薄闇

「——どこへ行っていたんですか」


 その問いかけを口にした途端、あんなにもさらりと彼に嘘をつかれた痛みが改めて胸を突く。

 同時に、底知れぬ恐怖が覆い被さった。

 ——彼は、この問いに一体何と答えるのか。

 嘘になど、いっそ気づかないふりをしてしまえば良かっただろうか。

 胸の底からいくつも湧き上がる淀んだ感情を抑えつけながら、俺は震える指を強く握り込んで彼の背をじっと見据えた。


「————ごめん。嘘をついて」


 俺に向けたままの背から、小さな呟きが返ってくる。


「宮田くんと、会っていた。カフェで待ち合わせて」


「——宮田さんと……」


 自分もよく知った相手の名を聞いた瞬間、安堵感に心が微かに緩む。

 しかし、すぐにまた別のどろついた不安が訪れた。


「……どうしてですか。

 宮田さんと会うのに、どうして俺に隠す必要があるんですか。

 それ、本当ですか?——本当に、宮田さんと会ってたんですか?」


「……」


 思わず強い口調で重ねた疑いの言葉に、神岡は振り返ると、一瞬悲しげに眉を歪めた。

 だが、その表情をすぐに解き、まっすぐ俺を見つめた。


「——君に、どう思われても仕方ない。

 さっき、あんな風に嘘をついて出かけたことは、事実なんだから。


 でも、ここから話すことは、嘘じゃない。——信じて欲しい」



 強い後悔を底に沈めたような彼の眼差しには、不安定に揺らぐ色は一切感じられない。


 はっきりとわかる。

 彼は、もう俺を騙してはいない。

 今度こそ、神岡の本心が聞ける。

 これから例え何を聞かされるとしても——彼の心の奥が見えない苦しみからは、解放されるのだ。

 その安心感に、気づけば唇から深い息が漏れた。


「……信じます。あなたの言葉。

 だから、もう隠したり誤魔化したりは、しないでください。

 あなたの心の中を、ちゃんと俺に見せてください」


 思わず滲みそうになる涙を何とか堪えながら、俺は神岡を見つめ返した。









「柊くん。

 男としてつくづく情けない話だけれど……呆れたりせずに、最後まで聞いて欲しい。

 心配だったんだ。君と須和くんの関係が、少しずつ深くなっていくことが」


 苦しげな視線を、それでも俺から逸らすことなく、神岡は低く呟く。


「君は気づいていないのかも知れないが——

 須和くんは、君に強く惹かれている。

 君に対する彼の想いの深さが、僕には手に取るようにはっきりと感じられる。……その様子を目の当たりにする度に、どうしようもなく胸がざわつくんだ。

 須和くんは今、深い悩みから立ち直ろうとしている。それは、君が彼の抱える苦悩を鋭く感じ取り、迷わず手を差し伸べてやれたからに他ならない。

 僕も、そのことを心から嬉しく思ってる。せっかく前を向く力を手にした彼を阻むようなことは、絶対にしたくない。

 けれど……常に温かく須和くんを見守ろうとする君の言動は、彼をますます強く惹きつけるだろうと……そしていつか、彼の想いが壁を乗り越えてしまうんじゃないかと……

 若い時代の恋の激しさを、抑える方法などあるわけがない。そう思うと、どうしたらいいのかわからなかった」


 あの穏やかな須和くんに限ってそんなことは、と、数時間前の俺ならばきっぱり反論したかもしれない。


 けれど——。


 ついさっき、月明かりの下で俺を見つめた須和くんの眼差しを思い出す。

 どこか思い詰めたような熱を湛えた、強く真剣な瞳。

 これ以上、彼と二人きりでここにいてはいけない。

 あの瞬間、心の奥で微かな警笛が鳴った気がした。


 今の俺に、神岡の抱く危惧を否定することはできない。


「こういうことをきっかけに、僕と君の関係が、この先何か変わっていってしまうんじゃないか……そんな不安や焦燥感が、気づけば胸の中から追い払えなくなっていた。

 今日、君と子供たちが健診を受けている最中に、着信音を鳴らす君のスマホが表示した名前を見て——その瞬間、僕の中で溜まり続けた何かが、とうとう溢れてしまった。

 君は何も悪くないと知っていながら、あからさまな態度や言葉で君を追い詰めた。

 ——我ながら、最悪だ。……どうか、許して欲しい」


「……今日、車内であなたが俺にとった言動は、そういう理由だったんですか。

 あなたの中で膨らんだ不安が、俺に対して漏れ出たものだと……そういうことですか?」


 俺の問いに、彼は自嘲するような弱い笑みを浮かべた。


「情けないだろ?

 いい歳をした男が、まるで聞き分けのない中学生みたいだ。

 そんな身勝手な不安でとうとう君の心も傷つけてしまった自分自身に、どうしようもなく嫌悪し、酷く混乱して——ふと、宮田くんが浮かんだんだ。彼なら、この状況をどう思うだろうか、と。


 宮田くんに、言われたよ。——その不安は、つまり僕が君を信頼していないのと同じことだ、って。

 他の誰かが僕たちの関係を乱すことよりも、僕が君を信じられなくなることの方が、よっぽど僕たち二人の危機だろう、ってね。

 頭から水を浴びせられたような気がした。

 誰からどれだけ強く想いを寄せられても、君の僕への愛情は決して変わらないはずだと……あなたは、ただそれを信じていればいいんだと。

 彼は、そう言っていた。


 ——彼の方が、よっぽどよく君のことを理解している。

 心底悔しいよ」



「……」


 宮田が神岡に伝えた言葉が、じわりと温かく胸に染み込む。


 誰からどれだけ強く想いを寄せられても、あなたへ向ける俺の愛情は決して変わらない。

 俺が全身の力を振り絞って伝えたいその言葉を、宮田がそのまま神岡に伝えてくれた気がした。



「——確かに、そうですね。

 宮田さんの方が、俺の心を理解してる。

 ……むしろ俺自身よりも、俺の思っていることをはっきりと言葉にしてくれた、っていうか」


 俺は、神岡に向けて小さく微笑んだ。


「俺のあなたへの気持ちは、出会った頃からこれっぽっちも変わってはいません。

 そしてこれからも、変わることはない。——俺へ向けてくれるあなたの想いが、変わらない限り。


 宮田さんの言う通り、お互いの愛情を信じられなくなり、互いの心を疑い始めることが、俺たちの関係を壊す最大の原因になるんでしょうね。


 車内でのやり取りがあってからずっと、俺はまるで薄闇の中にいるようでした。——あなたの心の奥が、何一つ見えなくて。

 俺は、あなたに心を疑われているんだと思いました。あなたが俺の愛情を、信じられなくなったのかもしれない、と。

 一体いつから、あなたの心が変わり始めたのか……そんな不安が膨らみだした矢先に、あなたが俺に嘘をついてどこかへ外出したのだとわかって。

何が何だか、わからなくなって」


 抑え込んでいた感情が、次第に勢いを増して溢れ出す。

 気づけば、目の奥から突き上がる熱いものが粒を作って次々に頬を零れた。


「このまま、俺たちは壊れてしまうのかもしれないと思いました。今朝まで何の疑いもなく続いていくと思っていた幸せが、目の前で音を立てて崩れていくようで——あなたの背が、遠い他人の背中に思えて」


 ついには顔をぐちゃぐちゃにして半ば叫ぶように言葉を吐く俺を、彼の腕が強く引き寄せた。

 その胸の中に、力一杯抱き締められる。



「…………ごめん。

 本当に、ごめん。柊くん。

 ——許してくれ」 


 彼の匂いにすっぽりと包まれ、新たな涙が止めようもなく流れた。



「——お願いします。

 もう、俺の心を疑ったりしないでください。


 それから……

 嘘は、もうかないでください。

 もしも吐く時は、一生俺にバレない嘘にしてください」



 強く押し付けられた胸元で、彼の声が微かに震えながら答える。


「約束する。

 君の心を疑ったりは、もうしない。絶対に。


 一生バレない嘘、か……

 全く、君には敵わない。


 ——ありがとう、柊くん」



 この人の温もりが、やっと俺の腕に戻ってきた。


 信じ難いほどの幸せを噛み締めながら、俺は彼の背に回した腕に思い切り力を込めた。



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