舅と姑

 6月に入った。

 子供達は生後5ヶ月目である。


 最近、晴と湊は、「お互いの存在」を認識し始めたようだ。

 これまではなんとなく曖昧に一方通行しているようだった二人の視線が、最近はお互いに見つめ合い、その存在をちゃんと感じ合っている様子が見える。

 更にここ数日は、お互いの顔へ手を伸ばしたり、相手の手を掴んで指を口に入れようとしたり、そんな積極的な触れ合いも始まった。

 二人は今、「兄弟」の関わりを持ち始めたのだ。


 うあーーー……。

 言葉にならない感動が押し寄せる。



 これから、長く長く続いていく、かけがえのない関わり。

 どうかお互いを温かく思い合い、強く支え合える繋がりを築いてほしい。

 二人の微笑ましい様子を見つめながら、そう願う。 



 神岡は、育休中も時々会社へ連絡を入れ、副社長としてのアンテナを常に張っている。彼の話では、神岡工務店も副社長不在の年度始めを無事乗り切ったようだ。社長の決断力と経営陣の懐の深さには、改めて深い感謝と敬意を抱かずにはいられない。



 6月下旬、土曜の午後。

 梅雨の晴れ間の日差しが眩しい。

 先ほど授乳を終えた子供達は、窓からの爽やかな風に吹かれてお昼寝タイムだ。


 二人の寝顔を見守る俺の耳に、電話のベルが鳴った。


『柊くん、久しぶりだな! 育児でてんてこ舞いの時期に、何一つ手助けできなくて本当に済まなかった。みんな元気にしてるか?』

 義父兼神岡工務店社長の相変わらずパワフルな声が電話の奥から響いた。


「お久しぶりです、お義父さん。

 こちらこそ、樹さんの育児休暇取得を承認くださり、まるで夢のようだと日々感謝しつつ過ごしてます。本当にありがとうございます」

 久々にオフィスのぴんと張り詰めた空気を思い出しながら、改めて義父に感謝の気持ちを伝える。

「おかげさまで、俺たちも子供達も元気です。晴と湊の成長スピードはほんとに驚くほどで。健診結果も順調です」


『それは何よりだ。

 そろそろ男の子ならではの腕白っぷりも見えてくる頃じゃないか? こんな仕事してなきゃ朝から晩まで孫たちにべったりしたいところだがなあ。

 会社の方も年度切り替えの山場を何とか乗り越えたし、久しぶりにみんなでうちに食事にでもしに来ないか? 麗子も楽しみにしてるしな』


「ありがとうございます。お義母さんの手料理いつもめちゃくちゃ美味しくて、すごく楽しみです。樹さんと話して日程調整してみます」

『ははっ、麗子に伝えておくよ。柊くんが褒めてたって聞いたら喜ぶぞ』



 受話器を置きながら、随分ご無沙汰してしまったな、と思う。

 お互いにてんてこ舞いだったとはいえ、義父も義母も孫の顔はきっと見たかったはずで。

 頑なに手助けを頼まなかった自分の頑固さを、今になって微かに複雑な気持ちで振り返る。


 けれど。

 だからこそ、神岡は俺の側で一緒に育児に向き合うことを決めてくれたのだ。

 そして彼も、子供達の成長を見つめるこの日々に幸せを感じてくれている。


 結果が良かったのだから、これで良かったのだと——そう思って、次へ進もう。

 俺は明るい窓の外を何となく見つめた。



「柊くん、誰かから電話?」

「ええ。お義父さんからで。久しぶりに食事に来ないか、って誘ってくださって。実家へ顔出すのも思えば久しぶりですよね」


 ベランダで洗濯物を取り込んでリビングへ入ってきた神岡に、そう答える。


「んー、そうだよな。会社の方も相当慌ただしかったようだし、お互いに全く余裕がなかったからね。

 育休の間は副社長業務の負担を家庭内へ持ち込ませたりはしないと親父が約束してくれているのは本当に有り難いが、それはそれで大丈夫かと時々気になるものだね」

 冷蔵庫からスパークリングウォーターを取り出してグラス二つに注ぎ、神岡は微かに苦笑いを浮かべる。


 彼が何気なく手渡してくれるグラスの冷たさが心地よい。

 こういう幸せに満ちた時間を味わえるのは、周囲の深い配慮に守られているからこそなのだと改めて感じる。



「——樹さん。

 お義父さんとお義母さんに、改めて感謝の気持ちをしっかり伝えたいですね。

 今俺たちの目の前にある幸せは、お二人の力がなければ絶対に実現しなかったことで……副社長に一年の育児休暇を与えるなんて、どれだけ勇気のいる決断だっただろうと、改めて思います。

 晴も湊も、これほどに愛情深いおじいちゃんおばあちゃんに守られて。これ以上幸せなことはありませんね」


 空になったグラスをローテーブルに置き、洗濯物の入ったカゴを引き寄せながら話す俺を、彼は優しい眼差しでじっと見つめる。


「うん。そうだね。

 でもな——僕は、今の僕たちの間にあるこの繋がりは、君が育ててくれたものだと思ってる」


 そんな静かな呟きに、俺も彼を見つめ返した。

 その穏やかな瞳の奥には、両親に対して長く抱き続けていた複雑な感情が微かに見え隠れしている気がした。



「自分に向けられている愛情に気づき、それをしっかりと受け止めて、感謝すること。

 今君が口にしたそういう気持ちのやりとりが積み重なって初めて、人と人の深い結びつきが生まれるんだと——互いの努力なしには、温かな関係は決して生まれないのだと。

 君の生き方を見ていて、僕は初めて学んだ。


 お互いに相手を本気で思い合うことが、こんなにも温かい幸せを育てるなんて……隣に君がいなければ、今僕の周囲に満ちているこの温もりは決して手に入らなかった。

 両親を尊敬し、愛し、大切に思う。自分の関わる人たちとの繋がり一つ一つを、愛おしく思う。

 そんな感情が、今は自分の中に驚くほど大きく育ってる。


 幸せを作るために知っていなければならない大切なことを——全て、君が教えてくれたんだ」 



 神岡は日頃から愛情表現が豊かで濃いタイプだが、こんな風に改めて想いを伝えられるのは嬉しさを通り越して全身がむず痒い。


「……あなたが俺を愛してるのはもうよーーく知ってるんで。

 じゃ来週の土曜にでも早速実家へ挨拶へ行きましょう、樹さん連絡よろしく」


 結果としてとんでもなく仏頂面でギクシャクと不自然極まりないリアクションになった俺に、神岡は可笑しそうに肩をクックッと揺らした。









 その翌週、土曜の夕方。

 子どもたちの風呂や授乳など、概ねやるべきことを済ませた俺たちは、ご機嫌な息子たちと育児グッズを詰めた大きなトートバッグを車に乗せ、神岡の実家へと向かった。

 手土産は、二人の好きな銘柄のヴィンテージワインだ。義父は赤、義母は白が好みで、選び抜いた二本に美しくラッピングを施したちょっと気合の入った品である。



「いらっしゃ〜〜い♪ 待ってたわよ〜!

 きゃーおっきくなったわね晴も湊も! 麗子おばあちゃんよー覚えてる〜?」

 玄関で出迎えた義母はまるで少女のように目を輝かせて、神岡と俺の胸に抱かれた晴と湊を覗き込んだ。

「おお、待ってたぞ。柊くんも元気そうだな、安心したよ」

 その背後から、義父もほっとしたように柔らかい笑顔を見せた。


 突然自分たちを取り巻いた慣れない声や空気に、子供たちは微妙に緊張したようだ。それぞれ義父と義母をじっと見つめて表情をぐっと固くしている。

「ほらー晴、湊! おじいちゃんおばあちゃんだぞー、久しぶりだなー」

 息子たちのこのリアクションに内心大いに焦った俺は、慌てて二人に明るく声をかける。頼むからここでギャン泣きとかやめてくれお願いっ!!

「ふふ、仕方ないわよ。赤ちゃんはいつもと違う気配とかには敏感なんだから。リビングにマット敷いてあるから、二人はそこへ降ろすといいわ」

 そんな様子を特に気にもとめず、義母は優しく微笑む。

「さ、上がって。麗子がクッキングスクールで習ったヘルシー志向のメニューらしいから、母乳などにも悪影響はないはずだぞ」

「そうそう♡ 柊くんが褒めてくれたって充さんから聞いたから嬉しくって頑張っちゃったわー♪」


 賑やかにそんな話をしながら廊下を先に立って歩く両親の後ろで、神岡がこそっと俺に囁く。

「柊くん、親の緊張は赤ちゃんにもダイレクトに伝わるらしいから。ここはひとつリラックスしていかなきゃ」

「ええ、そうですね。しかしなんでこんな緊張するんですかね……」


 俺たちの顔も、気づけば子供達同様にどこか固く強張っている。

 お互いのそんな表情に、俺たちは苦笑混じりにクスッと笑い合った。



 子供達を抱いてリビングへ入った俺たちは、度肝を抜かれた。


 広い床の上に敷かれた、カラフルな子供用のマット。

 大きなサイズの賑やかなプレイジムと、青と黄色の可愛らしい木馬が二つ。組み立て式の小さな滑り台。

 まるで小さな遊園地にでも来たようなその光景は、俺たちが全く予想していないものだった。


「こう広いスペースに二人きりで暮らすってのも、歳とるとなかなか寂しいもんでな。晴と湊のことを思う度に、こういう品物が気づけば室内にどんどん増えてしまったよ」

「そうそう。二人ともあっという間に立って、歩いて、活発に遊ぶ年頃になるわ。そうなったら、この場所も思いっきり使ってもらえるわねー♡ なんて、充さんといつも話してるのよ」


 そんな話をしながら、二人は温かな笑顔を見合わせる。




「……」



 俺たちは——きっと、気づけていなかった。

 二人の、子供たちへ向けるものの大きさを。

 こうして絶え間なく注がれている、その愛情を。



 抑える間もなく、ぶわっと目の奥が熱くなる。


 俺は、二人からのこの愛情を、知らず知らずのうちに拒否してきたのではないか。

 頑として舅や姑に頼ろうとしなかった俺のその気持ちもまた、この上なく身勝手なものだったのではないかと。



「樹、柊くん。

 私たちは、確かに一般的な祖父や祖母とはだいぶ違う環境にいるかもしれない。

 それでも——自分の子供や孫を深く愛したいと思う気持ちは、世間一般のじいじばあばと全く変わらない気でいる。目に入れても痛くない、とはよく言ったものだな。

 だから。

 お前たちも、ここを存分に使って欲しい。

 無理にとは言わない。お前たちの育児に首を突っ込む気も一切ない。

 だが——私たちが必要な時は、思い切り頼って欲しい。

 私たちは、いつでもお前たちを待っていると。

 それだけは、どうか覚えておいてくれ」


 義父の温かい眼差しと声が、深く胸に沁みる。



「——ありがとう。

 父さん、母さん」



 伝えたい思いが溢れる時に限って、言葉はうまく出てこない。

 おそらく同じ気持ちでいる神岡の、どこか苦しげに詰まるような声に、俺の胸の奥は一層熱くなる。



 二人の柔らかな微笑みへ向けて、俺たちはそのまま深く頭を下げた。




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