微かなざわめき

 お盆休みの最後の日曜日。

 酷暑の陽射しも西へと傾き、微かに涼しい風が吹き始めた。

 じいじばあばにたっぷり遊んでもらった子供達は、ベッドでぐっすり昼寝の最中だ。


 帰り際の玄関口で、両親は満足を全身に満たしたように明るく微笑んだ。

「いやあ〜、実に楽しいお盆休暇を過ごさせてもらった。

 晴も湊も、ほんとにいい子だ。二人とも間違いなくいい男に育つという確信を抱いたよ。

 次は年末年始かな。母さんと可能な限りの休暇を取得しておくから、今度は横浜の方へも遊びにおいで」

「そうそう! 元日はイコール二人の誕生日よね!? おめでたいことがてんこ盛りで目が回りそうねー♡

 晴ちゃんとみーちゃんの遊べるスペースとおもちゃをたっぷり準備して待ってるわ♪」


 見送りに出た俺と神岡は、名残惜しい気持ちで二人の笑顔を見つめる。


「うん。

 父さん、母さん、今回はありがとう。時間をたくさん作ってくれて」

「本当に、みんなで喋って笑う時間がこんなにも楽しくて幸せなものなんだと、僕も初めて味わった気がします。

 ありがとうございました、お義父さん、お義母さん」

 神岡も、俺の隣で深く頭を下げた。


「——須和くんにも、よろしくな。

 辛いことや悩みは我慢せずに誰かに吐き出したらいいと、彼に伝えておいてくれ。

 きっと、これまで誰にも辛さを見せられず、ひとりで苦しみを抱えていたのだろうからな」

「そうね。あなたたちも育児で忙しいでしょうけど、できる限り彼を支えてあげなさいね」

「ん。そのつもりでいるよ」


 昨夜の花火の後、須和くんも加わった我が家での賑やかな夕食の場で、須和くんは自分の性的指向のことを改めて俺たちに打ち明けた。

 高校時代、親友だった相手に彼女ができた時に訪れた強烈な苦しみ。その感情を経験して、初めて自分が親友に惹かれていることを知った、と。

「生まれてはいけない恋心が生まれてしまう俺たちに、一体どうしろっていうんでしょうね、神様は」

 小さくそう呟いて目を伏せた須和くんの寂しい微笑みが、瞼から消えない。



「——僕たちも、彼がまさに今経験している苦しさを味わいながら、ここまで歩いてきました。

 明るい方へ顔を向ける力さえ失わなければ、光の射す道が必ず目の前に開けると……そのことを、彼に伝えられたらと思っています」


 穏やかながら力に満ちた神岡の明確な言葉を、両親は嬉しそうに受け止めた。



 二人の出て行った静かな玄関を、俺たちは立ったまましばらく見つめた。


「——僕たちは、本当に幸せだね」


 神岡が、静かにそう呟いた。


「ええ。……本当に」

 

 そんな返事をすると同時に、突然目の奥がぐうっと熱くなる。

 それを慌てて堪えながら、俺は明るく神岡を振り向いた。

「さあ、また慌ただしい日常が戻ってきますね。そろそろ夕食準備始めないと! 樹さん、お風呂の準備お願いします!」

「ん、そうだな!」


 今俺たちの手にしているこの幸せを、思い切り大切にしよう。

 改めてそんなことを強く噛み締めながら、俺はエプロンの紐をぎゅっと結んだ。









 その翌週、8月の下旬の日曜。

 俺たちは、藤堂クリニックへ晴と湊の7ヶ月健診に来ていた。

 この時期は、赤ちゃんの発達の遅れが見つかりやすい時期だ。どんなに健やかに育っているように見えても、何か隠れた異常などがないかと内心微妙に不安であったりもする。


「三崎さん、診察室へお入りください」

「ふう……まだ晴も湊も歯が生えて来ないけど……まさか何か異常とかがあったら……はあ」

「ははっ、大丈夫だって。生える時期は個人差があるって調べたろ?

 じゃ、待合室で待ってるから」

 ざわつく思いを神岡に明るく励まされ、俺は子供達を連れて診察室へ入った。


 紙おむつ一枚になった晴と湊を、藤堂は一人ずつ診察台に乗せ、お座りの姿勢を取らせたり、脇を支えて立たせたりしながら身体の反応などを注意深く診察していく。

 その度に、二人は何か遊んでもらってでもいるように瞳を輝かせ、小さな手足をパタパタぴょんぴょんと動かして無邪気に楽しんでいる。

「うきゃきゃっ」

「う〜ぶぐぐう〜」

 入浴や着替えの時以外はベビーウェアに包まれているふっくらと丸いお腹や、健やかに白い背中。そういうものを露わにしてはしゃぐ二人の天使っぷりはいつもの100倍増し……いや1000倍増しだ。背中に純白の小さな翼をつけたなら、まさに絵画から抜け出たエンジェルじゃないか……と、不安をしばし忘れて密かに打ち震える。全くもって深刻な親バカ状態だ。


「うん。二人とも、身体の機能は問題なく発達してるな。全身異常なしだ」

 ひと通り検査項目の診察を終えた藤堂は、いつもと変わらぬ快活な笑顔を浮かべた。

「——よかった。

 ありがとうございます」

 俺はほっと胸を撫で下ろす。

「晴も湊も、まさに健康そのものだ。二人の離乳食の進み具合はどうかな?」

「はい、波はありますが、二人とも大体よく食べています。最近は白身魚やささみなどのタンパク質も少しずつ増やしています。そろそろ食事の回数を1日2回に増やしてもいいのかな、と思っているのですが……」

「そうか。よく食べているなら1日2回に進めていい時期だ。ただ、初めて食べる食材はアレルギーの可能性もあるから充分慎重にな。

 ——それにしても、実に美しい子たちだ」

 藤堂は、それぞれのカルテに手早くペンを走らせると、まるで実の孫を見るように二人を見つめ、目尻を下げながら微笑んだ。

 そして、別のカルテを取り上げながら今度は俺に向き直った。

「さて。次は君の体調だが。最近調子はどうだ? 問診票を見ると、母乳をまだ継続できているようだね。ただ、女性のようにいつまでもふんだんに出し続けるのは難しいんじゃないかという予想はしているんだがな」

「そうですね。やっぱり最近量が減ってきてるのかな、と感じます。母乳の後にミルクをしっかり与えないと、子供達が足りなさそうにぐずるんですよね」

「うん、そうだろうな。ごく自然な経過だよ。私はむしろ驚いている。7か月まで母乳を継続できるなんて全く予想していなかったからね……三崎くん、本当に素晴らしいよ。

 君の身体はもともと男性なのだから、今後更に母乳に固執することはないと私は思うぞ。思い切ってミルクに切り替えてしまうのも一つの方法だ」

「切り替え……ですか」

「粉ミルクも栄養的には母乳に全く劣らないし、何と言っても母体が楽になるからな。……念のため、乳首に炎症などがないか診ておこう」


 先生の言葉に従い、シャツの前を開ける。


「——ほう……」

 藤堂は、例によって俺の胸をまじまじと見つめ、やがて宝物を崇めるかのようにじっくりと指で触れつつ恍惚とした溜息を漏らす。


「……何度も言うが、人体というのは驚異的だな。

 男性であっても、必要となればこんなにも皮膚が柔軟になり、大きな傷や炎症もなく授乳が可能になるなんて……まさにこれは、生命が紡ぎ出す奇跡の美しさだ……」

「はあ」

 ある意味恥部をつぶさに観察され、俺はもじもじと居心地の悪い返事を返すしかない。


「——三崎くん。できればこの美しい乳首の画像を是非とも一枚欲しいのだが」

「えっ……が、画像……!?

 いや流石にそれは……っ」

「……だよなあ……

 学術的にも非常に貴重な資料になるのだが……」

「…………済みません」


 こういう時にいつも微妙にヘンジン化する藤堂だが、世に名を轟かす天才的名医の職業病なのだろう。できることならば、この偉大な恩人に恩返しをして喜ばせたいのは山々だ。

 とは思いつつも、流石に学会で自分の乳首の画像を学者達に晒す覚悟など持てるはずもなく、シャツを搔き合わせながら激しく複雑な心境を噛みしめる俺である。









 健診から帰る車内で、緊張感から解放された俺は隣でハンドルを握る神岡に立て続けに喋った。


「藤堂先生、二人ともすこぶる順調だと言ってましたよ。大丈夫だろうと思っても、健診なんて毎回不安なものですねー。離乳食も1日2回にしていいだろうって。美味しい時の二人の目のキラキラっぷりが『うまっ!』って叫んでて、いつも笑っちゃいますよね」


 そんな俺のお喋りを、神岡は前を見ながら静かに聞いている。


「そうそう、母乳もそろそろ出が悪くなってきたらミルクに切り替える方法もあるって。確かに楽にはなりますよね。どうしましょうか……あれ、須和くんから電話きてる」


 診察中神岡に預けていたトートバッグからスマホを取り出すと、須和くんからの着信が一件ついていた。

 ふと、目の前の信号が赤に変わり、車が静かに停止する。



「——そうだな。

 僕も、母乳からミルクに切り替えるのは賛成だ」


 不意に改まった声に、俺は思わず隣を見た。

 神岡は、じっと俺を見つめている。


「母乳のために、君もずっといろいろ我慢してたろ? 脂っこい食事とか、コーヒーとかお酒とか。

 僕もそろそろ、君とまたゆっくりワインでも飲んで、たっぷり喋ったり笑ったりしたくなってきたよ。二人でそういう時間、もうずっと持ててなかったから」


「……」


「——それに……」



「……それに……何ですか……?」


「——いや。

 とにかく、少しくらい育児が楽になる方法を選んでもいいんじゃないかな、なんてね」


 信号が、青に変わる。

 一瞬俺に向けた強い眼差しをいつもの穏やかな色に戻して、彼は何事もなかったかのように運転を続けた。



 ただ、その一瞬の違和感だけが、俺の胸に微かに残り続けた。



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