足掻く(2)

「——……あ。

 えっと、樹さん今ちょっと急な買い物に出ちゃってて。間もなく戻るとは思うんですが……俺からも、スマホにかけてみますね。お急ぎのところすみません」


 受話器の奥の義父に不自然さを感づかれないよう、俺は咄嗟にそんな言葉で強い動揺を誤魔化した。

『ああ。君も育児で大忙しだろうに、悪いね。近いうち、麗子も一緒にまたそっちへ遊びにお邪魔するよ』

 義父の温かい言葉が、変にかなしく耳に響く。

 通話を終えた俺は、元の位置へ戻した受話器の冷ややかな白い光沢を呆然と見つめた。


 ——恐らく今、自分は最愛のパートナーであるはずの相手に心を疑われていて。

 あんなにもさりげなく微笑んで玄関を出て行った彼は、実は俺に嘘をついていて。


 その長身の背が、突然遠い他人のもののように瞼に蘇る。



 ひょっとして、ここまでの間のどこかで……俺は、勘違いをしてしまったのだろうか?

 自分は誰よりも彼に愛され、深い信頼を得ていると——そんなふうに、バカみたいに思い込みすぎていたのだろうか?


 そんなはずは。


 打ち消したい思いに、どろりとした黒い影が覆いかぶさる。


 ——そんなはずはないと、言い切れるか?

 愛情も、信頼も、色も形もないのに。


 だとしたら。

 彼の心が、どこかから少しずつ変形を始めていたのだとしたら……それは一体いつ?

 ——今更、わかるはずもない。

 そんな様子が微かに見えていたとしても、今までの俺には多分気づけなかった。

 自分自身のことと、子供たちのことに夢中で。


 俺の彼への気持ちは、出会った頃から1ミリたりとも変わってはいない。

 そうは思っていても……彼だけを見つめ、彼のことだけを想う時間は、明らかに減ってしまった。

 時には妊娠や育児の辛さと苛立ちを彼にぶつけたり、感情任せに八つ当たりしたり……そんな記憶さえ戻ってくる。

 そういう俺自身の変化が、彼の心を変形させるきっかけになったのだろうか?

 須和くんの苦しみに思わず手を差し伸べたことも——俺の心が自分の側を離れつつあると、彼にそう誤解させる原因になったのだろうか?


 今まで、全く無意識に過ごしてきた彼との温かい時間が、まるでテーブルをひっくり返したように床に落ち、ガチャガチャと音を立てて割れていくようで——俺は思わず、両耳を掌で強く覆った。



 突然、この閉塞した空間から逃れ出たい息苦しさに囚われる。

 こんな時も、俺一人では自由に外へ出ることすらできない。

 ——いや。子供達は今ぐっすり眠ったところだ。

 今は21時少し過ぎ。この時間に眠り始める日は、二人とも大抵朝方までは目を覚まさない。最近の二人にはそういう生活リズムが定着しつつあった。

 少しだけでいいから、外の空気を吸いたかった。

 ベッドの子供達のタオルを身体の上にかけ直し、その健やかな寝息を確認してから、俺はそっと玄関を出た。


 人気のないエントランスを抜け、涼しい夜風の渡る静かな歩道へ出た。

 肺の中へ、その空気を思い切り吸い込む。

 今夜は、月が明るい。

 青白く穏やかなその光が、仰ぎ見る俺の目の中でじわりと揺らいだ。


「訳なんかわからないまま、何かが縺れちゃうって、あるんだなあ」


 何となく口にしたつもりの言葉が、突然リアルな重さをもって自分自身の脳に苦く反響した。



「——三崎さん?」


 向かい側の闇から小さなライトが近づき、そこからふと声がかかった。

 自転車に跨った影が、すっと俺の横で停止する。


「……あ、須和くん……」

「やっぱ三崎さんだ」

 月の光の下、濃い色のポロシャツとジーンズにリュックを肩にかけ、彼は明るく微笑んだ。

「夕方は折り返し電話いただいちゃってすみませんでした。今バイト終わった帰りです。

 っていうか、この時間に一人で外出なんて、珍しくないですか? もしかして人違いかと思いましたけど……」

 俺は、敢えてのんびりとした声音を作りながら何気なく歩みを再開する。

「……ああ、子供達と風呂入ってたら、ちょっとのぼせたみたいでね。涼みついでにちょっと散歩したくて……」


「……」

 自転車のハンドルを押して俺の横を歩きながら、彼は微かに様子を窺うように俺を見た。


「……何か、ありましたか?」


 静かに向けられたその問いに、俺の心臓が大きく反応する。

 身体の勝手な反応を勘付かれないよう、必死に平静を装う。


「——え、何かって?」

「わかりますよ」


 不意に力を持った須和くんの声に、思わず足が止まった。

 横を歩く彼の顔を見る。


 彼の眼差しが、真っ直ぐに俺を見つめていた。


「あなたの表情や空気がいつもと違うことくらい、わかります」



 その眼差しを、俺は知っていた。

 ——かつて、神岡が俺に向けたものと、同じ眼差し。

 優しさと不安の入り混じる、微かな熱を湛えた眼差し。


 一瞬、言葉を失った。

 その直後、俺は今いる場所を思い出す。

 咄嗟に平常心を引き戻し、それには全く気づかないふりをした。


「ははっ、須和くん結構鋭いねー!

 ほんとのこというと、風呂上がりにとっといたラスイチのアイスを彼が先に食べちゃってね。マジギレして喧嘩してきたとこだよ。ほら、食べ物の恨みは怖いっていうだろ?」


 不自然さを必死に押し隠した出まかせの返事に、彼は複雑な表情で俺を見る。


「……そうなんですか……?」

「まあ、だいたい夫婦喧嘩なんてそういうくだらない理由なもんだよ。さー、こんなバカらしい喧嘩やめてそろそろ戻んなきゃな」


 まだどこか腑に落ちないような顔をしている須和くんに、俺は明るくそう言って勢いよく歩き出した。









 マンションの駐輪場で須和くんと別れ、俺は足早に部屋へと戻った。

 この少しの時間で、子供達に何か起こったりしていないかと、急激な不安に襲われながら。

 焦りつつ鍵を開け駆け込んだ室内で、子供達は先ほどと変わらず安らかな寝息を立てていた。

 ほおっと、大きな安堵の息が漏れる。


「——こんなふうに子供達だけを家に残すのは、やめよう」

 今味わった恐怖感を思い返しながら、自らを強く戒める。

 小さな足ですっかり蹴ってしまっているタオルを再びかけながら、たまらなく愛らしい二つの寝顔をじっと見つめた。


 考えなければならないことが多すぎる気がして、どうにも思考の整理がつかない。



 不意に、がちゃりと玄関の開く音がした。

 神岡が帰ってきたようだ。


「ただいま、柊くん。

 少し相談が長引いてね、大急ぎで帰ってきたよ。遅くなってごめん。——特に何事もなかった?」


 リビングへ入ってきた彼は、いつもと全く変わらぬ様子でバッグを肩から降ろして微笑む。


「ええ。子供達、今日はもうぐっすり眠っちゃってます。やっぱり昼間の健診で疲れたんでしょうね。

 ——それから、お義父さんから家に電話がありました。契約の件で急いで話したいことがあるんだけど、あなたがスマホに出ないからこちらへかけた、って」



「————」


 子供達の眠るベッドへ歩み寄った彼の背が、ぎくりと硬直するように動きを止めた。



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