戸惑い
「離乳食を2回に進めてもいいっていうのは嬉しいけど、一層準備が大変になるねー。二人とも食いしん坊だから、こっちも作り甲斐があるけどな。卵は手軽で便利な良質のタンパク質だけど、アレルギー源になりやすいから最初に食べさせるときは慎重にしないとな」
健診でやはり疲れたのか、帰宅してベッドに下ろすなり子供達は気持ちよさそうに寝息を立て始めた。
二人にタオルケットをかけてやる側のソファで、神岡は普段と変わらない様子で早速離乳食のレシピ本を熱心に捲る。
「……そうですね」
先程の車内での微かな違和感が拭い切れず、俺はどんな顔で返事をすべきか戸惑いながら、曖昧に最小限の答えを返す。
顔色を窺うような俺の気配に気づいたのか、彼はふうっと小さな息を吐いて本をパタリと閉じ、淡い苦笑いを浮かべて俺を見た。
「——ごめん、柊くん」
「……」
「帰りの車内での会話……少し、君に八つ当たりをしてしまったかもしれない。
会社のことで、ちょっと苛ついてた。
さっき君たちが健診を受診中に、親父から電話がきてね。大手不動産会社と進めている新規プロジェクトに関する契約が少しややこしい話なっているようで、副社長としての意見をどうしても入れなければ話を進められない、ってさ。
先方の主張がかなり強引なんだが、ここで話を決裂させるわけにもいかなくてね」
「……仕事の件……ですか」
「うん。副社長なんだから、そんな重要な場面で不在を通すわけにはいかないよな。
契約の相手方が無理な注文つけてくるなんてままあることなのに、何だか今回はそれが変に腹立たしくて。仕事だけやっていた時と比べて、どこか余裕がなくなってるのかな。
仕事も、家庭も、申し分なく順調だ。何一つ不足のない幸せの中にいるはずなのに……
君と好きなだけ酒を飲んで、時間も忘れて他愛ないことを喋った時間が、たまらなく懐かしくなってしまった。
ほんと、我儘だよな。
こんな身勝手な感情のせいで、君を不安な気持ちにさせてしまって……本当にごめん」
彼は、俺の手を優しく取ると、広い胸に引き寄せた。
いつも穏やかに俺を包むその肩が、一瞬少年のように震えた気がした。
かつて彼の中に感じた、心細げな彼を不意に思い出す。
そして、この人が背負うものの重さを、俺は改めて思い知る。
大企業の副社長という重責を抱えながら、二人の子供の育児に全力で向き合う。
それが、どれだけ大変なことか。
そして、どれだけしっかりと逞しい大人に成長しても——誰の心にも、その奥には寂しがりな幼い子供が変わらず棲んでいるものなのかもしれない。
俺は、ふとそんなことに気づいた。
「……全然我儘なんかじゃありません」
彼の腕の中で、俺はそう答えた。
「俺も、あなたと過ごす時間、欲しいです。
藤堂先生もああいう風に言ってくださったし、俺もここですっぱりミルクに切り替えちゃってもいいのかな、と思います。うんうん言いつつなんとか与え続けた母乳は、子供達の中で十分その役割を果たしましたよね。
お酒もコーヒーもヘヴィなステーキも解禁になるなんて、ぶっちゃけこんな嬉しいことはないんだし。
子供達の生活リズムも、最近だいぶ整ってきましたよね。あなたとまたお酒飲んでゆっくりできる時間を持てるようになるんだと思うと、俺もすごく気持ちが和らぎます。
あなたがもし切り替えに反対したらどうしようと思いましたけど、賛成してもらえてよかったです」
「うん。もちろん大賛成だ。
君が少しでも煩わしさから解放されることが、僕にとっても何より嬉しいよ」
肩から顔を離し、俺は神岡の優しい瞳をもう一度じっと覗き込んだ。
「……あの……」
「ん?」
「——いえ。
やっぱいいです」
さっきの車内での違和感は、須和くんからの着信のせいではなかったのか?
確認しようとしたその言葉を、俺は寸前で飲み込んだ。
仕事の件が原因だと神岡が言うのだから、それでもういいじゃないか。
それ以上深く突っ込んで、一体何になる?
せっかく和らいだこの空気が、またぎこちなく硬直してもいいのか?
小さな針の穴を自分からほじくるような質問は、やめろ。
その部分をはっきり問うことが、なぜか急に怖くなった。
神岡に微かな疑いを向けた自分への嫌悪感が、ざわりと脳を過ぎっていく。
自分の心のそんなざわつきを神岡に感付かれないよう、俺は無理やり明るい笑顔を作った。
*
「あ、粉ミルク、随分減ってきちゃってる。
来週から完全にミルクに切り替えて、離乳食も1日2回になれば、粉ミルクも離乳食用の食材もこれからもっと必要になりますよね。樹さん、俺ちょっと買い物行ってきます」
「そっか。子供達の成長に合わせて、買い物の内容も少しずつ変えていかなきゃね。
うん、じゃお願いしようかな。夕食と風呂の準備進めとくよ」
「了解です。すぐ戻るんで」
その日の夕方。
子供達の授乳を終えた俺は、そんな理由でひとり買い物に出た。
ショッピングモールの駐車場へ車を止めると、ふうっと重い息が漏れる。
ショルダーバッグからスマホを取り出した。
昼間須和くんからかかってきた電話に、出られなかったままだ。
そのあと、彼から特にメッセージなどは何も届いていない。
何の用事だったのか、かけ直さなければ。
なぜ、こんな風にこそこそ隠れるようにしなきゃいけない?
訳などわからない。
とにかく、こんな自分が、嫌だ。ものすごく。
苦い思いを噛み締めながら、通話ボタンを押す。
「——あ。須和くん?」
『三崎さん! 済みません、お電話いただいてしまって。昼間はもしかしてお忙しい時にかけてしまったでしょうか? かけ直したりしてはご迷惑かとちょっと
「ん、今日は子供達の健診で、かかりつけのクリニックで受診中だったから。今は大丈夫だよ」
『そうですか。いや、大した用じゃなかったんですが、母が昨日実家から戻ってきて。大学の研究室にって手土産を買ってきたりしたもので、それを三崎さん達にお届けしたいなと思ったんです。
先週土曜は、花火の後に夕食までご馳走になってしまって……あの日、皆さんの言葉に本当に励まされたので』
他愛ない電話の内容に、無意識にほっとしている自分がいる。
須和くんは、やはり礼儀正しく、気持ちの良い子だ。
神岡が何かを疑ったり、俺が何かを隠したりすることなど、何一つないというのに。
「——うん、そっか。ありがとう。
須和くんのその気持ちだけで、充分嬉しいよ。
その品物は、お母さんのお考え通り、うちじゃなくて君の研究室へ持って行きなよ」
『……うーん。俺としては、三崎さんや神岡さんに是非お礼をと思ったんですけど……』
「あはは、そういうのはいいって。その度にいちいちそんなことしてちゃきりがないんだし。人付き合いなんて、もっと気楽でいいんだよ」
『……三崎さんがそうおっしゃるなら、無理もできないですね……
わかりました。じゃあ、また今度……あ、そうだ。今度は俺が料理振る舞いますよ! 実は俺、結構料理得意なんです。でもうちじゃ親がいるからな……なら、三崎さんのお宅へ俺が食材と酒も持ち込みってことで!……あっ、もちろんご迷惑じゃなければですが……』
「全然迷惑なんかじゃないよ。それは楽しそうだね。——神岡とも話してみるよ」
『はい! 楽しみにしてます! じゃまた!』
出会った時とは別人のような、楽しげに明るい声がふつりと消えた。
通話を終え、暗くなった画面を見つめる。
再び、溜息が零れた。
今のままでは、彼を交えて三人で食べたり飲んだりなど、とてもする気にはなれない。
少なくとも、俺は。
このもやつきの原因は——神岡の心の奥が、よく見えないせいだ。
車内で俺に向けられた、彼の強い視線を思い出す。
「仕事の関係で苛立った」と俺に説明した神岡の心の中には、本当に仕事以外の
さっきは思わず問いかけを飲み込んでしまったが……このことは、やはり神岡にはっきりと確認しなければ。
でなければ、俺の中のこの薄暗い靄は、どうしても晴れていかないのだ。
そうわかっているのに。
怖い。
もしかしたら、神岡は——俺が思っている以上に、俺の心を疑っているのではないか。
俺たちは、まだ須和くんと関わりを持ち始めたばかりだ。疑いが深まる理由など、何も浮かばないのだが……神岡が何をどう捉えているかは、俺には推測しきれない。
須和くんに出会った初日に、俺と須和くんとの関係に不安げな顔をした神岡の表情が蘇る。
俺の前では、一度も激しい感情を剥き出しにしたことのない彼が、俺の問いかけにどんな顔をして、何を答えるのか……
もしも、見たことのない冷ややかな眼差しを向けられるとしたら。
彼と俺の関係の大切な部分が、何か変わっていってしまうとしたら。
何の根拠もない漠然とした不安が、ガタガタと俺の胸を揺さぶった。
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