台風一過

 10月終わりの週末、爽やかな風の吹く秋晴れの公園。

 子供達が賑やかに遊ぶ広場から少し離れたベンチに、俺と神岡、須和くんは座っていた。

 目の前のベビーカーで、晴と湊は子供用マグのストローから麦茶を美味しそうに飲んでいる。


「先週末の話し合いは、それなりにちゃんと済ませることができました。

 三崎さんと神岡さんにお電話した後から、リビングがなんだか急に静まり返ってしまって……それまで暴れまくっていた台風が、嘘のようにぱたりと止んだ感じでした」

 須和くんは、その様子を思い出すように小さく微笑を浮かべる。

「神岡さんの話してくださったことを、全部父から聞きました。とても大切なことを伝えてくださったんですね。父が今まで気づかずにいた偏ったものの見方や価値観や、そういうことを」

 須和くんの言葉に、神岡は子供達を優しく見つめながらさらさらと話す。

「んー、そんな大したことをしたわけじゃないよ。全然。

 ただ、お父さんの言葉の端々から、隠しようもなく滲むものがあったから……君が苦しんでいる家庭内の空気を、あの時僕も電話越しにはっきりと感じた。

 子供は、親の言動に違和感や不快感を感じても、はっきり指摘したりなんかできないものだ。第三者がその歪みに気づいたタイミングで、本人に直接分かってもらえたら一番いいと、そう思っただけでね。——面識もない相手に刀で斬りつけるような行為だとは思ったけれど、話し合いの場にいる君やお母さんのことを思うと、黙ったままでいいとは思えなかった」


「——ありがとうございました、本当に」

 須和くんは、様々な感情の混じり合った表情で深く頭を下げた。


「電話での樹さんのやりとりを横で聞いてて、俺も実はちょっと冷や冷やしてたんだけどね。須和くんのお父さんと怒鳴り合いの喧嘩とかになったらどうするんだろう?って。

 結果的にいい方向に向いたみたいで、本当に良かった」

 俺も、一触即発の事態を青ざめつつ見守っていたあの時のことを思い返す。

「樹さんの言葉が、父にはすごく深く突き刺さったみたいです。

 母がコーヒーを入れ直して、やっと言ってくれました。『実際の事情を何も知らないくせに、その人たちの表面だけを見てけなしたり蔑んだりするのは、大きな間違いだわ』って」


「……お母さんが、そんなことを……?」

「ええ。

 今日、母から手紙を預かってきたんです。お二人に渡して欲しいって」


 須和くんが、リュックからシンプルな白い封筒を取り出し、俺に渡した。

 手紙を封筒から取り出す俺に神岡も寄り添い、一緒に内容を読んだ。


『三崎 柊様 神岡 樹様

 先日は、突然お宅へ押しかけ、大変身勝手で失礼極まりない振る舞いを致しましたこと、どうぞお許しください。


 三崎様が、部屋から抱いてきて私に見せてくださったお子様——晴くんのことを、あれから何度も思い出しておりました。

 あなたの抱いた健やかな赤ちゃんと、その笑顔。お子様を見つめるあなたの眼差し。そういうものを繰り返し思い出す度に、私の中の何かが少しずつ形を変えていくことを感じました。

 愛する人と共に生きて、新しい命を迎えたいと願う。誰もが生まれながらに抱いているそういう気持ちに、なぜ私は正しいとか誤りとかいう意味のないジャッジを勝手に下そうとしたのか。愛し合いたい、愛おしみたいと欲する気持ちに、正しいも誤りも存在などしないのに。

 ついこの間まで何の疑いも抱かなかった自分自身の姿が、これほどに醜く愚かなものだったと気づくなんて——自分の人生で初めての、堪らなく苦い思いの中に立ち尽くしています。

 これまでに思い出す限りの自分自身の言動一つ一つを、今、心から悔いております。

 これまでのあなた方への卑劣な仕打ちと、私がこういう浅薄な人間であったことを、どうかお許しくださいませ。  須和 伸恵』


 そこに綴られた丁寧な文字と思いに、俺たちは暫く黙り込んで何度も手紙を読み返した。


「母は、普段あまり喜怒哀楽を示さないタイプの人ですが、この手紙を俺に渡す時、微かに涙ぐんでいたように見えました。『翔吾にも、ずっと辛いをさせてしまったわね。どうか許してほしい』と。

 三崎さん。これまで失礼な振る舞いばかりだった母に、誠実に、真っ直ぐ向き合ってくださって、ありがとうございました。三崎さんの思いが、少しずつ、母の中に深く染み込んだのだと思います。

 ——俺、両親に自分のことを全部吐き出せてよかったんだと、今改めて思っています。自分のためだけじゃなく、きっと両親のためにも」


「——良かった。君がそういう場所にたどり着けて」


 ここにくるまでの幾つもの出来事を思い返しながら、俺は気づけばポツリとそんなことを言った。


「それから。

 俺、近いうちに家を出ようと思っています」

 その言葉に、俺たちは改めて須和くんの穏やかな顔を見た。

「両親とも、自由にしていいと言ってくれましたし。

 家賃などの負担を親にあまりかけたくないから、安い部屋を探そうかなって」

「……本当に、そうしないといけないの?」

「ええ。

 いろいろな意味で、自分自身にも区切りをつけたいと思うんです」

 彼は、一瞬だけ俺を見つめ、すぐに眼差しを逸らして淡く微笑んだ。


「僕たちが必要な時は、いつでも言ってくれ。今はどこにいたって繋がっていられる時代だ。

 僕たちはいつでも、君を応援してる」

 神岡が、須和くんを優しく見つめ、そう話す。

「うん、その通りだ。うちの子たちにもまたちょいちょい会いにきてやってよ。君みたいな心の真っ直ぐなイケメンお兄さんのいい影響を受けてくれると親としても嬉しいからね」

「あはは、いい影響になるかどうか。

 でも——そうですね。そうします」

 彼は、嬉しそうに笑顔を弾けさせた。

 須和くんのこんなにも明るい笑顔は、初めて見たような気がした。


「あ、あうーー!」

 近くに舞い降りてきた鳩を見て、湊が嬉しそうに手をパタパタさせて身を乗り出した。

 晴は後ろのシートで親指をしゃぶり、どうやら眠くなってきたようだ。

「また会いにくるな、晴、湊」

 須和くんの優しく静かなその声に、胸が不意にきゅっと震えた。


「——そうだ。

 一つ、アイデアを思いついた」


 神岡が、不意にそれまでの表情を切り替え、まるで頭の上に電球がついたかのようにパッと明るい目をして呟いた。









「というわけでね。

 以前君にも話した、家庭環境に苦しんでいた大学生の子が、晴れて親から独り立ちすることになったんだよ。一人暮らしする新しい部屋もこれから探す予定だ。

 家から外に出たら、交友関係は広い方がいいだろう?

 って事で、今度うちで彼の独り立ちパーティやるから、君にもぜひ参加してもらえたらなあと思ってね」


「カルテット」で髪をスタイリングしてもらいながら、樹は美しい微笑を浮かべて鏡越しの宮田に話しかけた。


「……その子って、もしかしたらあなたが以前もやもや嫉妬心に苦しんで家庭内トラブルになりかけた、相手の子ですよね?……名前はここでは言いませんが」

 宮田も、滑らかな手つきでハサミを操りながら微笑んで答える。

 さらっとかつ鋭い突っ込みを受け、樹は一瞬ぐっと黙り、小さく苦笑した。


「……その節は申し訳なかった、急に呼び出したりして。

 あの時の君の言葉に、僕たちは救われた」

「いえ。今のあなた達が幸せそうで、良かったですよ本当に。

 家を出る……っていうことは、親からだけでなく、三崎くんからも巣立とうとしているのかもしれませんね、彼は」

「——うん。そうなんだろうな」


 少し間を開けて、宮田はいつもと変わらぬさらりとした声で答えた。

「パーティ、もちろん喜んで参加させていただきます。大切な客としてもてなしてもらえそうで楽しみだ」

「ああ、もちろんだ。君には本当に色々と世話になってるからな。美味い肉をどっさり仕入れて待ってるから。詳しい日時はまた改めて連絡するよ」

「それは嬉しいですね。では楽しみにしています。噂のイケメン大学生くんに会えるなんてますます食欲が湧いてくる」


「…………おい」

「冗談ですって」

 鏡で視線を合わせ、二人は小さく笑い合った。



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