同志

「——あ、突然ごめんなさい。私、たちばな 紗香さやかと言います」


 その女性は、唐突な申し出をしたことに一瞬戸惑ったように、改めて自己紹介する。


「私は神岡 樹と申します。どうぞよろしく」

「彼のパートナーの三崎 柊です。よろしく」


「ママー。ちょうちょ、あっちとんでっちゃったー。……あれ、この人たちだれー?」

 その時、横の広場から駆けてきた可愛らしい女の子が彼女のスカートに纏わりついた。

「私の娘の、優愛ゆあです。今幼稚園の年長で。優愛、ご挨拶は?」

「…………ゆあです。5さいです」

「優愛ちゃん、こんにちは。お利口だね、ちゃんと挨拶できて」

 神岡がそう褒めると、女の子はぱあっと明るい笑顔になり、ぴょこんと母親の後ろから出てきた。

 ポニーテールを揺らして、我が家のベビーカーの中を無邪気に覗き込む。

 「あー、あかちゃんふたりいる! かわいいー! りくと同じくらいの大きさだねー」

「うん、そうね。

 こちらは優愛の弟の陸です。今5ヶ月です」

 彼女は自分のベビーカーの中でパタパタと元気に手を動かす赤ちゃんを示しながら言う。

 俺も同様に、我が子たちを彼女に紹介した。

「晴と湊です。二卵性の双子で、今4ヶ月です。ブルーのベビーウェアの方が兄の晴、黄色が弟の湊です」

「じゃ、うちの陸と同級生ですね! こんにちは、晴くん、湊くん。二人ともパパたちに似てイケメンくんだねー」

 彼女もベビーカーを覗き込むようにしながら、二人に優しい笑みを降り注ぐ。



 最初に彼女が俺たちに声をかけた際の「少し話したい」という言葉に、俺たちは先ほどから些か身構えつつその様子を窺っているのだが、今のところ彼女から敵意や嫌悪感ようなものは全く感じられない。


 神岡が、とうとう彼女に向けて口を開いた。


「あの——

 先ほど、僕たちに何かお話がある、と仰っていましたが……」



「……そうですね。

 えっと……あ、そうだ。ここの奥にあるベンチ行きませんか?」


 彼女は少し表情を改めて、俺たちを見つめた。









 公園の一番奥にある、人気ひとけのない木陰に置かれたベンチに、俺たちは座った。

 優愛ちゃんは自分のバッグから絵本を取り出して膝に起き、母親の横で楽しげにページをめくっている。


「——お二人にお話っていうのは……その……」

 自分から申し出ておきながらも、彼女は何か言いにくそうに視線を俯ける。



「……大丈夫です。僕たちも、多少は気づいていますから。

 あなたが今日僕たちに話したい、というのは……何か非難や批判や、そういう類のものですか?」

 神岡は、彼女の心を推し量るように淡く微笑みながら言う。


「いいえ、違います!」

 彼女は顔を上げると、はっきりとそう答えた。



「そうじゃなくて……

 むしろ、あなた方の応援をしたいんです、私」

 そう話す彼女の目に、何か力のこもった光が浮かんだ。



「……」


「——私の姉、レズビアンなんです。


 そのことが原因で、大学時代に人間関係が酷く縺れてしまい……それ以来、彼女はうつ病を患っています。

 姉に対する周囲の冷ややかさや残酷さが、私にとっても本当に耐え難くて。今も姉のことを思うと、まるで自分のことのように怒りが込み上げます。


 そして、最近周囲のママたちがあなた方について囁く噂をしばしば耳にするようになり——どうにも我慢できなくなりました。

 ママ同士の付き合いは大事って充分知っていても、これだけは黙って彼女達の差別的な意識に同調などできません。

 私は、絶対にお二人の味方でいたい。それを、どうしても直接お伝えしたかったんです」


「——僕たちの立場をこうして強く応援してくださる方がいらっしゃるとは、思いませんでした。

 本当に嬉しいです、橘さん。ありがとうございます」


  神岡は彼女へ向けて柔らかに微笑み、言葉を続ける。


「けれど——

 あなたは大丈夫ですか?

 ママ同士の繋がりって、良くも悪くも結構濃厚なものじゃないかという気がして……こうして僕たちのがわにいてくださることが、あなたの不利益にはなりませんか?」


「大丈夫です」

 彼女は、真剣な表情で即答する。


「ママ仲間がいなければ、母親や保護者としての生活ができないなんて、そういう考え方ではいたくないって、私は思っています。

 誰かから又聞きした噂話を頼りにするんじゃなくて……自分自身が信じられる情報や考え方、生き方を、自分でしっかり選び取りたい。

 周囲の人が傲慢で理不尽な考え方を振り回すような人たちならば、私はそこに居たくありません。もし私が一人きりになったとしても。

 姉だって、深く分かり合えてると思っていた周囲の友達から、裏でこそこそ酷い言動を受け続けて……容易には癒えない傷を心に刻み込まれて。

 私は、憎いんです。そういう理不尽な人たちがまるで『正しい』かのように見えるこの社会が」


 小柄で優しげな印象を一変させ、彼女はその言葉と表情に深い怒りを滲ませた。


 俺も、彼女の思いを自分自身に重ねてみたその痛みを、思わず口にする。


「……お姉さんのことは、とても辛いご経験でしたね。

 もし自分の大切な人が誰かから理不尽に深く傷つけられ、苦しい日々を強いられるとしたら——俺も、許せません。絶対に。

 出産して、一層そういう気持ちが強くなった気がします。攻撃してくる相手に掴みかかってでも、大切なものを守り抜いてやる。そんな決意というか。——母性本能ですね」

 俺の言葉に、彼女は温かな眼差しを向けた。

「男性が妊娠と出産に向き合われるのは、どれほど不安だったかと想像します……これまで前例もなかったでしょうし」

 

「振り返れば、とんでもなく危ない綱渡りをしましたよね。まさか自分がそんなレアな身体だとは思わなかったし……俺も神岡も散々迷いました。

 けど、こうして息子たちを家族に迎えて、今はやっぱりそういうチャレンジに飛び込んでみてよかったと、心から感じています。彼も常に側にいて、しっかり支えてくれますし」


 そんな話の流れで小さく微笑を交わした俺と神岡を見て、彼女は今度はぱっと頬を染めてどこかもじもじとはにかんだ。

「あの、実は……お二人ともあまりにもイケメンというかお美しくて……あんなカップルが天使のような赤ちゃんと過ごしてる日々って、一体どれだけ天国なんだろう、なんて常々思ってました……

 時々お二人がベビーカー押しながら並んでお散歩に出かけられる様子を、陰からこっそり鑑賞させていただきつつ、うっとり溜息ついたりして……

 …………あ、なんかごめんなさい。私、ちょっと変わってますよね」


 ニマニマと微笑んだり恥ずかしげに困惑したり、その表情はくるくる忙しい。

 彼女のそんな微笑ましい言動に、俺たちの緊張も急速に解けていく。


「いいえ。むしろ、とても嬉しいです。

 世のママたちっていうのはこれほどに怖いものかと、内心どこかビクビクしながら最近過ごしてたもので。

 僕たちにも強い味方ができた気がしています」

「あの……もしできれば、これからもお友達のようにお付き合いさせていただけませんか? 優愛はもうすぐ小学校ですし、育児に関してはちょっとだけ先輩ですから。……何か困った時に手助けやアドバイスもできるかもしれません。

 よかったら、連絡先なども交換できれば」


 最初とは打って変わった打ち解けた空気に、彼女——橘さんは、顔を明るく綻ばせた。


 俺たちは、彼女からの嬉しい申し出に即座に頷いた。





* 





 散歩を終え、部屋で神岡と子供達のオムツを替えながら、俺は橘さんと先ほど公園で話した内容ををぐるぐると考えた。

 神岡も、きっと同じなのだろう。オムツ換えの手を止めないまま、ポツリと呟いた。

「彼女、きっと勇気を振り絞って僕たちに声をかけてくれたんだろうな……」


「俺も今、それを考えていました。

 でも、もしかしたら、そうせずにはいられなかったのかもしれませんね。

 大切な姉を残酷に攻撃され、心の病に陥れられて……同じような無神経さで生きている人たちを、どうしても許すことができないんじゃないかと思います」


 神岡の眉間が、微かに曇る。

「けどな……

 例え一人になっても、理不尽な人たちには同調したくないと、彼女は言っていたが……陰湿な嫌がらせ、というのも、エスカレートすると恐ろしいものだと、そんなことをつい考えてしまう。

 例えば、グループラインで一人だけ仲間はずれにして情報のやりとりをしたり、何かの計画を裏で進めたり……少し考えただけでも、残酷極まりない嫌がらせができてしまう時代だ」


「……確かに、そうですね……」

 あの優しい笑顔が、悲しみや辛さで歪むところを想像すると、ギリギリと胸が痛む。


「彼女は、これからも僕たちの心強い味方でいてくれるだろう。

 けれど……場合によっては、僕たちも彼女を守ってやらなければ。そういう状況が起こらないとは、決して言い切れない。

 常にそういう意識を働かせながら、彼女と温かく関わっていこう」


「そうですね。

 とても素敵な女性に出会えて、俺たちは幸せですね。

 彼女に守られて、そして守って、一緒に明るい方へ進んでいければ……」



 そろそろ空腹でぐずり出した子供達を二人で抱き上げ、俺たちは眼差しを交わして微笑み合った。




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