さん、神岡さん、今日は来てくださってありがとうございます! ちょうどこの次が優愛達の番なんです」

 俺たちに気づき、他のママ達とお喋りしていた紗香さんが明るい笑顔で駆け寄ってきた。以前の不安げな様子は全くなく、ママ仲間との関係も良好そうだ。

「空いてる席、座っちゃって大丈夫ですか?」

「ええ、どこでも大丈夫です。ここ、ちょうど空いてますね。私も一緒に優愛達のお芝居観ようっと。

 あ、そろそろ幕開きますよ!」

 俺たちの隣の空席に座ると、紗香さんは嬉しそうに舞台を見つめた。 

 可愛らしいBGMに乗せて幕が開く。眩しいライトの照らす舞台に、可愛いドレスを着た少女が3人、観客へニコニコと笑いかける。観客から大きな拍手が起こった。

「……あれ?」

「どうしたんですか?」

 隣の紗香さんの小さな呟きを聞き取った俺は、彼女の横顔を見た。

「……いないんです、優愛が。白雪姫のドレスがちょっと恥ずかしいけど頑張るから見てて!って、今朝あんなに嬉しそうに言ってたのに……」

「え……ほんとですか?」

「柊くん、どうした?」

「優愛ちゃん、白雪姫やるはずなのに出てないんだそうです……」

 神岡にもそう説明し、俺たちはもやもやと湧き出す不安を抑えながら舞台を見た。


「——鏡よ鏡、世界で一番美しいのは、だぁれ?」

 場面が移り変わる。真っ黒いマントをつけて冷ややかな笑顔を浮かべながら登場した女の子の姿に、紗香さんが息を飲んだ。

「……優愛だ」

「え?」

「なんか、魔女やってます、優愛」

「……」


 優愛ちゃんは、素晴らしい魔女を演じ切った。贔屓目にではなく、本当に誰の目をも惹きつける演技だった。魔女役の子は3人いたはずなのだが、他の子達の存在が全く印象に残らないほどだ。

 割れるような拍手喝采の中、担任の先生が紗香さんの所へ駆けつけてきた。

「橘さん、本当にすみません! 本番直前になって、魔女役の子がひとり『やっぱり魔女なんかやりたくない』って泣き出しちゃったんです。それを見て、優愛ちゃんが『じゃあ自分の役と交換しよう』って言ってくれて。女王のセリフも覚えてるからって……本当に助かりました」

「……そうだったんですね」

「優愛ちゃん、本当に素晴らしい演技でしたね! 私たちも驚いてしまいました。お家に帰ったら、ご両親からも思い切り褒めてあげてくださいね」

「はい、もちろんです!」

 紗香さんは、心から嬉しそうにそう答えた。









「ねーママ、優愛のことちゃんとわかったー?

 あ、はるくんとみーくん達も来てるー!」

 会がお開きになり、着替えた優愛ちゃんが紗香さんと俺たちのところへ駆け寄ってきた。

「見てたよ〜もちろん! 優愛、えらかったね。魔女の役、とっても上手だった!」

「うん、魔女はやったことなくてドキドキしたけど、頑張ったよ。白雪姫の役よりも面白かった!」

 優愛ちゃんは、無邪気な笑顔でそう答える。

「優愛ちゃん、お芝居本当に上手だったねー。もしかして女優さんになれるんじゃないかな?」

「えーやだよー、はずかしいもん!」

 神岡の言葉に、彼女はちょっと照れたようだ。ふっくらとした頬が桃色に染まった。

 優愛ちゃんを囲んでお喋りする俺たちに、先ほどからチラチラと周囲の視線が向けられていることが何となく感じられた。これは差し詰め、偏見ママ達の冷たい視線といったところだろうなあ……あー、無視無視!

 そんなことを思う俺に、紗香さんがクスッと笑った。

「園のママたちね、三崎さんと神岡さんがとにかくキラキライケメンで素敵すぎる!って。ちょっと噂になってますよ」

 予想外の言葉に、俺と神岡は顔を見合わせた。

「え……嘘でしょ? 

 彼女たち、俺たちのあれこれを詳しく知ってるんですか?」

「さあ、どうなんでしょうね。けど、とにかく素敵なものは素敵ですから♡」

 紗香さんは、あっけらかんと明るく微笑んだ。



 幼稚園からの帰り道。賑わいの後の静かな空気が心地良い。俺たちは揃ってひんやりと引き締まった青空を見上げた。

「優愛ちゃん、立派でしたね」

「ああ。本当にな」


 まだまだ小さいと思っていた子供たちが、あっという間に驚くほどしっかりと成長し、やがて軽々と自分たちを飛び越えていく。

 そして、親も祖父母も、誰もがその姿を愛情に満ちた眼差しで見守る。

 たった数時間ではあるけれど、園でのひとときはこの上なく明るい幸せに満ちたものだった。


「実は今日、園のママたちにどう見られるかがちょっと怖かったんですけど……すごくいい一日になりましたね」

「うん。大切なものをたくさん味わわせてもらった時間だった。声をかけてくれた紗香さんに、何かお礼をしたいよな」

「そうですね! もうすぐクリスマスだし、ぱーっとみんなで集まりましょうか。須和くんと宮田さんにも声かけて」

「うん、それいいね!」


 それぞれの抱っこ紐の中で眠ってしまった子供たちを揺すりながら、俺たちは明るく微笑み合った。


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