衝突

 その夜9時少し前に、翔吾はアルバイトから帰宅した。

「ただいま」

「おかえり翔吾。ご飯まだでしょ?」

「あー、ごめん。友達と食べてきちゃったからいいや」

 ちらりと母親の顔を見てそう答えると、翔吾はいつものようにリュックを肩にかけて階段を上がっていく。

 息子が部屋のドアを閉める音を聞きながら、伸恵は昼間の強い苛立ちを胸にもやつかせた。


 翔吾も、へ感じている私たちの意識をよく知っているはずなのだ。

 家でも、友人とも、ことあるごとに噂を口にし合えば、自分たちが今日も「正しい立場」にいる満足感を味わうことができる。自分の立ち位置が他人よりも「上」であること、他人に勝っているという優越感は、心を満たす何よりの喜びだ。

 そうやって、明らかに「下」として扱ってきた人間と深く交わるなんて、自分の息子がするわけがない。そう信じきっていたのに。

 どういうつもりなのか、やはりしっかりと話し合っておかなければ、自分自身の立ち位置が今後確実に揺らいでしまう。


 伸恵は、キッチンの椅子から立ち上がった。

 階段を上がり、息子の部屋のドアをノックする。

「何?」

「今、ちょっといい? 話があって」

「あー、うん」


 翔吾は机の椅子に凭れてスマホを眺めていた。

 その横顔に、伸恵は険を含んだ声で問いかける。

「翔吾……最近、の人達と親しくしてるんですってね」


 翔吾の肩が、小さく揺れた。

 僅かな間を開けて、ゆっくりと顔が上がる。

「——それが?」


 鋭く光るような息子の眼差しを初めて見る気がして、伸恵は微かにたじろぐが、ぐっと気持ちを立て直す。

「なぜなの?

 あの人達がどういう人達か、あなたも知ってるわよね?」

「——知ってるよ。

 知ってるから、親しくさせてもらってるんだ」

「ねえ、意味がわからないんだけど?

 普通に考えておかしいでしょう、あの人達。理解できないし気味が悪いって、周囲の人からも言われてるの、知ってるでしょう? なんであなたがよりによって、そんな普通じゃない人達と——」


「…………

 俺は、母さん達の噂話には興味ないし。母さん達がどこで何話してようが俺には関係ないよ」

「そういうわけにはいかないわ。あなたには、息子としてそういう行動を取って欲しくないって言ってるの。あなたがああいう人達と関わり続けるのは、親として放っておけない。あなたの行動を周囲の人が見れば、うちもあの人達と同類だと思われる——」


 そこまで話して、伸恵は息子の瞳が言いようのない激しい色で自分を見据えていることに気づいた。


「……翔吾?」


「——出て行け」


「え?」

「俺の部屋から、出て行って欲しいんだ」


 激しい瞳の色をすっと消し去り、翔吾は静かに微笑んでそう言い直した。


 何か得体の知れない恐ろしいものに触れた恐怖感に襲われ、伸恵は続ける言葉を忘れて息子の部屋を出た。




 その夜遅く帰宅した夫に、伸恵は先ほどの息子の様子を不安げに話した。

「……何だか、翔吾があんまり急に変わった気がして……だって、つい最近まではあんな風じゃなかったもの。これまで親の言う事もちゃんと聞いてたし、そんなおかしな行動するような子じゃなかった。あの子が何を考えているのか、全然わからなくなった気がするの。 

 今日は、本当に恥ずかしかったわ。律子さんから『何か考えでも変わったのか』みたいにこそこそ話しかけられるし……」 

 

 雑にネクタイを外しながら、夫は面倒そうに妻を一瞥する。

「お前がちゃんと翔吾のことを見てないからじゃないのか。先月はずいぶん長く実家から帰ってこないし。子どもの行動を把握していないとか、母親としてどうなんだ。

 それにあいつは、親に強く反抗できるようなタイプじゃない。変な行動が酷くなる前に、しっかり言い聞かせておけよ」

 冷ややかにそう言い放たれ、伸恵は黙って俯く。


「とにかく、家のことで近所に変な噂が立つのだけは勘弁してくれ」

「……」


 こういう夫だということは、よく知っている。

 それでも、彼の言うことは間違ってはいない気がした。


「……そうね。どうにかしなきゃ」

 伸恵は暗く頷いた。



 翌日の午後。

 一晩考えた末、伸恵は、これ以外に方法はないだろうという結論に至った。

 自分たちの立ち位置をこれ以上落とさないためには、これしかない。

 翔吾とは昨日の話の続きはできそうもなく、他に解決の手立てはどうしても思いつかない。


 あと10日ほどで10月だ。大学も後期が始まり、翔吾が家にいない時間が長くなる。

 行動を起こすならば、そのタイミングだ。


 意を決してスマホを手に取り、友人に電話をかけた。


「あ、律子さん? 昨日はどうも。

 ところで……あの方達のお宅の部屋番号を知ってる方って、どなたかご存知かしら?」









 夜10時過ぎに、神岡は帰宅した。

 子供達を寝かしつけ、自分も眠気に引き込まれつつあった耳に届いた玄関の音に、俺は身体を起こした。


「お帰りなさい、樹さん」

「ただいま、柊くん。寝ててよかったのに」

「いえ、ちょっとウトウトしてただけなんで。夕食どうします?」

「あー、そういや何にも食べてなかったな」

「じゃ温めますね」

「ん、ありがとう。着替えてくるよ」


 温め直しても美味しいメニューにしたくて、今夜はビーフシチューにした。

 鍋を火にかけながら、紗香さんが今日電話で俺に打ち明けた件について思い返す。

 幼稚園のママ仲間による、紗香さんの「グループ外し」の問題だ。


 神岡は、目下会社の仕事で手一杯な筈だ。

 家で起こっている出来事について、こういうタイミングで相談してもいいものだろうか? 


 だが、同時に彼が先週末に俺に言った言葉も思い出した。

『——もしも何かあったら、すぐに連絡してくれ。間違っても無理や無茶はしないでほしい。約束してくれるね?』


 彼にしてみれば、自分が不在の間に俺が難しい問題を一人で抱え込み、深刻なレベルにまで進んでしまうことが何より心配なのだろう。話が拗れてから打ち明けても、神岡にかかる負担が一層重くなるだけだ。

 第一、一言も彼に相談しないままひとりでハイリスクな行動に出ては、彼と交わした約束をあっさり無視したことになる。

 ここは、躊躇わず今日のことを彼に話さなければ。

 俺はそう判断した。


 ルームウェアに着替え、ダイニングテーブルに着いた神岡は、湯気の上がるビーフシチューを美味そうに頬張りつつ俺の話を聞き、しばらく黙り込んだ。


「……どう思います?

 俺たちが紗香さんを守るためにできることって、考えてみると思った以上に難しい気がして」

「確かに、そう簡単ではなさそうだ」

 赤ワインのグラスを手に取り、くるくると軽く回しながら、神岡は深く思考を巡らすようにグラスの中の液体をじっと見つめる。


「——でも。

 一つ言えるのは、紗香さんのママ仲間を誰か一人でもこちら側に引き込むことができれば、状況は大きく動かせる可能性が出てくる……ということだ」


「仲間を一人でも、ですか?」

「うん」


 グラスを軽く口に運び、神岡は言葉を続ける。

「最近の社会心理学者による研究なんだが、中学のクラス内でのいじめについて『もういじめるのをやめよう』と呼びかける生徒が一人でも現れると、それに同調する子が複数現れ、状況が改善する場合が多いそうだ。実験の結果そういうデータが得られたと、以前記事で読んだことがある」

「え……そうなんですか?

 呼びかけたその子もまた仲間外れになるんじゃないかと、つい想像しちゃいますけど……そんな結果が出るというのは意外ですね。それってすごい明るいデータじゃないですか!」

「だろ?

 加害者や傍観者の全員が全員、いじめられている子を攻撃したいわけじゃないんだ。中には、その子を助けたいと感じている子も少なからずいる、という確かな裏付けだよな。

 だから、今回の紗香さんのグループ外しに関しても、爪弾きに否定的な感情を持っているママを見つけ、何とか説得できれば、紗香さんの置かれている状況を変えられるかもしれない、と思ってね」

 先ほど纏っていた疲れを忘れたように、神岡は生き生きと目を輝かせる。


「…………流石ですね、神岡副社長。ますます惚れます」

「いやまだ何もやってないうちから褒められても困る」

 目の前のこの上なく有能な男は、なんだかんだで照れているようだ。


 俺たちを救ってくれた紗香さんを、今度は俺たちが窮地から救い出す。

 昼間とは打って変わってひらけ始めた視界に、俺は明るい気持ちで微笑んだ。



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