夏の終わり

 8月末の月曜の夕方、陽が陰って少し涼しくなった公園。

 家族で散歩の途中、ベビーカーを止めてベンチで涼み、子供達も一緒に木々や空を見上げる。最近の散歩メニューだ。

 木立からは、気づけば油蝉よりもツクツクボウシの声が強く響くようになった。


 日一日と、夕空は僅かずつ赤味の強い秋の色に移り変わっていく。

 夏の終わりは、いつもたまらなく切なくて、寂しい。



 神岡と並んでベンチに座り、空を仰ぐ俺のスマホが、ふとメッセージの着信を知らせた。


『神岡さん三崎さん、こんにちは〜!

 今度の土曜、花火大会ですね。みんなで一緒に行きませんか? うちも家族で行こうと思ってるので♪ うちのダンナも、「ぜひ一緒に!」って言ってます♡』


 毎年8月最後の土曜に、マンションの近くの川沿いで花火大会が開催される。

 打ち上がる花火の本数も多く、例年たくさんの人で賑わう華やかなイベントだ。

 夏の最後の催しへの誘いのメールが、橘さんから届いた。


  たちばな 紗香さやかさんは、目下マンションのママ達の中で唯一俺たち家族と親しく交流してくれる、現在二児のママだ。

 彼女の姉は、大学時代にレズビアンであることを理由に友人たちとの人間関係が縺れ、それが原因で現在鬱病を患っている。そういう理不尽な現実を目の当たりにした経験から、少なからず周囲の偏見を受けている俺たち家族を応援したい、と申し出てくれた心強い存在だ。


「花火大会か……そういえば最近行ってないですね。樹さん、今度の土曜、何か予定とかあります?」

 俺と神岡、橘さん3人のグループラインに表示されたそのメッセージに、俺は神岡に明るく顔を向けた。


「ううん、大丈夫だよ。いいね、夜空の大きな花火をみんなで見上げるなんて。随分久しぶりだ」

 俺の問いかけに答え、神岡も楽しげな笑顔を見せた。


 橘さんとは時々子供達を連れて一緒に散歩などに出かけているが、こんな風に家族同士が連れ立って、という計画は初めてだ。彼女の旦那さんも乗り気でいてくれるというのも、俺たちには嬉しいことだった。



「そうだ。須和くんにも声かけようか。

 橘さんのように、同性同士の関係に共感してくれる存在と繋がるのは、彼にとってもきっとすごく心強いことだろ?」


 神岡の提案に、俺は再び顔を上げて彼の表情を見た。

 彼は穏やかに微笑んで俺を見つめ返す。



 お互いの心が突然行き違い、それぞれに深く苦しんだあの日。

 漸く気持ちを再び結び合った俺たちは、改めて話し合った。

 お互いを疑うことも、須和くんを疑うことも、もうやめようと。


 須和くんは、俺たちの大切な友人だ。

 何も起こらないうちから先回りして、俺へ向ける彼の想いを遮断するなど、したくなかった。

 やっと手にした希望を突然断ち切られる須和くんの痛みを思うと、そんなことは絶対にできない。


 それに——須和くんの存在を不安と捉えることも、つまりは俺たちが彼を信頼していないことと全く同じなのだ。


 俺たちは、須和くんを大切な仲間として、これからも温かく繋がっていきたい。

 今までと、全く変わらず。


 あの日、俺と神岡は、そんな気持ちを確認し合った。



「——つまり、あの一件は、僕の強烈なヤキモチがうっかり大爆発したせいだったりするのかもな」


 神岡は、どこか照れたようなむくれたような変な顔をしながら、ふうっと夕空を仰ぐ。


「そうですね。

 あなたは、変なところで子供みたいにヤキモチ焼きですから」


 横でクスっと笑う俺に、彼は一層ふくれっ面になりながら立ち上がり、ベビーカーで機嫌よく手足をパタパタさせる晴を抱き上げた。



「——でも。

 そんなあなただから、俺のあなたへの想いは、これからも決して変わらない。——そう言い切れるんです」


 晴を胸に抱いて夕陽を見るその背中に、俺はそう付け加えた。

 そして俺も、ベビーカーの湊を抱き上げて神岡の隣に立つ。


「……何だか変なフォローだね?」

 黙り込んでいた神岡が、ちらりと俺を見た。


「フォローなんかじゃありませんよ。

 あなたが、いつもこうして、出会った頃と少しも変わらない想いを向けてくれるから。

 だから俺も、迷うことなくあなたの隣を歩いていける。

 どれだけ山や谷があったって、迷うことなく前進できるんです」


「……ってことは、僕のみっともないヤキモチも少しは役に立ってる、ってことかな」

「だって、何年経っても好きな人から嫉妬してもらえるなんて、こんな嬉しいことないでしょう?」


 複雑に曇った彼の表情が、やっと少し元気を取り戻した。

 こういう時のこの人は、まるでまっさらな少年みたいだ。


「ってか、あなたは常にプリンスのキラキラオーラ撒き散らしてるくせに、なんでそんなヤキモチ焼きますかね……ぶっちゃけた話あなたの方が遥かに大勢の人から密かに熱い想いを寄せられてるはずですよ。俺はいくつヤキモチ焼いても足りません。あなたの日々仕事してる姿が俺から見えない場所でほんとよかったなー」


 そんなことを話す俺を見つめていた彼が、不意にすいっと背を屈めた。

 拒否る間もなく、柔らかに温かい唇が重なる。


「……っ……!?」


 しかも、その勢いでそれぞれに抱いた晴と湊の額がゴツ……っとなかなか強く衝突する音が響いた。


「……いっ、樹さんっ! こっここ、公園……!!

 しかも子供達が今ゴツって……!」

「……ふ、ふぁ……っっ!!」

「……んぁ……ふぎぁっ……!!」

「だって、こんなの我慢できるわけない……息子たち済まない、ここはぐっと堪えてくれ……ああ、もうムリだ今すぐ帰ろう柊くん!!」

「ちょっ、今すぐって……急いで帰ったってまだ山ほど家事ありますからっ!!」

 激しく泣き出す子供たちを必死に宥めつつ、俺はぶわっと熱くなる頬をそんな言葉で誤魔化した。



 そんなこんなで、俺たちの仲はこの期に及んでますます絶賛再沸騰モードだったりするのだった。









 花火大会当日、午後6時。

 俺たちと橘さん家族、そして須和くんは、会場から少し離れた公園のライトの下に大きなシートを敷いて、その上にのんびり足を伸ばしながら大会の開催を待っていた。


 晴と湊、橘さんの下の子のりくくんは、いわゆる「タメ」である。3人とも既におすわりスタイルをすっかりマスターしており、それぞれお気に入りのおもちゃを振ってはしゃいだり歯固めをあむあむと噛んだりして、目下のところ機嫌は上々だ。

 その陸くんの側には、お姉ちゃんの優愛ゆあちゃんが紗香さんの作ったおにぎりを食べながらぴったりとくっついている。来年は小学1年だ。小さな弟を見守る眼差しはもう立派なお姉さんである。


「大会の中心部へ小さな赤ちゃんを連れて行っちゃうと、オムツ替えもできないし子供は驚いてギャン泣きするしもう大変なんですよー」と、紗香さんが過去の失敗談を聞かせてくれた。こういう時に先輩の言葉は大変参考になる。

 他にもいくつかの家族連れが、同じように広場にシートを敷いてちょっとした宴会を開いていた。


「いやあ、妻から話は聞いていましたが、本当に眩しいほどにイケメンなパパお二人ですねえ。また双子くんたちがまるで天使みたいだ」

 控えめに持ち寄ったビールを少しずつ飲みながら、橘さんの旦那さんが柔和な笑顔を浮かべる。少しふっくらとした体型の、とても優しそうな人だ。

「ね? 大輔だいすけさん。私の言った通りでしょ〜?」

「うん、サヤちゃんががいつもあんまり目をキラキラさせて話すから、実はちょっとだけヤキモチ焼きそうになってたんだ。でもこうやって実際会ってみて、君の気持ちよくわかるよ〜」

 どうやらこの夫婦も熱々甘々のようだ。


「それに今日は、またこんなピチピチのかわいい大学生くんともお知り合いになれるなんて、うふふっ♡」

 そんな紗香さんの言葉に、須和くんも照れたように微笑んだ。

「俺、これまで狭い空間にひとりで閉じこもってましたけど……こんな風に世界が広がっていくなんて。めちゃめちゃ嬉しいです」

「うん、きっとそうだね」

 ビールの缶を置いて、大輔さんが深く頷く。


「思えば、僕も若い頃は自分自身がとにかく嫌いでね。自分の中に閉じこもって卑屈になってたことも随分あったよ……でも、そこに閉じこもり続けるのも、殻を破るのも、結局は自分次第だ。

 自分が気持ちの持ち方を少しずつでも変えられれば、その瞬間世界は広がっていくんだよね。

 自分から動いて、心を開いて。どんどんいろんな人と出会い、いい関係を作っていく。それによって、思いもしなかった自分に成長したりもする。それってすごく素敵なことだなあと思うよ」


 大輔さんの穏やかな言葉が、じわりと胸に染みる。


「うん、そうだよなあ……思い切って踏み出すって、すごく大事かもな。

 俺も、就職活動全部すっ飛ばして、大学院卒業後フリーターでガソリンスタンドでバイトしてたからなー」

「……は……? 

 マ、マジですか……??」

 俺の言葉に、須和くんが口をあんぐりと開けて目を丸くした。

「あー、なんかね、みんながやってる通りにフツーに学生終えてフツーに就職する意味が、急にわかんなくなっちゃってさ。就職云々しちゃう前に、何か自分の全く知らない世界を覗いてみたい、というかね。

 で、そのガソリンスタンドで樹さんと出会って。いきなりとんでもなくおかしな契約持ちかけてきたんだよー、この大企業の副社長が。今思えばちょっとしたナンパかな〜。ね、樹さん?」

「やはり僕の目に狂いはなかったよ。ナンパかどうかはさておき」

 この会話の内容を聞いた大輔さんが、何か急に上ずり気味な声を出した。

「え、神岡さん……って、え??

 じゃあ……もしかして、あなたはあの……」

「あ。はい、神岡工務店の副社長やってます。今育休中ですけど」


「…………」


 今度は橘夫妻の目が丸くなる。そう言えば詳しいことは話してなかったっけ。



「——だからさ、須和くん。

 君にも、ここからたくさんの人に出会って、広い世界をたくさん見て欲しい。

 まだまだたっぷりあるその時間と、有り余る可能性をフルに活かして。

 君の人生は、君だけのものだ。何にも縛られる必要なんてないんだよ」


 須和くんを見つめ、俺はまっすぐにそう伝える。

 神岡も、俺の言葉に合わせて静かに頷いた。


 どこか複雑な面持ちで俺と神岡を見ていた須和くんは、ふっと表情を緩めて小さく微笑んだ。


「————そうですね。

 俺も、自分から見つけに行かなきゃいけませんね。

 じっと待っていても、幸せは向こうからはやって来ない……そういうことなんですね」



 大会の開始を告げる一発目の花火が、華やかに打ち上がった。

 これが、今年の夏の最後のイベントだ。


「うあーー、ねえママ見た!? 今の花火、ハートの形だったよ! きれい〜!!」

 花火の破裂音と優愛ちゃんの歓声に、晴たちも小さな顔を空へ向ける。

 潤いを湛えた6つの瞳に、眩しい光が花開いては流れ落ちた。

 ——その小さな脳裏に、今夜の夜空が記憶されるかどうかはわからないが。



 それぞれの思いを胸に抱きながら、俺たちは次々に打ち上がる大輪の輝きを瞼に刻んだ。





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