価値観
「……神岡、樹……?」
父親の顔が、みるみる蒼白になる。
翔吾が言葉を加えた。
「そうだよ。
——神岡工務店の副社長の」
母親も血相を変えて翔吾を見た。
「……神岡工務店の、副社長って……この前の、あの人のパートナーが?
……そんな……」
「彼本人から聞いたことだ。間違いないよ」
青ざめた額に血管を浮かべるほどの動揺を見せながら、父は声を震わせる。
「翔吾、お前は……つまり神岡工務店副社長のパートナーに惚れた、ということか? し、しかもそれを大声で怒鳴り散らしただと……? 一体どういう神経をしてるんだ!?
伸恵、お前もだ。そういう方々の家に突然乗り込むなど、とんでもなく失礼なことだとちゃんとわかってるのか!?」
「——私だって今初めて知ったのよ!
それに、早めになんとかしろと言ったのはあなたでしょう。何もかも家族に丸投げしておいて、全部人のせいみたいに言わないで!」
ここまでの忍耐の糸が切れたかのように、伸恵は夫をぐっと見据え、これまで夫に向けたことのない強い口調で返す。
相手の名前を知った途端激しく取り乱す二人の様子を、翔吾は冷ややかに眺める。
「——父さん。ついさっき、あの人たちのことを『そいつら』って呼んでたよね?」
「……っ、何だと? こういうことになったのは誰のせいだと思ってるんだ!?
翔吾、それだけ親しく交流していたならば、彼らの連絡先を知っているだろう。教えなさい。今すぐに謝罪しなければ」
父の剣幕に俯いて少し考えてから、翔吾はテーブルのスマホを取る。
「……あんなことをしてしまって、三崎さんと神岡さんには本当に申し訳なかったと俺も思ってる。
——三崎さんの番号なら知ってる。
俺がかけて、彼に話すよ。その後父さんに代わるから」
「わかった。とにかく今すぐ連絡してくれ」
「——」
翔吾が通話ボタンを押して間もなく、スマホの奥で応答する声がした。
『——もしもし。須和くん?』
「三崎さん……済みません、急に電話して。今、大丈夫ですか?」
『うん、大丈夫だよ。どうしたの?』
「いえ——この前の件を、今両親に話したんです。
そうしたら、父がすぐにお二人に謝罪したいと言うので」
『……俺たちに謝罪? ご両親との話し合いは、もう終わったの?』
向かい側で青ざめつつじりじりと待っている父の様子に、翔吾は曖昧に言葉を選ぶ。
「いえ……でも、まずは失礼をお詫びしたいと……この後、父から謝罪を伝えたいとのことです」
『……そっか、分かった』
「じゃ、父に代わりますね」
微かに震える手でスマホを受け取った父は、これまでと全く違う声音で話し出した。
「三崎様でいらっしゃいますか。突然のお電話、お許しください。
私、翔吾の父親の須和義之と申します。——この度は、息子と妻が三崎様と神岡様に大変ご迷惑をおかけしまして、誠に申し訳ありませんでした。
お二人に対しあまりに失礼な家族の言動をつい今し方知りまして、こうしてお電話させていただいた次第です。お部屋の玄関先であらぬことを騒ぎ立てるなど、どれほどお詫びを申し上げても足りません。
今後はこのようなことがないよう、家族へはきつく申しつけておきますので、どうかお許しください」
先ほどの横柄な態度から掌を返したように電話の相手へペコペコと会釈を繰り返す父を、翔吾は黙って見つめた。
『……謝罪のお言葉、ありがとうございます。お気持ち、確かに受け取りました。
では、神岡に代わりますので』
電話の奥の穏やかな言葉に、父親は一層表情を固くして相手が代わるのを待つ。
『——お電話代わりました。神岡です』
「神岡様でいらっしゃいますか」
神岡工務店副社長を相手に、その声はもはや上擦っているレベルだ。
強い緊張を押し殺すように、父は必死に言葉を続ける。
「須和翔吾の父の、須和義之と申します。
この度は、家の者がお二人に大変な失礼をいたしまして——お詫びのしようもございません。
今後はこのようなことがないよう、厳しく申し付けておきますので、どうぞお許しください」
スマホの奥から、艶のある穏やかな声が答えた。
『私は、パートナーから今回の件を伝え聞いただけです。私に対する謝罪など、全く必要ありません。
それより、ご家族のお話し合いがまだ途中なのではないですか?』
家族の話し合いの最中だということを知っているらしい神岡に、父は一瞬不思議そうにしながらも慇懃に答える。
「は?……いや、これほどご迷惑をおかけしながら、家族の揉め事などにかまけている場合ではありませんので」
『——須和さん。今回のことで、あなた方を非難するつもりは全くありませんので、どうぞご安心ください。
我々への謝罪などよりも、まずはご家族でちゃんとお話し合いをされて、息子さんの気持ちをしっかり受け止めてやるべきではないですか』
「いえ、そんな。そもそも、神岡様と存じ上げていればこのようなことは決してさせなかったのですが、本当に多大なご迷惑を……」
『……』
電話の奥が、一瞬すっと静まった。
そして、先ほどより一層穏やかな声が響いた。
『——相手が私だと知っていれば、このようなことはさせなかったのですか?
逆に、相手が私でなければ、今回のような振る舞いは問題ないと?』
「…………は?」
『私が神岡工務店副社長だと知った途端、私とパートナーへのあなたの偏見は全て解消されるのですか。
もしも私が「神岡樹」でなかったら、あなたは私たちにこのような謝罪を必死に述べましたか?
私の立場を知って初めて、こうして下手に出て機嫌を取る。私がもしも普通のサラリーマンや何かであれば、性的マイノリティなど軽蔑されて当然と——あなたの言葉からは、そういう空気が伝わります』
「……」
『それに、あなたが今向き合っていることは、単純な家族の揉め事などではないはずです。息子さんがあなた方へ向けて自分の思いを必死に訴えている最中に、それを放り出して私に対する謝罪などというくだらないことを優先させる。
何よりも、あなたのその価値観が歪んでいるのだと——あなたは、それに気づきませんか?』
「…………」
緊張していた父の視線が、何か別のものを見るように不安定に宙に浮かんだ。
『とにかく、今あなたに必要なことは、私たちへの謝罪ではない。あなたの大切なご家族の思いを、排除するのではなく正面から受け止めてやることです。
それができなければ、その時こそ私はあなたを心から非難します』
「————……」
スマホを取り落としそうに呆然とする父の様子に、翔吾はその手からスマホを静かに取り、電話に出る。
「……あ、あの……神岡さんですか? 翔吾です」
『須和くん? ああ、お父さんと今少し話をさせてもらったよ。
僕たちのことは何も考えなくていいから、とにかくご両親とちゃんと話し合いを進めたらいい。君の思いを真っ直ぐに伝え切れば、それでいいんだ。……わかるね?』
「……はい。
神岡さん、ありがとうございます、本当に……」
『応援してるよ。頑張れ』
穏やかに明るい声を残し、通話が切れた。
「…………父さん?
今、神岡さんとどんな話を……?」
「…………」
ただ黙って俯く夫の様子をしばらく見つめてから、伸恵が三人分のカップをトレーに戻して静かに立ち上がった。
「——コーヒー、入れ直しましょう。
すっかり冷めちゃったわね」
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