敵対

 先程神岡から香ったホワイトムスクを少し切なく思い出しながら食卓を片付けていると、子供達の起き出す気配がした。

 午前7時少し過ぎ。二人のお目覚めタイムだ。

 濡れた手を拭いて、ベッドへと向かう。


「おー晴、おはよー。湊はまだ少し眠そうかなー?」

「あううぁ〜〜!(お腹すいた!)」

 二人とも最近は夜間にまとめて寝るリズムが定着し、朝起きてからもオムツ替えとミルクを終えると毎日ほぼご機嫌だ。


 二人のミルクを作りながら、窓の外を見る。9月下旬、秋めいてきた空が爽やかだ。

「樹さんもいないし、今日は紗香さん&陸くんと一緒に散歩しよっか。午後なら優愛ちゃんも幼稚園終わるからきっと一緒に散歩できるぞ。二人とも優愛ちゃん好きだもんなー。紗香さんに都合どうか早速聞いてみような」

 腕の中で一心にミルクを飲む晴を見つめ、俺はそんなことを話しかける。むきゅむきゅとまん丸いほっぺを動かしてゴム乳首を吸いながら、晴の潤った瞳がきゅるっと俺を見上げた。

 子供同士というのは、自然に心が通い合うのだろうか。明るく元気な優愛ちゃんにあやされると、晴も湊も嬉しそうにキャッキャッと笑いっぱなしなのだ。

 子供達にミルクを与え終え、プレイマットで遊びに夢中になる二人を見守りつつ紗香さんへメッセージを送信する。ついでに洗い終えた洗濯物を洗濯機からカゴへ移し、リビングへ戻って干しにかかった。

 しばらくして、スマホが着信を知らせた。

『三崎さん、ごめんなさい。今日はちょっと都合悪くて』

 そんなシンプルなメッセージが届いていた。

『了解です。子供達も残念がるなー。じゃあ、また今度に』

 可愛らしい子猫が泣きながら『ごめんなさい!』と言ってるスタンプが返ってきた。


 子供達の様子を時々見ながら洗濯物を干していると、再び着信音が鳴った。

『三崎さん。何度もごめんなさい。

 ものすごく迷ったんですけど……やっぱり、少しお話を聞いてもらいたくて……。

 できれば、私たちが会っているところ、誰にも見られない方がいいのかもしれないと思うので……三崎さんの都合が大丈夫なら、お電話でお話させてもらってもいいでしょうか? 勝手なこと言って本当にすみません。

 都合いい時間を教えてもらえたら、私からお電話しますので』


 先ほどとは打って変わって、ピリピリとした暗い神経質さを感じさせるメッセージだ。

 思慮深い彼女のことだ。一度めのコメントは、無理やり何でもないように振る舞ったのかもしれない。

 重苦しい気配に、俺の心も無意識にざわつく。


『了解。いつも子ども達は午後3時頃から2時間近く昼寝するから、電話は4時前後が都合いいんですが、もし良ければその頃にしましょうか』

 自分の不安が伝わらないよう、俺は敢えてそんなあっさりとした返事を返した。









 約束の4時。

 電話の奥の紗香さんの声は、それを感じさせまいとしつつも暗く沈んでいた。


『明らかに、嫌がらせだなって出来事があって……

 半月ほどいろいろ考えていたんですが、ちょっと独りじゃもう無理になっちゃいました。

 優愛が通ってる幼稚園の副担任の先生が、8月いっぱいで産休に入ったんですが……幼稚園って、小学校とかとほぼ同じ期間で夏休みがあるから、会えないままさよならしなきゃならないなって、寂しく思ってたんです。

 そうしたら、9月に入ってから同じクラスのママ達に、「橘さんにもよろしくって山下先生仰ってたわよ。橘さんが来なくて残念そうだったなあ」って、何だかわざとらしく言われて。

 話によると、どうやら8月末に、ママ達で集まって近くのレストランで先生のお別れ会をやったらしいんです。

 知らなかった、と話したら、「あら、アヤノちゃんママから聞いてなかった? 彼女が橘さんに伝えるって言ってたんだけど」って……あ、アヤノちゃんは優愛のクラスメイトで、うちのマンションの子です。うちのマンションからその園に行ってるママ達は親しく付き合ってて、情報のやりとりも頻繁だったんですが……最近は、何だか変な空気になってました。というか、実質的に私は爪弾きになってる感じで。


 ……やっぱり、こういう形で来たなあ……って。

 予想していなかったわけじゃないんですけどね……。

 山下先生にも、ちゃんとお礼の言葉伝えられなかったし……たくさんお世話になったのに……』


 紗香さんの声が、微かに震える。



「…………」


 彼女の話に、俺は一体何と返事をすればいいんだろう?


 紗香さんがこんな仕打ちを受けるのは、他でもなく彼女が俺や神岡と親しく交流しているせいだ。


 異性同士の愛しか認められない「多数派」が、同性同士で結婚や出産など悪趣味で有り得ないと声高に噂し合い、何故か「正しい人々」という立場で「少数派」を踏みにじる。

「多数であること」と、「正しいこと」は、全く違う。

 それを理解できず、自分こそが絶対だと信じて疑わない人々。

 少数派が何を訴えても、彼らの価値観から外れた言葉は全て耳の入り口で跳ね返される。

 俺たちの叫びは、彼らの脳や心には容易に届かないのだ。


『主人に相談しようか、とも思ったんですが……そうしたら、彼はあなた達との交流を断つべきだ、と言うかもしれない。

 私、それは嫌なんです。絶対に』


 彼女の強い声が、胸に染みる。



 もしも、ここに神岡がいたら。

 彼は、何と言うだろう?


 ——以前、彼が言っていた言葉を思い出した。


『もしも橘さんに何かあったら、僕たちが彼女を守ろう』


 そうだ。

 紗香さんは、冷ややかな目で見られている俺たちに、勇気を出して手を差し伸べてくれた人だ。

 彼女が苦境に立ったならば、俺たちが彼女を守る。

 何としても。



「——大丈夫です、紗香さん。

 あなたの苦しい時は、俺たちがあなたを守ります。

 俺たちにも、できる限りのことをさせてください」


『——ごめんなさい。

 こんな話、三崎さん達を苦しめてしまうと散々悩んだのですが……

 けど……こういう事が起こってるっていう現実を、私達は知っていなくちゃいけませんよね?

 くだらない嫌がらせを受けたまま、黙ってあっさり負けを認めるなんて、死んでも嫌ですよね!?』


 スマホを握りしめ、普段は胸の奥に眠っている激しさを剥き出しにする紗香さんが目に浮かぶ。


 誰よりも強くて聡明な人が、俺たちの仲間でいてくれる。

 それを、心から嬉しく思う。



「……はい。

 負けを認めたりはできません。絶対に」


 込み上げる熱いものに思わず掠れそうになる声をぐっと立ち直らせ、俺ははっきりとそう答えた。









 外出から戻った須和 伸恵のぶえは、バッグも置かず呆然とソファへ座った。


 ——こんなに恥ずかしいこと、有り得ない。


 エントランスを入り、部屋へ向かう途中で偶々会った友人に、伸恵は信じられないことを言われたのだ。


「……あの、伸恵さん。ちょっと言いづらいんだけど……最近何かお考えが変わられたとか?

 もしかして、今後私たちとお話が合わなくなるんじゃないかって、この前矢嶋さんの奥さんとも話してたんだけど」

 人目を憚るかのように声を潜められ、伸恵は思わず友人の顔を見た。

「……え? 一体何の話?」

「あら、お心当たりがないのかしら……息子さん、最近の方々と随分仲良くされてるみたいでしょう? てっきり、ご両親のお気持ちの変化でもあったんじゃないかって、私たち話してたんですよ」


「……うちの翔吾が……?」

「ええ。この前の花火大会の時も、あのご家族と一緒に公園に来てたって、見かけた方がいらっしゃって。

 ……もしかして伸恵さん、そのことご存知なかった?」


 思ってもみなかった情報に、伸恵は半ば青ざめる。


「……そんなこと、少しも……。

 今年は実家で法事があって、私は8月中しばらく帰省してた時期があったのよ……。

 主人も毎日帰宅が遅いし、翔吾の行動には気づくはずもないし……

 あの子、いつの間にそんなことを……」

「あら、それはご心配ね。一度息子さんともちゃんとお話ししてみた方がいいんじゃない?……あ、ごめんなさい、余計なお節介よね。じゃ、また」


 彼女はさも気の毒だというように伸恵を横目で見ながら、表面的な笑顔を浮かべて立ち去った。



 この私が。

 あんなつまらない女に、ここまで馬鹿にされるなんて。

 そして、こんな屈辱的な噂が、一体どこまで広がってしまっているのか——。


 常に念入りに磨きをかけていたつもりの自分のプライドに、突然汚い泥をびしゃびしゃと塗りつけられた不快感が、みるみる伸恵の思考を覆っていく。


「翔吾……

 あなた、何考えてるの……!?」


 翔吾は今アルバイトに出かけている。今日は夜8時過ぎまで帰らない。

 伸恵は、激しい苛立ちに任せてバッグの持ち手をちぎれるほどに握りしめた。



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