足掻く
柊が買い物へ出かけた後、樹はいつも通りに洗濯物を取り入れ、浴槽の掃除に取り掛かった。
洗剤をバスタブへ噴射し、ぬめり等を残さないよう隅々までブラシで丁寧に擦る。
普段は嫌いでもないその作業が、今日は何かやたらに面倒で苛立たしい。
気づけばいつもの3倍くらいの勢いでそこら中に洗剤を撒き散らし、バスタブ内がぶわぶわと無駄に泡立ちながら人工的な柑橘系の匂いを充満させる。
「ぐあああ、最悪だ!!!」
とうとう奇妙な叫びをあげながらやみくもにあちこちを擦り回し、浴槽をピカピカに洗い上げるなり浴室を飛び出した。
リビングに走り込むと、プレイマットの上でおもちゃに夢中の晴と湊を順に抱き上げ、思い切り抱きしめて二人の柔らかな頰にグリグリと切なげに頬ずりする。
「晴、湊おぉ〜〜……パパは泣きたいよ。いつまで経っても、僕は男として何と未熟なんだろう!?」
「ふあっ……!?(なんだよ急に!?)」
「うぐぶぶうう〜〜っ!(遊んでるとこ邪魔するなって!)」
父の深い嘆きなど知る由もなく、息子たちは不満げな声を漏らす。
「うん、そうだよな。こうやってぐずぐずいじけてる場合じゃない」
樹は子供達の言葉を都合よく解釈し、二人をマットへ降ろすとテーブルのスマホを掴んだ。
「——もしもし?
うん、久しぶりだね。突然連絡して済まないな。
急で申し訳ないんだが……この後、少し会えないか?」
暫しのやりとりの末、電話の奥の相手と会う約束を取り付けた樹は、苦い表情を崩さないままスマホを置いてすっくと立ち上がった。
「よし……彼が帰って来る前に、できる限りの家事を進めておかなければ」
*
「ただいま……あれ、どこか出かけるんですか?」
買い物を終え、伏し目がちに玄関を入ってきた柊は、TシャツからVネックのサマーセーターに着替えた樹の爽やかな装いにふと目を上げた。
「おかえり、柊くん。
うん、そうなんだ。昼間の契約の件で親父とちょっと話し合うことになってね。急な外出でごめん。
子供達はさっき風呂に入れて、カレーもできてるから、先に食べてて。なるべく早く帰るから」
柊の問いかけに、樹は持ち物をショルダーバッグに入れつつ微笑んで答えた。
「……いえ、大丈夫ですよ、そんなに急がなくても」
「いや、何が何でも急いで帰ってくるよ」
小さく微笑み返す柊の肩を引き寄せると、樹は柊の唇に優しく唇を重ねる。
「……行ってらっしゃい」
唇が離れ、視線を合わせる柊の瞳の奥には、やはりざわざわと
「うん。行ってきます。何かあったら僕のスマホに連絡入れて」
「わかりました」
そんな陰には気づかないように敢えて明るく柊を見つめ返し、樹は勢いをつけて玄関を出た。
車を走らせて10分ほど。
柊についた嘘がばれないよう、場所は大きな通りから引っ込んだ隠れ家風の小さなカフェを選んだ。
相手はまだ来ていないようだ。
壁際の席を選び、落ち着かない腰をなんとか座面に押し付ける。
スタッフにコーヒーをオーダーし、自分自身を鎮めるようにふうっと一つ大きく息を吐いた。
現在会社で進めている契約が些か難航しているというのは、本当だ。
父は、何とか副社長抜きで契約をまとめるつもりでいてくれたようだが、目下社内の意見も微妙に割れており、どうしても副社長の意見を入れなければ話が進まない状況になっているらしい。
昼間の父からの電話で、契約相手に向けて自分の中に苛立ちが起こったことも確かだ。
だが——。
オーダーしたコーヒーが手元に届く。
顔を上げた視界の先に、店へ入ってきた長身の男を確認し、樹の思考はそこで中断された。
樹を見つけると、その男は大股にテーブルへやって来て、憮然とした顔で向かいの椅子をガタリと引いた。
「なんですか、急に」
ゆるいウェーブの前髪が、美しい額に落ちかかった。
「本当に急ですまん、宮田くん。——店の方は、大丈夫だったか?」
樹はいつになく心細げな眼差しで宮田を見上げた。
席につきながら、宮田は大きな溜息と共に樹を恨めしげに睨む。
「あなたにこんな風に呼び出されて、僕が断れると思いますか?——しかも、そんな子犬みたいな眼をして。
店の方は、何とか都合つけて来ましたよ。幸いこの後は予約も少なかったし」
「……申し訳ない。本当に。
どうしても、ある不安が自分の中で拭えなくてね……君だったらどうするだろうかと、急に話を聞いて欲しくなった。
自分ひとりでは、どうにも混乱してしまって……」
宮田のそんな言葉に、樹はどぎまぎと視線を下げた。
*
「……へえ」
樹の話を一通り聞き終えた宮田は、例によってちゃんと聞いていたのかどうかさえわからないような薄っぺらい声を出した。
約ひと月前に同じマンションに住む悩み深い大学生を柊から紹介され、そこから今日までのことを全て話し終えた樹は、眉間を深く寄せてぐっと俯く。
「——不安なんだよ。
柊は、あの通り誰にでも優しい、思慮深く愛情深い人だ。須和くんの苦しみが、まるで自分のことのように辛く思えるのだろう。その気持ちは僕もよくわかる。
けれど……須和くんは、柊を単に『心優しい隣人』という目では見ていない。
柊へ向ける彼の眼差しを見ていれば、嫌でも気づく。
須和くんは——柊に、深く想いを寄せている。
あの年頃に、あれほど誰かに強い想いを抱くというのは……若い時代の情熱は、周囲の状況をいくら理解していても、そう簡単に消し去れるものではない。自分自身の経験を思い返しても、それは明らかだ。
そして柊本人が、須和くんの気持ちに少しも気づいていないらしいことも、僕を一層やきもきさせる。
柊が、須和くんの想いに対して、どんな反応をするか。最近、それが不安でたまらないんだ。
柊の温かい言葉や表情が、須和くんを一層惹きつけるきっかけを作ってしまうのではないか——須和くんの想いが、いつか堤防を決壊させてどっと溢れ出す時が来るんじゃないか。気づけば、そんなことを警戒し、激しく恐れている自分がいる。
だからと言って、せっかく立ち直りかけた須和くんをここで冷酷に突き放すことは、絶対にできない。
今日、柊のスマホにかかってきた電話の相手が彼であることを知って……僕は思わず、柊を追い詰めるような空気を露わにしてしまった。
その時から、柊は僕のことを不安げな暗い目で見るんだ。
自分のパートナーが、誰かから強い想いを寄せられているのを、ただ黙って見ている——そのことが、これほどに焦燥感の募るものだったなんて」
胸中の痛みを全て吐き切るようにそう話すと、樹は長い指で額を覆う。
「こんな自分が、心底情けない。
僕は今、柊を苦しめている。——柊は、何一つ悪くないのに」
宮田は、しばらく黙ってコーヒーを口に運んでから、特に悩みのないさらりとした顔で樹を見た。
「……仕方ないんじゃないですか。
あなたのパートナーが、それだけ魅力的な人なんだから」
「……」
「今の話聞いて、単純に思うんですけどね。
あなたは、ただ三崎くんを信じていれば、それでいいんじゃないですか?」
「……そう簡単に言うな」
睨むような樹の視線を、宮田はふっと乾いた微笑で受け止める。
「じゃあ。
仮にあなたが今後三崎くんの言動をグジグジと束縛して、須和くんを遠回しに牽制すれば、気持ちよくこの状況が解決していくんですかね?
男として、あなたはそんなやり方を選択する気ですか?」
「————」
「あなたがそういう気持ちを抱く、というのは、つまりあなたが三崎くんを信じていないのと同じことですよ。——わかります?
須和くんが、たとえ三崎くんにどんなに強い想いを寄せたとしても、三崎くんがそれに流されるような人間だと思いますか?
どんなことがあっても、三崎くんのあなたへの愛情は、絶対に揺らがない。少なくとも僕はそう思いますけどね。
むしろ、あなたの三崎くんへの信頼が揺らぐ瞬間が、二人にとって何よりもヤバい危機になるんじゃないですか?
あなたが、もし今の三崎君の立場だったら、間違いなく同じことを思うはずです。——愛する人にだけは、どんなことがあっても心を疑われたくない。信じていてほしい、と」
「……」
返す言葉もなく、樹は宮田をじっと見つめた。
「——なんですか」
「……君はやはり、只者じゃないな」
やっと唇が動いたように、樹はそんな言葉を漏らす。
「はは、強烈にヘンタイな蛇男ですしね。蛇男な分、いろんな経験もしてますよ」
「いや……冗談は、抜きにして。
何か今、はっと目が覚めた気分だ。
君の今の言葉を聞かなければ、僕は最低最悪の情けない男に成り下がるところだった。
——柊との絆に、危うくひびを入れるところだった。
いつも、君には救われてばかりだ——本当にありがとう、宮田くん」
樹は、宮田に向けて深く頭を下げた。
そして、心の深い場所から湧き出るような笑顔を輝かせた。
「…………あーーー。やめてください、そういうのマジで。
あなたのことはとっくの昔に吹っ切ったつもりなんで。それ、ぶっちゃけ迷惑です」
宮田はとうとう照れた顔になり、ぶっきらぼうにそう返した。
*
夜8時半。
子供達にミルクを与え終え、眠そうな二人をベッドへ運んだ柊の耳に、家の電話のベルが響いた。
久し振りに樹のいない静かな部屋で、子供達の世話をしつつ様々なことをとりとめなく考えていた柊は、ハッと顔をあげて電話へ走り寄る。
『おお、柊くん。久し振りだな。みんな元気か?』
受話器の奥に、義父の充の明るい声が響いた。
「え?……あ、はい、子供達も元気にしてます。お陰様で」
……今、樹がそっちに行っているはずだが……?
そんな違和感が脳をよぎる。
その疑問を解消でもするかのように、充が言葉を続けた。
『いや、家に電話するのは申し訳ないと思ったんだが……なにぶん急ぎでね。
今会社で進めている契約についての話を樹としたいと思ってるんだが、あいつのスマホにかけても出なくてな。やむなくこちらにかけさせてもらったんだ。樹、いるか?』
「…………」
受話器を握る自分の指が微かに震え出すのを、柊はどうにも抑えられずにいた。
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