突破口
「行ってきます」
息子の足音が玄関から遠ざかると、伸恵はダイニングテーブルで肘をつき、腕で両耳を塞ぐように深く頭を抱えた。
気持ちを鎮めようにも、収拾がつかない。
がたりと立ち上がると、冷蔵庫を開けてペットボトルのミネラルウォーターをグラスに注いだ。
冷たい水が、喉を通っていく。
つい今しがた、三崎の部屋で起こった騒動と、息子と交わした会話が、耳に蘇る。
『俺は三崎さんが好きなんだ。惚れてるって意味の好きだからな。わかったかクソババア!!』
『——本当だよ。さっき言ったこと』
「……」
新たな溜息が、無意識に漏れる。
自分達がこれまで当然のように噂し合い、口を極めて憐れんできた「気持ち悪くて理解できない人たち」。
息子が、その「理解できない」側にいる——。
よりによって、自分の息子が。
自分の中の性的な違和感に、翔吾はいつ頃から気づいたのか。
そう言えば、思春期を迎えても息子から異性の気配などを感じたことは一度もなかった。
何れにしても、親が何の憚りもなく口にする偏見めいた言葉を、彼はこれまでずっと黙って聞いていたということだ。その噂話は、まるで自分自身のことを言われているように聞こえたはずだ。
ただ黙って、ひたすら耐えていた翔吾。
そして今日、彼がとうとう振り下ろした大きな斧。
今、その巨大な亀裂と振動が、自分達の足元をグラグラと揺さぶっている。
——いや。
この足元の亀裂は、今日突然できたものだろうか?
思い返せば、冷ややかで自己中心的な夫とも、歳を経てすっかり口数の減った息子とも、もうずっとまともな言葉のやりとりなどしていなかった。
家族の悩みや苦しみに気づき、深く向き合う。そういう仕事は自分には縁がないと思っていた。一流企業の昇進コースにいる夫と、志望通りの有名大学に合格した真面目な息子。表面に浮き上がる大きな問題点は、これまで何一つなかった。自分はそういう家の妻として、優越感を纏って微笑んでいればよかった。友人達と賑やかにお茶でもしながらその優越感を振り撒けば、家の中の暗さや歪みなどどうでもいいことに思えた。
これまで自分は、家族を——息子を、正面から見つめたことがあっただろうか。
自分は母親として、翔吾の心の深い部分を感じ取ろうと努力したことが、これまでにあっただろうか……?
目の前の水のグラスを見つめ、思考の奥深くへ沈んでいた伸恵を、スマホの着信音がふっと現実に引き戻した。
翔吾からのメッセージだ。
『週末に話し合う件は、俺から父さんにちゃんと自分のことを伝えたい。
今日あったことを母さんから父さんに話す形じゃなく——俺から、改めて二人に全部話したい。
だから、今日父さんが帰ってきたら、週末に俺が何か話したいことがあるようだって、それだけ伝えてほしい。
よろしくお願いします』
『わかったわ』
伸恵は、それだけ返す。
翔吾も、自分自身のことについて親に打ち明ける準備を既に始めているのだろう。
家族のこと、子供のことに、真剣に向き合う。表面だけ綺麗に取り繕って誤魔化そうとしていたその内側を、逃げずに見つめ、問題と向き合う。
今までずっとできずにいたことが、こうして大きなつけになって目の前に立ち現れたのかもしれない。
だとしても——
息子の性的指向についての事実を知った衝撃は、容易に軽くはならない。
これを知ったら、夫は一体どんな反応を見せるだろう。
そして、翔吾は将来、結婚も、家族という形も、手にすることができない——つまり、そういうことだろうか?
グラスに残った水を一気に飲み干し、伸恵はテーブルに両腕を重ねて額を強く押し付けた。
*
「ただいま」
「樹さん〜〜〜〜〜!!!」
夜10時過ぎ。
帰宅した神岡に、俺は玄関先でガバッと飛びついた。
「な、何、どうしたの柊くん!?」
「今日は、ちょっとすごくいろいろあって……はあ、まだ心拍数が落ち着いてない……マジで怖かった……!!」
「え、怖いって……何があったの!?
と、とりあえず君も子供達も無事だったんだよね!?」
「ええ、命に別状はありません。病気とか怪我とか事故とか、そういう案件ではないので」
「ふううう〜〜〜……よかった。今、一瞬心臓止まるかと思ったよ。
とりあえずは家族全員無事だって事で、まあ何があっても概ね一件落着だな!!」
神岡が、そう言って明るく笑う。
その笑顔に、ざわざわと動揺が収まらなかった俺の気持ちは、ふっと穏やかさを取り戻した。
「——うん。そうですね。本当に」
その通りだ。
家族全員元気なら、どんな事だってまずは大丈夫なんだ。
「——すみませんでした、なんか取り乱して。詳しい話は、食事の時にしますね。
夕飯、まだでしょう? すぐ準備します」
神岡の腕から姿勢を戻し、やっといつもの笑顔と言葉が出た。
「ん、ありがとう。じゃあシャワー浴びてこようかな」
神岡も、いつもの笑みでスーツのジャケットを脱ぐ。
やっぱり、この人と生きられて、俺は幸せだ。
俺はこうしてエンドレスにこの人に惚れ直さずにはいられないのである。
今日は、秋の味覚たっぷりの具沢山味噌汁を作ってみた。里芋、しいたけ、舞茸、豚肉、油揚げ。旬の食材は心と体に元気をくれる。
様々な具材から出た旨味のぎゅっと詰まった味噌汁をしみじみと味わいながら、神岡は今日の出来事を話す俺の言葉をじっと聞いていた。
「——須和くんの母親の、礼儀正しさの奥に人を蔑むようなあの空気は、本当にきつかった。息をするように他人を見下す人っているんだなと……それでも、話をするうちに、彼女の何かが微かに変わったような……気のせいかもしれませんけどね。
彼女のあの刺々しい空気を思い出すほどに、須和くんに厳しい事を言い過ぎたかもしれないと、後からとんでもなく後悔してしまって。
あの親に、自分自身のことをしっかり話し、今後についてちゃんと話し合うべきだなんて……彼にとってどれほど重圧だろうと思うんです。その判断は、須和くんに任せるべきだったんじゃないかと。
それでも、今俺が何かメッセージを送ったりするのは、ますます彼の心を引っ掻き回してしまう気がして……」
手にしていた椀と箸を置き、彼は真っ直ぐに俺を見た。
「いや。
君は今日、須和くんにとって大切なことを全て伝え切ったと、僕は思うよ。
自分自身のことを話せないままでは、彼はあの両親の固い壁からは決して出られないだろう。偏見や差別意識の強い親ほど、子供にも自分達の納得のいくものを求めるし、強引に押し付ける。真面目で物分かりのいい息子の殻をぶち破らない限り、彼自身の幸せに手を伸ばすことなどできないはずだ。
今日のことはきっと、彼が大きく一歩を踏み出す突破口になる。自分自身の人生を、自分の力で選び取るためのね」
「……よかった。俺、間違っていなくて。
今のあなたの言葉を聞いて、やっと心臓が静まりました。
もしも、俺のせいで彼と家族がめちゃくちゃになってしまったらどうしようと、あの後ずっと怖くて……」
「万一そうなっても、それは君のせいじゃない。
必要な言葉を伝えたせいで壊れてしまうようならば、それは彼自身の考え方や家族そのものに問題があるんだ。そこから先は、彼らが向き合い、解決しなけなければならないことだよ。
君の今日の言動は、正しかった。僕が君の立場でも、きっと同じことを言っただろう」
「……
ありがとうございます、樹さん……」
じわっと涙が込み上げそうになる。
胸をがんじがらめに縛り上げていた冷たい鎖がやっと解け、俺はようやく肺いっぱいに大きく息を吸い込んだ。
「……そうか。
やっぱり彼、君にがっつり惚れてたんだな……怒りに任せて母親に宣言しちゃうほど」
再び味噌汁を手にし、汁をずっと啜ってから、彼はしみじみとそんな言葉を付け足す。
「……」
ちょ、待て……
確か今、めっちゃしんみりしたいい空気になってたよな!?
このタイミングでそこ突っ込んじゃうか!?
俺の新たな動揺をちらりと見て、彼はクスっと笑う。
「冗談だよ、ごめん。
『誰が何と言おうと、自分は夫と子供達を愛している』と、——君は今日、はっきりと彼らにそう告げてくれた。
僕には、何よりもそのことが一番嬉しかったんだ。
ありがとう、柊くん」
優しい眼差しが、微かな熱を含んで俺を包み込む。
な、何だよ急に……そんな眼、いつぶりだよ!? 何だかプロポーズとかあの辺りの甘々きゅんが蘇っちゃうじゃんか!?
「——そんなふうに改まらないでください。俺の中では当然過ぎるほど当然なんですから、そんなこと。
あー。ホッとしたら何だか小腹空いてきたし、俺も味噌汁飲もうかなっ!」
俄かに熱くなる頰を何とか誤魔化しながら、俺は勢いよく椅子から立ち上がって湯気の上がる鍋の蓋を開けた。
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