騒動(2)

「その話し合いは、ここではなく——どうかご家族でお願いします。

 ご両親と翔吾くん、全員が納得のいくまで」


 目の前で激しくぶつかり合う二人へ向けて言葉を放ち、俺は深く頭を下げた。


「——……」


 水を打ったように静まった中、俺は須和くんの母親の青ざめた顔をまっすぐに見据えた。


「繰り返しになりますが、先ほどのお話は、お受けできません。いただいたこの品物もお返しします。


 俺たちは、翔吾くんを心から応援しています。

 根拠のない偏見や差別意識でしか人を見られない、自分こそが正しいと勘違いしている人たちの色に染まらない彼の真っ直ぐな人柄が好きだからです。

 自身の道を必死に拓こうとしている彼を支えたいし、そのためにできることは何でもしたい。

 翔吾くん本人が俺たちとの関わりを断ちたいと言わない限り、俺たちは彼との関係を絶つ気はありません。

 それはもちろん、いい仲間としての交流です。それ以上に深い関わりは、俺たちの間には一切ありません」


 そして、須和くんを見て言葉を続ける。

「須和くん。今が君自身の生き方をはっきりさせる一つの分かれ道なのかもしれない。

 反発したい気持ちもあるだろう。けれど、今はご両親と向き合って、必要なことをちゃんと話し合うべきだ。

 その段階をしっかり踏んだ上で、俺たちが何か力になれるならば、どんなことでも言って欲しい。

 ——俺の言ってること、わかるね?」


「……」

 須和くんは、唇を強く噛み締めながら俺を見つめ返した。


 ふと、部屋で子供がぐずる細い声が耳に届く。

 いつもと違う声や毛羽立った気配を感じ取ったのか、晴か湊が目を覚まし、俺を探しているようだ。

「——すみません」

 小走りで部屋に戻り、ベッドに近づくと、晴がまん丸な顔を持ち上げ、俺のいない室内を見回しながら心細げに声をあげていた。

「あ、あう……あううあ」

 抱き上げた途端、嬉しそうに俺の胸に顔をすり寄せるその温もりが、泣けるほどに愛おしい。


 一番大切なことを、伝えなければ。

 晴を抱いたまま、俺は玄関先へ戻った。

 須和くんの横で顔を強張らせたまま立ち尽くしているその人へ、俺は晴をよく見せるように抱き直す。

「——お母さん。

 これは俺たちの息子です。双子の兄で、晴といいます」

 ここで起こった出来事の内容など知るはずもなく、晴は無垢な眼差しで母親の顔を見つめた。

 彼女は躊躇うように眼差しを上げ、晴をじっと見つめ返す。


「この小さな命は、あなたが思うように、気持ちが悪くて理解できない存在ですか?


 俺は、夫と子供達を愛しています。誰が何と言おうと。

 ここにある確かな思いは、誰にも否定などできないし、否定される筋合いもない。

 人が人を愛することの、どこが間違っているのか——あなたにそれが説明できるならば、聞かせてください」


 

「…………」


 晴を見つめる彼女の瞳が、一瞬、苦しげに歪んだように見えた。


「あ、ああー!」

 母親の手の中のポーチについたアクセサリが光るのを見つけたのか、晴が嬉しそうにふっくらと丸い手を伸ばした。

 晴の笑顔に応えて思わず差し出しかけた手を、彼女は我に返ったようにふっと引いた。


「——大変失礼しました。

 玄関先でこのように騒ぎ立てまして、お許しください。

 では、これで」

 母親はふと顔を俺へ向けると、するりとそんな挨拶を述べ、深く一礼をしてすっと玄関を出て行く。


「————ありがとうございます、三崎さん。本当に」

 様々な感情の入り混じった例えようもなく複雑な顔をしながらも、須和くんは柔らかな声で俺に頭を下げると、母に続いて玄関を出て行った。


 静かに、ドアが閉まる。

 その途端、力が抜けたように膝ががくりと勝手に崩れた。

 へたりと廊下に座り込み、腕の中の晴にぐりぐりと頬ずりしながら、俺はひたすらそのミルク混じりの甘い匂いを肺に吸い込んだ。


「…………晴。

 人生って、思ったよりもいろいろあるな…………」

「うきゃきゃきゃっ」

 晴は俺の頰を小さな手のひらでペタペタと叩き、楽しげに笑った。









 伸恵から少し遅れて部屋へ戻った翔吾は、そのまま自室へ向かうと机の上に置き忘れたレポートを探した。

 やはり、無造作に置いた本の下になっていた。

 だらりと力の入らない手で本をどけ、紙の束を取り上げる。

 今更これをリュックに入れて学校へ行っても、今日の講義にはもはや間に合わないのだが。


 ぼんやり課題を見つめていると、部屋のドアがノックされた。


「翔吾、いい?」


「——いいよ」


 振り返る顔を作るのがどうにも難しく、ドアに背を向けたまま答えた。


「……翔吾」

 ドアを入る気配がし、背後で母の小さく呟く声がする。


「——本当だよ。

 さっき言ったこと」



「……」


 手の中のレポート用紙を、思わずぎゅっと握りしめる。多分しわくちゃになるだろう。

 どうでもいい。翔吾は言葉を続けた。

「俺は、俺の生き方を捻じ曲げたりしないから。父さんや母さんが、俺をどう思ったとしても」


「……」


「俺、近いうち、ここ出て行く」



「——……」



 静まり返った時間が流れる。

 やがて、母が小さく答えた。


「——お父さんが帰ってきたら、ちゃんと話しましょう」

 その言葉に、翔吾はぐっと振り向いた。

「俺の生き方を頭から否定される話し合いなら、最初から聞く気なんかない。三崎さんがああ言ったとしても、あんたらの頭ごなしの差別意識に付き合う気なんかこれっぽっちもない」


「……そうならないように、話し合いましょう。三人で」


 これまでとはどこか違う母親の低い声と眼差しが、真っ直ぐ自分に向けられている。


「……バイトで遅いし、今日は無理だから」

「ならば、この週末にしましょうか」


「……」


 翔吾は再び机を向いた。




 果てしなく面倒だが、残りの講義をサボるのもまた憂鬱で、翔吾は駅へ向けて自転車を漕ぐ。

 秋の爽やかな青空が、頭上に広がっていた。


 全身で風を切ると、自分の心がよく見えてくるようだ。


 勢い余ってとんでもないことをしてしまったという自覚と、さっき駅へ向かっていた時とは全く違う心の軽さが、奇妙に同居していた。


 ——重く塞がった自分の心に突破口を開けるには、多分これしかなかったのだ。

 あの両親に、自分の抱えるものについて隠さず告げること。そして、彼らの側を離れてでも自分の思う人生を歩むのだと、はっきり示すこと。

 それができなければ、自分はこれからもずっと彼らの言いなりの「大人しい息子」のままだ。

 そんなもの、糞食らえだ。歪んだ自意識に凝り固まって淀んだ壁の中は、もう真っ平だ。


 これで、良かったのだ。



 ただ——

 何よりも大切にしていた恋は、たった今、終わってしまった。



 ついさっき自分に向けられた温かな声と微笑みが、脳に蘇る。

 決して届かないと最初から知っていた、それでもたまらなく慕わしいもの。

 あんな騒ぎにしてしまって、どれほど困惑させたか。

 それにも関わらず、彼のくれた言葉はこの上なく思慮深く、優しかった。


 これ以上、馬鹿な子供みたいに彼にしがみつくようなことは、したくない。


「…………

 あー、くそっ」

 気づけば勝手に言葉が漏れる。



 ひとつの道を選んだと同時に、選べなかった未来は手から零れ落ちていく。

 それでも——自分にとってどうしても必要な一つを、選び取らなければならない時がある。


 思わず溢れそうになる熱いものがやたらに悔しくて、翔吾はぐっと歯を食い縛りながら空を仰いだ。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る