負ける気がしない
『うん、わかった。
じゃあ、来週土曜日にいつものカフェで会おう』
以前親しくしていたママ友達からのメッセージが、紗香のスマホの画面に表示された。
無意識に強く握りしめていたスマホをテーブルに置き、紗香はふうっと大きな息を吐く。
——計画の第一段階は、どうやらうまくいったようだ。
9月も今日で終わる。外はもうすっかり秋めいた風が吹いているのに、気づけば脇にじっとりと変な汗をかいていた。
今から数日前。
幼稚園のママ仲間による自分の「グループ外し」の件を三崎に相談して以降初めて、三崎からメッセージが届いた。
『例の問題の解決策を神岡と話し合ってみたんですが、試したい方法が見つかったんです。そこで、一つお聞きしたい点があって。ママ仲間の中で、以前紗香さんと特に仲良くお付き合いしていた方って、どなたかいらっしゃいますか?』
先日の自分の告白が三崎や神岡を困惑させ、もしも彼らが自分への態度を変えてしまったら……そんな不安に付きまとわれていた紗香は、いつもと変わらぬ三崎のメッセージに安堵の息をついた。
『ええ、親しくしていたママはいますけど……最近はもうやりとりも全くありませんが』
『もし可能ならば、その方に連絡を取ってもらえないでしょうか? 俺たちとの交流を
紗香の心臓はどきりと音を立てた。
この状況を改善するには、やはり自分達は交流を止めるべきだ……彼らは、つまりそう言いたいのだろうか?
『待ってください。
私、三崎さんや神岡さんとのおつきあいを止めようなんて、これっぽっちも思っていません! なのにどうして……』
『あ、そうですね。済みません。順序よく説明しますね』
紗香は、三崎から今回の計画について詳しい説明を受けた。
ママ仲間の中で、一人でも自分の味方をしてくれそうな存在を説得し、グループ外しに反対する気持ちを表明してもらえるならば、今回の件が解決に近づく可能性がある、と三崎は言う。
説得を行うために、まずはその存在を何とかして話し合いの場に呼び出す必要がある。「交流を断ってグループへ戻りたい」と持ちかけるのは、相手の警戒を解き確実に呼び出すための止むを得ぬ手段だ。
相手を呼び出した場所に三崎と神岡も出向き、二人が直接彼女と話をしたいという。
紗香の中で、希望と緊張が複雑に入り混じる。
『……でも……やっぱり、少し怖い気がします……その方法で、私たちの気持ちをちゃんと理解してもらえるかどうか……
それに、彼女がグループへの反感を表明する仕事を引き受けてくれた場合、私同様仲間外れになったりする場面をどうしても想像してしまって……
もしも、彼女を自分と同じ苦しみに引き込んでしまったら……』
少し時間を置いて、三崎から返信が届いた。
『紗香さんがそう思うのはよくわかります。
でも……そのママの人柄を、もう一度思い出してみてください。
周囲の圧力に流されて、友人を見る目まで変えてしまうような人でしたか?
人と人が関わる時って、お互いに大体同じレベルの思いで向き合ってるんじゃないかと、俺は思うんです。
紗香さんがその人を慕わしく思うのと同じレベルで、きっと彼女も紗香さんのことを大切に思っている。
そして、押しの強い第三者の意見が割り込んできた程度では、その気持ちが急に変化してしまうことなんてないんじゃないかっ、て。
もし逆の立場だったら、紗香さんだってそうでしょう?
こんな風に親しい友人を仲間はずれになんか絶対にしたくないと、彼女も本心では思っているはずです。
——彼女がそう思ってくれていることを信じて、行動してみませんか?』
三崎に言われた通りに、紗香は大切にしていた友人のことを思い返す。
華やかに目立つタイプではないけれど、いつも穏やかで温かな思いやりのある人だった。
確かにそうだ。
彼女の心が、一瞬で冷ややかなものに変わってしまうとは、どうしても思えない。
『怖がって立ち竦んでいては、何も変わりません。
どんな一歩でも、踏み出せば必ず何かが得られる。——これ、怖気付きそうな時にいつも自分に呟いている言葉なんです』
真摯な三崎の顔が、画面の向こうに見えるようだ。
このまま黙って引き下がりたくはない。そう思って彼らに相談を持ちかけたのは、他でもない自分自身じゃないか。
紗香は、指に力を込めて返信の文字を打ち始める。
『わかりました。やってみます。
私のために、お二人にこんな形で解決法を探ってもらえるなんて——どんなに感謝しても足りません』
『いえいえ、計画がうまくいくかどうかはこれからですから。
それに——これは、紗香さんだけの問題じゃありません。
俺たちと同様の境遇にいる全ての人が抱える、途方もない痛みを伴う問題です。
黙って泣き寝入りなど、できませんよね。絶対に』
その文字から、彼の強い思いが迸るように溢れ出す。
『ええ。そうですね、本当に!』
そんな明るい返信と一緒に、紗香はマッチョなゴリラが巨大な上腕二頭筋をアピールするスタンプを貼り付けた。
先程届いたママ友達からのメッセージを、紗香はもう一度読み返す。
以前は毎日のように聞いていた彼女の温かい声が、耳に蘇る。
「大丈夫。——まどかさんは、きっと」
自分自身に言い聞かせるように、紗香は小さく呟いた。
*
9月の最終日、金曜。午後3時少し過ぎ。
紗香さんからメッセージが届いた。
『例のママ友達と会う約束ができました。来週の土曜日、午前10時です』
「よし、まずはクリアだ」
その内容に、俺は小さくガッツポーズを作った。
紗香さんに今回の計画の話をしたのが、今週火曜日。ママ友達に約束を取り付けられるか、内心ずっと気になっていた。
約束の当日は、紗香さんに言っておいた通り俺と神岡もそこに出向き、紗香さんの味方になってくれるようその人を説得しなければならない。
うまくいくだろうか。
ふうっとひとつ、緊張の息が漏れる。
ふと、ベビーベッドの上がもぞもぞと動く。
子供達が午後の昼寝から目を覚ましたようだ。
張り詰めた気持ちが、もこもこと丸く柔らかい体を動かし始めた二人の姿にふっと切り替わる。
「二人ともお目覚めだなー。遊ぶ前に、麦茶飲もうな」
ストロー付マグ2つにベビー用麦茶を注ぎ、子供達をベッドから降ろす。ベビーチェアに座らせてそれぞれのスタイを首につけると、二人とも「待ってました!」というように目を輝かせて麦茶を催促する。
一生懸命に小さな両手の指でマグを掴み、一心にストローを吸う彼らの表情は、少し前のミルクオンリーだった赤ちゃん時代からまたぐんと少年へ近づいた。
飲むことにぐっと集中するその瞳は、既に男としての凛々しささえ湛えており、いくら見つめても見足りない。
これがそのうちコップになり、やがて中身がオレンジジュースやコーラになり、あっという間に中ジョッキとかになっちゃうんだろうなあ……なんて切ない妄想まで始まったりする。
子供の成長は、なぜこんなにも早いのだろう。
親を必要としてくれる時代なんて、多分ほんの一瞬だ。
だからこそ、今をしっかりと目に焼き付けておきたい。
過ぎ去ってしまえば二度とない、この一瞬一瞬を。
改めて、そんなことを思う。
「うきゃっ♪」
晴は、飲み終えたマグをテーブルにコンコンとぶつけながらご機嫌だ。この遊びが最近の彼のマイブームだ。自分で音や振動を作ることが楽しいのかもしれない。
「うぐ、うぶぶ……」
湊は、もうフロアで遊びたくてうずうずしているようだ。俺を見上げる瞳が「降ろしてくれ」と訴えている。椅子からマットへ降ろしてやると、待ち切れないとばかりにお気に入りのおもちゃへと突進していく。
……ご覧いただけただろうか?
湊は、最近ついにずり這いをマスターしたのだ。その技術はめきめき上達し、好きなものに対してはかなりの速度で接近できるようになった。
対象物を真っ直ぐに見つめる目。ふっくらと小さな手足や丸いお腹、お尻をむくむくと目一杯動かしながらほふく前進し、目標へと到達した瞬間に見せる満面のドヤ顔。その全てが愛おしすぎて脳がキャパオーバーになる謎の現象を体験している俺である。この瞬間を見逃している神岡が、心からいたわしい。
そんな弟の様子を、晴はクリクリの瞳でじっと観察している。ずり這いにも目下あまり興味を示さず、「湊、頑張れ」とでも言いたげな佇まいだ。いやお前もやるんだぞ晴。
何というか、面白いほどに対照的な双子である。
何はともあれ、この上なく健やかに育ちつつある二人を見つめながら思う。
男二人で、出産と育児に向き合うことを選択した俺たち。
そんな俺たちのもとに生まれ、こうしてパパ二人に育てられる、彼ら二人。
こんな家族が、何の憂いもなく「家族のひとつのスタイル」として存在できる時代が、遠からずやってきますように。
愛おしい。
この世で最強のこの感情の前には、他の条件など何一つ必要ないのだ。
「——何としても、今回の計画を成功させましょうね。紗香さん」
気づけば、先程の弱気な緊張感は俺の中から完全に消え去っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます