10月初旬、約束の土曜日。午前10時少し前。

 俺と神岡は、家から車で10分ほどの場所にあるキッズカフェに来ていた。

紗香さんが、ママ友達の新田まどかさんを約束の10時にここへ連れて来る予定になっている。


 ここは、予約制で個室をゆったりと使える子連れ家族専用のカフェだ。壁も床のプレイマットもカラフルなパステルカラーで彩られ、キッズジムやおもちゃなどをたっぷりと備えた明るい室内に、晴も湊もテンション爆上がりである。

 マットの上に座った俺たちの膝から、二人は早速もぞもぞと降りたがる。

「やっぱりママ達の情報って素晴らしいな。こんなに楽しいカフェが近くにあるなんて少しも知らなかったよ。晴、湊、今日はこんないいとこ来られてよかったなー」

 高速ずり這いを開始した湊と、前方のおもちゃを捕えるべく腹ばい姿勢で手足をもごもごさせる晴を見ながら、神岡はいつもと全く変わらぬのんびりした調子で微笑む。

 まあ、もともとこういうヘンジン的なところのある人だけど……まさか今日やるべきことをすっかり忘れてるとかじゃないよな!?


「あの、樹さん……紗香さんのためにも、これから来るママの説得はやっぱ失敗できない大仕事ですよね……緊張とかしないんですか?」

 ざわつく不安を隠せないまま、俺は神岡の表情を窺う。


「ん、緊張なんてしても仕方ないだろ? 僕たちのやることはもう決まってるんだし。——これまでの僕たち二人の道のりと、こうして子供達の親になった今の思いを、包み隠さず聞いてもらう。それだけだ。

 そこから先は、僕たちの話を聞いた彼女の判断に任せる以外にないよな。

 ほら晴、ボール行ったぞー」

 柔らかなブルーのボールを晴のすぐ側へと優しく転がしながら、神岡は穏やかにそう答える。


「……そうですね」


 やはり、神岡は今日の仕事を適当に済ますつもりなどないのだ。

 むしろ俺よりもずっと冷静に、今日やるべきことの意味を深く考え、準備をしっかりと整えてある。

 紗香さんのがわについてもらう、ということは、つまり俺たちの立場をその人に理解してもらう、ということだ。

 けれど、神岡の目指している「理解」は、卑屈になって頼み込むようなこととは全く違うのだろう。

 俺たちの苦しみを何とかして分かってもらうのではなく、この一瞬一瞬を必死に生きてきた俺たちの姿を、そのまま伝える。それでも分かり合えない人に、無理やり理解を求めて頭を下げる必要など一切ない。彼の言葉の裏側にはそんな強い姿勢も感じられる。


 こういう時いつも、この人の器の大きさを見せつけられる。男として心底憧れるし、ちょっと悔しくもある……というか性懲りもなく惚れ直す。



 窓の外に、ピンクのベビーウェアの赤ちゃんを抱いたすらりと背の高い女性が紗香さんと一緒にこちらへ歩いてくるのが見えた。


「僕たちは、普段通りにしていよう。それがきっと、一番いい結果に繋がるよ」

 俺に向けてさらりと微笑んでから、神岡は微かに表情を引き締めた。









「実はね、今日はご近所さんも誘ってあるんだ。とっても素敵なご家族だから、ここでまどかさんと引き合わせられたらと思って」

 部屋のドアの外で、紗香さんが友人にそう話す声が聞こえる。

 同時に、ガチャリとドアが開いた。


「——……」


 俺たちを見た新田まどかさんは、その瞬間はっとしたような表情になり、やがて微かに青ざめた。

「あ! はるくんとみーくんも来てる! ママー、りくもおろして〜!」

 部屋に駆け込んだ優愛ちゃんの弾けるような声と対照的に、まどかさんは細い声で紗香さんに問いかける。

「ね、ねえ紗香さん、これどういう……」

「こんな風に呼び出して、ほんとにごめん。

 でもまどかさん、お願い。今日は私たちの話を、少しでもいいから聞いて欲しいの。

 まどかさんの笑顔を何度も思い出して、きっと話を聞いてくれるって思ったから、今日は勇気を振り絞って誘ったの」

「ごめん、困る。私……」

 まどかさんの動揺が伝わったのか、その胸に抱かれた赤ちゃんがぐずりだした。

「う……うあう……」

陽奈ひな、ごめん、後でミルクあげるから」

「ひなちゃん、いっしょにあそばないのー? どうして?」

「ごめんね優愛ちゃん、今日はもう帰らなきゃ……紗香さん、ごめん」

「まどかさん……」


 逃げるように部屋のドアへ向かうまどかさんの背に、神岡の声が飛んだ。


「——随分と冷たい人ですね、あなたは。

 友人の心からの願いなど知るか、ということですか。

 あなたのように心の底から冷え切った方とお話する気は、こちらも全くありません。

 どうぞ、そのままお帰りください」



「————」


 まどかさんの足が、ピタリと止まった。

 そして、ゆっくりと振り向く。


「…………私はそんな人間じゃない」


「そうですか。

 ならば、部屋から出ていく必要はないでしょう?」


 まどかさんは、一瞬ぐっと俯いた。

 そして、意を決したように唇を噛み締めながら、紗香さんの側へと戻って来た。

 ぐずりかけた自分の娘を、マットの上に降ろす。


「——優愛ちゃん、陽奈も一緒に遊んであげてね」

「うん! ひなちゃん、つみきであそぼう!」

 優愛ちゃんが、優しく陽奈ちゃんを抱き上げて子供たちのところへ連れて行った。


「——初めまして、新田まどかさん。

 僕は、神岡樹と言います。どうぞよろしく」

 そんなまどかさんに躊躇なく歩み寄ると、神岡は丁寧に頭を下げ、柔らかく微笑む。

「神岡のパートナーの、三崎柊です。どうぞよろしく」

 俺もその隣へ立ち、ぐっと頭を下げた。


「——新田まどかです。

 済みません、お恥ずかしいところをお見せして……突然のことで、気が動転してしまって……」

「いいえ。こうして戻ってくださって、嬉しいです……やはり紗香さんの選んだお友達だ」

「まどかさん。騙すようなことして、驚かせてごめん」

「……謝らなきゃいけないのは、私の方だよ……本当に」

 まどかさんは、紗香さんへ弱く微笑んだ。





* 





 オーダーしたコーヒーや軽いサンドイッチなどが、部屋のテーブルに運ばれた。

 だが、今のところ軽食に手を伸ばす余裕はない。

 神岡と俺の話を、まどかさんはじっと黙ったまま聞いていた。


 俺たち二人が、どう出会ったか。どんな道のりを経て、共に歩むことを決めたか。

 自分が妊娠できるかもしれないと知った時の驚きと不安、それを上回る希望。

 危険だと承知の上で、新たな命を迎えたいと望んだこと。

 様々な苦みや痛みを味わいながらも、晴と湊を家族に迎えることができた喜び。

 子供達へ向けて溢れ出す、言い尽くせない愛おしさ。

「幸せ」には、愛情以外に必要な条件など、何一つないのだと知ったこと。



「——まどかさん。

 ここまでの僕たちの話の中に、どこか不快な点や、気分の悪くなるような点はありましたか?」


 神岡の穏やかな問いかけに、まどかさんは我に返ったようにはっと顔を上げた。

 そして、眉を苦しげに歪めて強く頭を横に振った。


 紗香さんが、穏やかに話し出す。


「話すのがすごく怖かったけど——私も言うね。

 私の姉、レズビアンなんだ。

 大学時代に、それが原因で友達と人間関係が縺れちゃって……今もうつ病を抱えて、苦しんでる。

 そういう痛みも苦しみも知らない人たちが、苦しんでいる人を指差して嘲笑うことが、私には許せない。

 だから、アヤノちゃんママ達みたいに、残酷な陰口を平気で言い合う人の側には、いられない。——いたくないの。絶対に。

 でも、まどかさんとは、友達でいたかった。ずっと。

 いつも心が通じ合うみたいな気がしていたまどかさんと、離れたくなかった。


 だから——私たちの気持ちを分かってもらえたら……また以前のように一緒に喋って笑えたら、私は、すごく嬉しい」


「まどかさん。

 もし、あなたの気持ちに、何か変化が起きたならば……紗香さんが除外されているLINEのグループトークで、『紗香さんを外すのをやめたい』と、声を上げてはもらえないでしょうか?」


 まどかさんを真っ直ぐに見つめ、神岡がそう付け加える。



「——……」


 神岡の眼差しを受け止めたまどかさんは、静かに視線を移して楽しげに遊ぶ子供達をじっと眺めた。


 その瞳が、俄かに大きく潤んだ。



「————今まで、ごめんなさい。


 こんなに温かくて優しい友達を、私は……

 こんなに真っ直ぐで愛情に満ちた人たちと、可愛い子達を、私は——」



 やがてまどかさんは、微かに声を上げながら泣いた。



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