1-③

 昼休みのあいだ、談笑は続いていた。しかし、サギが「教科書返すの忘れてた」と言って急に去ってしまったため、僕はどうも居心地の悪い感じでふわふわしていた。一緒に行けばよかったと後悔したときにはもう遅かったのだ。


「そだ、クッくんの楽器ってどんなの?」


 脇谷先輩が尋ねる。サギがいなくなった途端、挙動不審さが増した僕を気にしたのだろう。気を遣わせてばかりだ。


「中学の時はオーボエでした」


「へー。難しい?」


「音を出しにくい楽器なので」


「そうなんだ」


 その声は我田先輩だった。吹奏楽の話に興味があるらしい。


「高校でも、そのおーぼえにするの?」


 また脇谷先輩が訊く。どんな楽器かは知らなさそうな感じだ。


「まだわからないですけど……、希望者が少ない楽器だから、させられるかも」


「へぇ……」


 確実に我田先輩は関心を持っている。でも、僕の脳はおもしろい話を思いついてはくれず、脇谷先輩の質問に答えることしかできない。無念だ。


「音楽系の部活もいいよねぇ。もっと手先が器用だったらなー」


「弓道も手先は重要だと思うけど」


「そうかなぁ。集中力って感じだけど」


「まあ、それが一番だよね」


「私は弓道も無理。竹刀振り回すほうが楽だわ」


「牡丹って結構ガサツだよねー」


 再び三人で会話が弾む。また気を遣わせるのも悪いので、確認という簡単な方法で会話に入ってみることにした。


「わ、脇谷先輩と我田先輩が弓道部で、真木先輩が剣道部ですか?」


「あったりー。めっちゃ和でしょ? だから私ら大和なでしこトリオって呼ばれてるの」


「呼ばれてない呼ばれてない」


 真木先輩が突っ込むと、我田先輩がクスッと笑う。サギが去ってから我田先輩の笑顔を見られる機会が増えていた。そういう意味では、あのタイミングで行かなくてよかった。


 我田先輩は笑うとさらにかわいい。


 同級生が僕に言うのと同じように、僕が先輩に言うのは失礼なことかもしれない。それでも、この胸の高鳴りの原因を簡潔に表現するには、その言葉が最も適していた。


「そだ、私、美和でいいよ。脇ってつくのなんか嫌じゃない? だから、みんなは美和とか美和ちゃんって呼んでるし」


 脇谷先輩が、ふいにそんな提案をする。僕はちと困る。


「えっと……」


「ほら、呼んで呼んで?」


 中学のときだって、名前で呼ぶ女の子はいなかった。なんか恥ずかしいし。それに、年上相手ってことも抵抗がある。


「み、美和先輩?」


「先輩もいらないなー。美和ちゃんでいこう」


 さらに難易度が上がる。ちゃんかぁ……


「……み、美和、ちゃん?」


「ぷっ――あはははっ!」


 すると、なぜか大爆笑される。何か変だったのか。


「な、なんで?」


「だって、名前にちゃん付けるだけで、なんでそんなに顔が赤くなるの? 純情すぎるよ!」


 そう言うと、我田先輩や真木先輩もクスクスと笑い出した。ただただ恥ずかしい……


「やっぱかわいい系よね」


「ヤバいっ、マジ愛らしいんだけどっ」


 ぐっ……。相手が先輩だから文句も言えない。


 でも、我田先輩を笑わせられたからよかったかもしれない。また笑顔が見られたし。


「あ、もう鳴りそう」


 そう言ったのは我田先輩だった。両隣の二人が我田先輩のスマホを覗き込む。


「ホントだ。そろそろ戻ろっか」


 そう言って立ちあがる三人。僕もワンテンポ遅れて立ちあがった。


「あの……本当にごめんね」


 いつの間にか、我田先輩が目の前にいた。一瞬目が合う。今度は向こうから逸らされることはなかったが、僕のほうが逸らしてしまった。


「あ、いえ……大丈夫、です。あの、僕もその、ごめんなさい」


 僕が言うと、先輩はほほ笑んでくれた。……やっぱりかわいい。初めての、僕に向けられた笑顔だった。


「それじゃあ」


 昨日から一転。ようやく笑顔が見られるようになったし、ちょっとだけ会話をすることもできた。


 しかし、これでよかったはずなのに、僕は少し物足りないような気分になっていた。


「あ、先行ってて。ちょっとクッくんと密談」


 そう言って、わーー美和ちゃんにそでを持たれる。また顔が赤くなっていることだろう。


「わかった」


「遅れないでよ」


 二人はそのまま去っていった。僕は流れに乗られないまま、現状を理解できずにいる。


 ……密談?


「へへっ、今日はありがとね。謝られに来てもらう、なんておっかしいよね。あははっ」


 美和ちゃんはにっこりと笑う。この人と一緒にいると本当に楽しそうだ。


「ところでさ、LEEN交換してくんない?」


 LEEN交換……。突然のことで、僕は少し動揺してしまう。


「えっと」


「やってない? LEEN。それじゃあメールとかでもいいけど」


「あ、いえ。やってます」


 僕は慌ててスマホを取り出す。どうやって交換するんだっけ……


「あの……慣れてなくて」


「ん? ああ、私がやったげるよ。貸して」


 美和ちゃんは所有者よりも慣れた手つきで僕のスマホを扱う。さすが女子校生だ。


「……どうしてLEENを?」


「連絡取りたいからに決まってんじゃん」


 呆れたように言う。これってこんなに当たり前のようにすることなのだろうか。


 僕がボーッと見ていると、美和ちゃんは小さくほほ笑んだ。


「……春奏、元気になったんだよ。元々大人しいからそうは見えないかもしれないけど、やっと立ち直れたかなって思ってた。それが、昨日あれだったでしょ? 正直焦ったよ」


 昨日の涙。それは僕だけではなく、美和ちゃんや、多分真木先輩の胸も痛めたようだ。


「クッくん見るだけで思い出すなんてきついじゃん。学校にいればまた会うだろうし、そのたびに苦しむの。クッくんだって辛いでしょ?


 あれは唐突だったからだと思うし、普通に会ってればあんなことにはならないよ、きっと」


 つまり、僕を見ると我田先輩が苦しくなるから、慣れさせたいということだった。


「あの……いつ亡くなったんですか?」


「去年の夏休み。入ってすぐ……だから私たち、夏休みは春奏と一度も会わなかったんだ」


 ということは、もう九ヶ月くらい経っている。それなのに、僕の顔を見ると、我田先輩は悲しい気持ちになる。


 それほど誰かが死ぬって辛いことなんだ。僕はその痛みをまだ知らない。


「クッくんがそんな顔しないで。春奏はもう大丈夫だから」


「あ、はい……」


 想像して憂鬱になった僕は、適当な返事をしてしまう。もう大丈夫。そう聞くと、なおさら自分の顔を見ただけで涙した我田先輩のことが心配になる。僕はそれほど彼女の弟に似てしまっているのだろうか。


「……あの」


「ん?」


「やっぱり、僕を見るだけで傷つくなら、もう関わらない方がいいんじゃ……。学年が違うから、そんなに会わないと思うし、僕がそのことさえ知っていれば、三階を避けることもできるわけですし……」


 そもそも、あれは本当にたまたまだった。サギが「中学のころの先輩がいるから」と二年生の教室へ行ってしまい、僕は待ちぼうけしていた。そのときに事故的に会ったのだ。


 こっちが我田先輩のことを、そしてその事情を知っているのなら、二年生のフロアである三階で待つことなんてない。


 移動もできるかぎり避けられるはずだし、移動教室や食堂辺りで見かけたとしても、片方が知っていれば避けられるわけだ。


 しかし、美和ちゃんは僕の言葉に口をとがらせてしまった。


「クッくんはそれでいいの?」


「え? あの……」


 僕の顔は途端に熱くなった。だって、我田先輩のことを気になっているのが美和ちゃんにバレているのかと思ったのだ。


 しかし、彼女の苦情は僕の思っていたものとは違った。


「せっかく今日こうやって話したんだよ? それなのに、会わないようにとか、避けたりとか嫌じゃん。なんか変」


 知り合って関わった以上、避け合うことは不自然だから、ということらしい。


「それにさ、春奏ってああ見えて結構おもしろいんだよ。仲良くなったら楽しいよ」


 にこやかに言う。人のほめ方は色々あるだろうけど、美和ちゃんが我田先輩に対して選んだのは『おもしろい』らしい。


 僕はそんな彼女に興味を持っている。おもしろいところだって知りたい。


 それでも、彼女を傷つけたくないし、また泣き顔を見るのは辛い。それは本来彼女の事情だけれど、僕の事情でもあるのだ。


「……でも――」


「もうっ! なんなの? 私らと仲良くすんの、そんなに嫌?」


 いい加減に面倒くさくなったのだろう、美和ちゃんは少し怒ったように言った。


「え? そんなことない――です」


「じゃあいいじゃん、今度遊びに行こうよ。私らといると超おもしろいからさー」


 すぐににっこりと笑顔を見せた。この緩急をつける手法は僕の母さんもよくする。簡略化したアメとムチだ。


 このタイミングで予鈴が鳴った。僕はそれに急かされるようにうなづく。


「わ、わかりました……」


「決まりねっ。てか次音楽だから急がなきゃ! じゃね!」


「はい。それじゃあ」


 僕は駆けだす彼女の後ろ姿に手を振る。すると、彼女は思い出したかのようにふり返った。


「敬語禁止にしよー!」


「はい?」


「禁止だから! じゃねー」


 そう言って、美和ちゃんは去っていった。僕は小さく手を上げたまま、その場で固まる。


 色々と思考が巡るけれど、緊張の糸が切れた僕の頭は、どっと出た疲れで働かなくなっていた。


 その後、予鈴がすでに鳴っていることを思い出し、僕は急いで教室へと戻ったのだった。



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