騒動

「いってきます」

 10月の半ば、月曜の昼少し過ぎ。

 息子の声に、須和伸恵はダイニングテーブルで開いていた雑誌から顔を上げた。


「翔吾。今日は大学の講義の後、そのまま夜までバイトだったわよね?」

「……そうだけど、なんで」

「ん? 夕ご飯どうしようかなと思って。一応作っとくわね」

「いいよ別に。友達と外で食べる」

「……そう。行ってらっしゃい」


 素っ気ない返事で玄関へ向かう翔吾の横顔をさりげなく窺う。

 玄関を出た息子の足音が遠ざかるのを確認し、ふうっと大きく息を一つ吐いた。


「——早いうちに、どうにかしなきゃいけないんだし」

 暗い眼差しを上げて椅子から立ち、伸恵は小さく呟いた。









 自転車で駅へ向かう途中、翔吾ははっとして思わずブレーキをかけた。

 今日の授業に提出しなければならないレポートを、カバンに入れただろうか?


 リュックに詰めたテキストやノートの間までくまなく探すが、やはり見つからない。

 10月に後期授業が始まって、まだ半月だ。こんな初っ端から課題の提出期限を守れないなんて、教授から変なマークをされるのはまっぴらだ。

 翔吾は急いで自転車をUターンさせる。


 電車が何本か遅れれば、多分講義に間に合わない。至急取りに戻って再度駅へダッシュしてギリギリだろうか。もう少し余裕を持てばよかったと後悔しつつ、立ち漕ぎで疾走する。

 マンションの駐輪場へ慌ただしく自転車を止め、自宅のある4階へのエレベーターのボタンを押す。

 4階に到着し、エレベーターを降りると同時に、隣のエレベーターに乗り込む女性の背中が視界に入った。

「……あ」

 見慣れた後ろ姿。

 今のは、母親だ。

 手に何か紙袋らしきものを持っているのがちらりと見えた。主婦仲間の誰かに手土産と挨拶とか何かか。いかにも世間体を気にするババアらしくそういうのがやたらと多い。

 母は家を空ける際は大抵鍵をかける。いま部屋へ入ろうにも玄関は施錠されているはずだ。リュックのポケットに手を突っ込んで家の鍵を探すが、それも見つからない。今日は鍵を持って出るのも忘れたようだ。ついてない日はとことんついてない。

 小さく舌打ちしつつ、エレベーターの表示を睨んで母の降りる階を確認する。追いかけて家の鍵を直接受け取らねばならない。

 母の乗ったエレベーターはノンストップで上へ上がり、10階に止まった。

 玄関の開いている可能性に賭けて自宅まで走り、ノブを引いてみるが、やはり開かない。

 苛立たしい気持ちを抑えきれず、到着したエレベーターへ駆け込むとバシバシと乱暴に10階を指定する。

 一秒も無駄にはできない。母のスマホへ電話をかけてみるが、予想通り出ない。大体一度で出た試しがない。


 10階で降り、通路をぐるっと見渡した。運よく母親の姿が見えたりすればと思ったが、広いマンションでそう都合よくはいかない。

 ジリジリと焦る思いで、もう一度母のスマホに電話をかけた。

 やっとコール音が途切れる。

『翔吾、どうしたの? 今ちょっと電話無理なんだけど……』

 電話の奥に母の声が聞こえると同時に、ある部屋の玄関からスマホを耳に当てた女性が通路へ出てくるのが視界に入った。


「……」


 通路へ出てきたのは、母だ。


 そして、今母が出てきた玄関は——


 三崎と神岡たちの住む部屋だ。

 間違いなく。


 次の瞬間、翔吾は母に向かって猛進していた。









「会社の下半期の滑り出しを確認できるまで、もう少し出社しても大丈夫だろうか?」

「ええ、あと半月ぐらい、平気ですよ」

 神岡とそんな会話をした週末の開けた月曜、昼下がり。

 子供達が安らかな寝息で昼寝を始めた頃、玄関の呼び鈴が鳴った。

「はい。どちら様でしょう?」

 そう問いかけたインターホンの奥から、中年の年頃と思われる女性の声が流れた。

『突然お邪魔いたしまして、申し訳ございません。

 私、須和伸恵と申します。

 須和翔吾の母でございます。

 いつも息子が大変お世話になっております。

 本日は、そのご挨拶に伺いました』


 肩がギクリと震える。


 ……え?

 須和くんの、お母さん……?


 一気に混乱する脳内で、この状況を整理する。

 彼の両親の話は、既に須和くんからいろいろと聞いている。

 強い偏見や差別意識を持ち、何かにつけてマウントを取りたがる父親と母親。

 須和くんの話では、彼らは俺たち家族についてもどうやら偏見に満ちた噂話を仲間内で繰り返しているようだ。

 そんな、俺たちにとって最悪の敵とでも言うべき存在が、今玄関の外に来ている……つまり、そういうことか?


 インターホンに答えようとする声が、思わず硬く強張る。


「——はい、少しお待ちください……」


 本当に、挨拶をしに来ただけなのだろうか、この人は。

 そんなはずはない。

 本来ならば近寄りたくもない種類の人間の家に、こうして乗り込んでくるなんて。

 彼女は、今日果たすべき明確な目標を持ってここに来たとしか思えない。


 こうなってはもはや居留守を使うこともできず、あまり相手を待たせるのも不自然だ。

 ——神岡に、「もう行かないでくれ」と言うんだった。

 いや、そんなことでどうする。男だろ。

 俺は大きく息を吸い込むと、強烈な緊張を振り払うべく廊下を大股で歩いて勢いよく玄関を開けた。


 そこに立っていたのは、50代前半くらいだろうか、すらりとした印象の女性だった。

 涼しげな目元は、どことなく須和くんに似ている。ブラウンカラーの肩くらいの髪を緩くウエーブさせた、小綺麗な女性だ。

 けれど、どこか刺々しい空気と明るさのない表情に、美しさも何もかき消されるように見えた。


「突然お伺いしまして、申し訳ありません。

 私、須和伸恵と申します」

 その人は、浅く微笑んで再びそう名乗ると丁寧に頭を下げた。

「……初めまして。三崎柊と申します」

 とりあえず浮かんだ挨拶をして、深い礼を返す。

「こちらの皆様に息子が大変お世話になっておりますことを、つい最近まで知りませんで……ご挨拶が遅れましたこと、お許しください。

 これはほんの気持ちですが」

 そう言いながら、彼女は手にしていた紙袋を差し出した。

 よく知っているブランドの、菓子折か何かのようだ。

「いえ……こちらこそ……」

 差し出されたままにぎこちなく品物を受け取る。

 彼女の真意を掴めない不安で、上手く返事が返せない。そして恐らく、今は返事の一言一言に拘っている場合でもない。


「今日ご挨拶に伺いましたのは、これまでのお礼と、それから——

 大変申し上げにくいのですが、今後は少し息子との距離を置いていただきたく思いまして……そのお願いに上がりましたの」


 慇懃さの中に鋭い冷ややかさの潜んだ微笑が、俺に向けられた。

 良識ある態度で軽蔑を綺麗にくるんで相手に突き出すような——今までに出会った顔の中で最も気分の悪い表情だ。 


 俺の何かのスイッチが、不意に入った。


「——申し訳ありませんが、今のお話はお受けしかねます」


「……は?」

 俺が断るはずがないと思っていたのだろうか、彼女の目が一瞬見開かれる。


「そもそも、今のお話はここでされることではないはずです。

 あなたと息子さんで話し合うべきことではないですか?」

「今回の件は——息子は私の話を頑として聞こうとしません。これまで、親に対してあんな強い拒否を示したことなどなかったのに。

 こちらの皆様がこれまで翔吾とどのようなお付き合いをされていたのか、実際のところ夫も私も困惑しております」

 彼女の眼差しが、鋭さを増す。


「……」

 俺は思わず言葉に詰まった。


 その時、彼女の手にしていたポーチの中でスマホがブブブ、と震えた。

 一度目は出ずにいたその着信の相手を再度確認し、今度は彼女はポーチからスマホを取り出した。

「——すみません、ちょっと電話で」

 そのまま、彼女はスマホを耳に当てながら一旦玄関を出て行く。


 彼女の姿が消えた瞬間、俺は思わずふうううっと大きな息を吐いた。

 話に聞いていた通り、なんとも強烈な母親だ……本当に、気分が悪くなりそうだ。

 壁にごつっと額を当てながらそう思った瞬間、玄関の外で男の大声がした。

「なあ、ここで一体何やってんだよっ!!?」

「ちょっ……翔吾、どうしてここに……」

 その直後、ドアが強く開けられ、強張った形相の須和くんが玄関に飛び込んできた。背後から母親が必死に場を収めようとするが、彼の勢いが収まる気配はない。

「三崎さん……本当に済みません! 母が、何か失礼なこと言ったんですよね!?」

「翔吾やめて、こんなところで大声、恥ずかしいでしょう!」

「は? 恥ずかしいのはあんただ。俺のいない間にこそこそと。

 ここに何しにきたんだよ!? 俺の気持ちと向き合おうともせずに三崎さんに文句タレに来やがったのかよ!?

 あんたらが聞きたくないだろうと思って今まで黙ってたけどな。俺は三崎さんが好きなんだ。惚れてるって意味の好きだからな。わかったかクソババア!!」


「……翔吾、あなた、一体何を……」



「————やめてください」


 ひたすら俯いてこの一部始終を聞いていた俺は、静かに顔を上げた。


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