親と子

 宮田の部屋の下見と鍋パーティを終えた夜、9時少し前。

 神岡の実家へ帰ってきた俺たちは、玄関へ入った途端耳に飛び込んできた凄まじい泣き声に一瞬気圧された。

「ああ、おかえり二人とも!」

 義父が足早に玄関へ出迎えた。出かける前は綺麗に整えられていた髪が何となく乱れ、慌しげなその表情にもうっすらと疲れが浮かんでいる。

「言われていた時間にな、ミルクをあげようとして母さんと一緒に二人を抱っこしたら、晴が急にぐずって泣き出したんだよ。そしたら湊も、それに釣られるように機嫌が急降下して……もう小一時間、ずうっと泣きっぱなしなんだ。

 夕方の離乳食もよく食べていたし、紙オムツもミルク前に替えたばっかりのはずだし、変わった様子はそれまで全くなかっただけに理由が皆目分からなくてな。いくらあやしても、おもちゃで気を紛らわそうとしてもうまくいかないんだ」

 廊下を歩きながら、義父は困ったように俺たちにそう話す。

「珍しいな」

 神岡が、俺の隣で表情を微かにざわつかせながら小さく呟く。

 我が家での生活の中でも、子供達がそんなに長い時間ぐずったことはあまり思い出せない。もちろん寝付きの悪い時や機嫌が悪い時などにグズグズすることは少なからずある。けれど、二人してこんなギャン泣きを爆発させることは数えるほどしかなかった。

 この義父と義母のことだ。晴と湊を預かっている間、おかしな不注意や重大なミスなどを犯すことはないと信じている。

 それでも、好奇心旺盛でどこでもはいはいで移動してしまうこの時期の赤ちゃんは、部屋の隅で何を見つけて口にしてしまうかも分からない。

 万が一のことがあったとしたら——?

 それでも、ぐずりが二人一緒だとなると、二人が同時に変なものを飲み込んだなどという事態は考えにくい。

 何となく不安な思いでリビングへ入ると、ベビーベッドの上で足をジタバタさせてタオルを蹴りつつ大泣きしている晴と、義母の腕に抱かれてやはりギャン泣きしている湊が目に飛び込んできた。

「あ、みーちゃん! パパたち帰ってきたわよ! ほらほら、見て!」

 俺と神岡の顔を見た義母はパッと笑顔になり、湊を優しくあやしながら俺の方へ駆け寄ってきた。

「よし、バトンタッチよ」

 義母から湊を受け取り、俺はその丸く柔らかな体を両腕と胸でしっかりと包んだ。

「ただいま、湊」

「んぎゃっ……んぎゅ……ふ……」

 我を忘れたようだった湊の瞳が、腕の中で俺を見上げる。

 その途端、湊の激しい泣き声は、暴れていた炎が小さくなるかのように急速に勢いを弱めた。

 神岡もベビーベッドに駆け寄り、ジタバタ暴れている晴を優しく抱き上げた。

「晴〜、ただいま! パパだぞっ!」

 抱き上げられた感触とその声に、晴は驚いたかのように泣き声を止めた。

 そして、それが神岡だと認識すると、ぐっとその腕にしがみつき、まんまるく柔らかな額や頬をグリグリと彼の胸元に擦り付けた。


「……おお。すっぱり泣き止んだじゃないか、二人とも」

 義父が半ば呆気にとられるような声音で呟く。

「やっぱり、そうなのよね」

 義母が、小さく微笑んだ。

「……え?」

 聞き返す俺に、彼女はどこか嬉しそうな柔らかい声で答えた。

「これまでは、おもちゃに囲まれて誰かに遊んでもらえればそれでご機嫌だった二人が、ミルクも飲まず、何であやしてもダメ。もしかしたら、って途中から思ってたの。

 晴も、湊も、あなたと樹が側にいないことに突然気付いてしまったのね、きっと。

 この大泣きは、二人があなたたちを『自分にとって一番大切な存在』と理解し始めた証拠なんだと思うわ。

 そういえば樹も、ちょうどこのくらいの頃にそんなことがあったっけ。父さんも私も忙しくて実家へ少し預けに行ったら、私が玄関を出た途端樹が大泣きして困ったって母が話してた」

「えっ……僕が世田谷のおばあちゃんをそんな困らせたことが?」

「そうよー、あなたは中学くらいから急にクールに澄ましちゃったけど、実は結構甘えん坊なところがあるのよね〜♪」

「……そんなことをここで暴露しなくても」

 神岡が一気に恥ずかしげに赤面する。いやそれはもうとっくに知ってるからね。

 子供達が泣き止んで緊張が緩んだのか、義父が強い声で義母に食ってかかる。

「おい麗子、そういうことはもっと早く思い出してくれなきゃダメだろう!? 二人があまり泣くから僕はもうどうしたらいいか分からなくて、どこか痛いんだろうかとか救急車呼ぶかとか内心パニック寸前だったんだぞ」

「あら、そんなにオロオロしちゃってたの? ごめんなさい。男って思ったより気が小さいわよねー、うふふ」

「うふふじゃない全く!!」

 変な喧嘩を始める二人に、俺は深く頭を下げた。

「お二人に大変な思いをさせてしまい、本当にすみませんでした。やっぱりもう少し早く帰ってくれば……」

「いや、柊くん、そんなことは全く気にする必要はない。むしろこんなふうに頼ってもらえる方が、私たちは嬉しいんだ。

 それにな〜、今日はこんなぐずりなど吹っ飛ぶくらいの出来事があったんだぞ!」

「あなた、その話は後でゆっくりしましょうよ。晴も湊もミルクも飲まずに泣き通しだったんだから、パパ二人にまずミルクをあげてもらわなきゃ」

「うん、そうだな」

「うむ、うむ」

「あうぁ」

 俺たちの腕の中でしきりに指をしゃぶったりし始めた子供たちを見て、義母がそう提案した。









 子供達は、俺たちの腕の中で夢中でミルクを飲み干すと、ぷつんと電源を落としたように眠ってしまった。両親とたっぷり遊び、大泣きして、疲れたのだろう。

 子供たちを起こさないよう、静かにベッドへ運ぶ。

 俺たちを探してヘトヘトになるまで泣いた、二つの健やかな命。

 たまらなく愛おしい二つの寝顔に、俺はしばらくじっと見入った。


「父さん、さっき言いかけたすごい出来事って?」

 ソファへ戻った神岡が、待ちきれないように義父に尋ねた。

「ふふふ。これはもう祖父母としてこの上ない幸運な出来事だ。なあ麗子」

「ええ、もうほんと最高だったのよっ♡」

 義父と義母は眩しいほどの笑みを浮かべる。

 スマホを何やら操作した義父が、ドヤ顔で画面を差し出した。

「これ、再生してみろ」

 神岡の手元の画面を、俺も一緒に覗き込む。

 そこには、リビングのローテーブルの周りで遊ぶ義母と湊が写っていた。

『あうう、ぐぶぶ』

『みーちゃん、ほらこれ、みーちゃんの大好きなブーブよー。ここに置くねー』

 義母がテーブルの微妙な位置に湊のお気に入りのミニカーを置いた。

『うう、うぐぐ!』

 それに気付いた湊ははいはいスタイルからテーブルの縁をぐっと掴み、膝立ちの姿勢になった。手をいっぱいに伸ばし、届かないもどかしさに「おばあちゃん、とって!」というように義母に視線を送ったりしている。

『ほら、もうちょっとだね。届くかな?』

 義母がミニカーを楽しげに動かして湊を煽る。

 その次の瞬間。

 ブルーの柔らかなベビーパンツに包まれたぷくぷくな脚が、いつもと違う動きを見せた。

 左の膝を踏ん張り、もぞもぞと苦戦しながらも右の足のひらを床に押し当て——右脚がぐっと立ち上がった。

 右脚が立った勢いで、小さな左の足のひらも同様に床を踏みしめる。

 そして、湊の両膝が真っ直ぐに伸び、上半身を力強く持ち上げた。

 テーブルにつかまりながらも、しっかり二本の脚で立っている。

 彼の小さな手が、届かなかったおもちゃに触れ——その瞬間、ふっくら丸い顔いっぱいに笑顔が零れた。


 気づけば、俺の目にぶわりと涙が湧き出していた。


 生まれて初めて二本の脚で地面を踏みしめ、立ち上がった瞬間。

 届かなかったものへ手が届いた喜びに、溢れ出す笑顔。

 そこには、我が子の例えようもなく尊い瞬間が収められていた。


 神岡も、目尻を掌で小さく擦った。


「ほんっっっとうにびっくりしたし、嬉しかったわ〜〜〜!!! みーちゃん、おめでとう!!」

「今日はほぼ一日中、二人の姿を撮りっぱなしだったからな。この記念すべき瞬間を丸々残すことに成功したぞ!!」

 二人は喜びを抑えきれないように満面の笑みを見合わせた。


「……お義父さん、お義母さん、ありがとうございます。

 子供たちの成長をこんな風に細やかに見守り、愛してくださって……」

「あはは、お礼を言われることじゃないんだってば。こういう瞬間に立ち会わせてもらうことこそが、私たちの最高の幸せなんだから!」

「その通りだ。時にはじいちゃんばあちゃんにも育児の苦労や喜びを味わわせてやることが親孝行なんだと、柊くんも樹もちゃんと理解しておいてくれないとな」

 先ほどの疲れをどこかに吹っ飛ばしたような二人の温かな言葉が、胸の奥深くまで染み込んでくる。


「——本当に、ありがとう。

 父さん、母さん」


 ちょっと横を向いて涙の気配を消してから、神岡が両親を真っ直ぐに見つめてそう伝える。

 言葉少なだからこそ、籠もった思いの大きさが感じられるその静かな声に、俺の目がまたじわりと滲んだ。



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