第11話

   第十一章


 ニューヨークでの生活は、ショウの肌に馴染んだようだった。街を歩くだけで楽しくなると言っていた。

 横浜の街ともなんとなく似ている気がしたのは、街並みや空気感ではなく、その人肌の温度だという。日本はもちろん、世界中どこに行っても、ショウの周りには人だかりができてしまう。地元の有名人には鑑賞をしないフィンランドでも、他国の有名人にはついつい騒いでしまう。それが人間の性だからと、ショウは理解をしているが、やっぱり静かな暮らしを求める気持ちもある。それが許されるのが、横浜とニューヨークだったんだ。とは言っても、横浜の場合とニューヨークとでは意味が違っていた。横浜はある意味、ノーウェアマンの街と呼ぶこともできる街だ。ショウ達三人がうろついていることに慣れている。聞き屋の存在も、騒ぎを起きにくくしている。大きな意味でだが、横浜はショウの庭であり、横浜に住人は家族のようなものだ。適当な距離感を作ってくれている。

 一方ニューヨークの住人も、そんな距離感を保って接してくれる。他人に興味がないだけだと言われることもあるが、そんなことはない。ショウが歩いていても、声はかけられる。まるで友達と会ったかのような挨拶だ。おはよう! なんて言いながらも通り過ぎて行く。近所付き合いが希薄だと言われているのは、その実態を知らないからだ。余計な詮索をしないだけで、その心はこの国よりも暖かい。赤ん坊を手押し車に乗せて階段を登ろうとしていると、日本では誰も助けてくれないけれど、ニューヨークでは誰ともなく手を貸してくれる。そして、お礼の一言を言うまでもなく立ち去って行く。

 ショウと俺の母親は、そんな街で静かな生活を送っていた。チャコとジョージが無事に帰ってきたのと連絡があっても、ショウは特になにかをしようとは考えず、妻との時間を楽しんでいた。

 家の中で二人は静かに本を読む。もちろん、形のある本ではなく、頭の中の本を読む。音楽にはあまり興味を抱かなくなっていた。持ってきた楽器も、たまに触る程度だった。

 夕方になれば二人で散歩をする。海沿いを歩いたり、街中を歩いたり。目的のない散歩が日課になっていた。

 俺の母親は、そんな毎日が退屈だったようで、夜になると一人で高層建物の中へと消えて行った。お酒を飲んだり、踊ったりしていたようだ。当初はショウも一緒について行っていたが、ショウには退屈だったようだ。派手に騒ぐだけっていうのは、性に合わない。

 しかし俺の母親は、そういうのが大好きだったんだ。派手好きの目立ちたがりなんだよ。

 ショウにとって、彼女が家にいない時間は、最初こそ寂しかったが、有意義だったんじゃないかと思う。正直に言って、俺の母親との出会いは、ちっともプラスに働いていなかったからな。音楽への興味を失いかけてもいた。

 そんなショウを救ったのは、ライクアローリングストーンのニックだった。ニックは定期的にショウへの連絡を続けていたんだ。

 面白いのを手に入れたんだが、見にくるか? お前ならきっと喜ぶだろうなって思ったんだがな。

 今からか? まぁ時間はあるけど、どこに行けばいい?

 なにが面白いのかなんて聞く必要もなかった。ニックがそう言うんだ。間違いがないことをショウは理解をしている。ニックからの情報で、外れなんてあるはずもない。そもそも、ニックと会って話をするってだけでも大当たりなんだよ。

 待ち合わせは決まってドイツのハンブルグだ。古びた外観の建物の地下に、静かな飲み屋がある。その店のすぐ上の階には転送装置が備え付けてあった。便利な場所だったんだよ。おまけにその店は、しっかりとスティーブの妨害もしていた。

 これなんだけどさと、ニックは懐から一冊の形のある本を取り出した。お前なら分かるかもと思ったんだがな。

 手に取った本を見て、ショウは興奮していた。まずその表紙の言葉の意味が分からなかった。似たような文字列は知っていたが、どう読めばいいのかもなんとなくは分かる。しかしショウにとってその本は、まぎれもない初めての本だったんだ。後になって分かることだが、似たような本の存在は形のある本で溢れている部屋にもあるにはあったよ。けれど文字も違うし、その情報は少なかった。絵がほとんどないっていうのは、解読するのに難しいんだよ。

 こいつをどこで手に入れた? すぐにそこへ行こう。聞きたいことが山積みで頭の整理ができないほどだ。

 ショウは半分パニック状態に陥っていた。こんなショウを見るのは、もちろん初めてだ。俺はショウの記憶を辿り、今までとは違う一面を沢山覗いてきた。しかし、これほどまでの状態は確認できなかった。

 それからすぐにそこへ向かうというわけにはいかなかった。その理由は、ニックがその場所を覚えていなかったからだ。探しながら向かうには、時間が深すぎていた。

 どうして覚えていないんだ? スティーブに聞けば一発だろ?

 そんな言葉を言うってことが、ショウが冷静さを失っていた証拠だ。

 途中までなら記録があるにはある。どんな場所で見つけたかはお前なら分かるだろ? 普通の街中になんてあるはずもない。妨害されていては、その記憶も曖昧になる。

 でもあんたまで忘れなくてもいいだろ? ひょっとして、酔っ払ってたのか? それとも興奮して帰り道さえ覚えていないとか?

 まぁ、そう言うことだよ。ニックは酒を口に運び、そう言った。ニックの酒好きは有名だ。ウィスキーがお気に入りで、新しい蒸溜所を作っているっていう噂が絶えることはない。いまだに現実になってはいないけれどね。

 けれどな、あの日は本当に大変だったんだよ。お前だって知ってるだろ? 俺はこいつを、アメリカで見つけたんだ。ライブ後に一人、ふらついていたときだよ。正直、自分がなにをしたいのかも分からず歩いていただけだ。それで偶然辿り着いた店で頂いたんだ。手にしたときの衝撃は忘れられないが、その後どうやって帰ったのかも覚えてはいない。仕方ないだろ? あの日はそういう日だったんだからな。

 ニックが言うあの日は、ライクアローリングストーンにとって、一つの伝説になっている日だ。あのバンドには多くの伝説が残されているからどれのことは説明しないと分からないだろうが、アメリカで起きた伝説といえば、あの日の興行が思い浮かぶことだろう。まぁあれは、世界的な事件でもあったんだけどな。生まれる前の出来事なのに、俺だってよく知っているんだ。

 ライブ会場で無差別殺人事件が起きたんだ。しかも、ステージのすぐ前でだ。多くの命が奪われた。その悲惨な現場を、ニックは目の前で見ていたそうなんだ。そして、その血飛沫を体中に浴びていた。

 ニックはそのあまりにも非現実的な出来事に、異常な興奮に襲われていた。ホテルでいくら血を洗い流しても、その興奮は消えてくれない。ただ、その場にじっとしていることが苦痛で、一人でホテルを飛び出した。知らない街で当てなんてなく、ただなんとなく歩いているうちに飲み屋に辿り着いた。その店で、その本を手に入れた。

 明日一緒にその店を探そう。途中までの情報ならあるんだろ? それをもとに探せば、きっとなんとかなるよ。この本は、僕達に出会いたくて仕方がなかった。そんな表情をしているだろ?

 ショウの言葉に、ニックは苦笑いだった。

 次に日、二人は約束通りその居酒屋に向かった。道に迷いながらも、無事に到着はしたが、道中二人は揉めていた。あっちじゃないのか? ここはさっきも通ったろ? 本当に覚えていないのか? そんなショウの言葉に、ニックは、さぁな、知らねぇよ、仕方ないだろ。なんて答えていた。

 結局その居酒屋を見つけたのはショウだった。もしもニック一人きりだったら、永遠に辿り着けなかっただろうと思う。ここには見覚えがあると言った場所は、地下へと降りて行き、角を曲がってまた別の階段で降りて行った先の通路を歩いて何度か角を曲がった先にあるお店の玄関扉を見たときだったんだ。本当はもう少し前から気がついていたんだとニックは言うが、それはないだろうな。実際のところ、店の中に入って店主の顔を見ても、いまいち不安げな表情が抜けていなかった。

 これって一体なんの本? 僕にはまるで理解ができない。多くの写真があるけど、僕にはいまいち統一感が見えないんだ。なんかの寄せ集め? まるで古びた物語だよ。昔話が氾濫しているみたいだ。こんなに素敵な本は初めてだよ!

 興奮するショウに対し、店主は冷静に、詳しいことは分からないと言った。この店に古くからあるものなんですよ。もしよかったら、先先代に会ってみますか?その言葉にショウの興奮は増していく。

 この本がどういったものかも知らずにニックに譲ったのか? 代々受け継いできた大事な本じゃないのか?

 とても大切な物ですから、譲ったんですよ。この本に相応しい方が現れたとき、譲るように指示されておりますから。その判断は任されています。ニックさんに譲ったことに不満でもありますか?

 店主の言葉にショウは首を振る。ニックはこの本に相応しいよ。そう呟いたショウの言葉に、嫉妬なんてなかったと思う。ただ、その店主が当たり前のようにとんでもない行動をとることに驚いていた。

 その後ニックと店主がほんの少しの会話をし、先先代に会うために店を出て、さらに地下へと降りていく。そこには、転送装置がある。こういった裏の世界のお店の近くにはよくあることだ。スティーブが干渉できないような場所に転送装置を設置しておくんだ。いざというとき、すぐに逃げ出せるように。ショウ達のように文明以前の世界に関心を持つことは禁止ではないが、スティーブはあまりよくは感じていないようだ。ときにそんな存在をみつけては排除している。無闇に全てを否定しているとは思えない。その人や流れを読み、判断しているんじゃないかって思う。その理由は、いくらスティーブへの対策をしているとはいえ、あのスティーブが、裏の世界のことに全く気がついていないはずはないからだ。ショウ達のようにスティーブによって生かされている者も多いんじゃないかって思うんだよ。

 先先代は牧場の経営者だった。居酒屋は趣味で始めたそうだ。あの本は、元々は牧場で受け継いできた物だった。それを先先代が、誰か本当に必要な人に渡すため、居酒屋の店主に託していたそうだ。

 先先代の話で、それがエイガと呼ばれる文化を紹介している本だと分かった。エイガとは二時間程度の映像物語で、写真の連続で映し出すのが特徴だと言う。その為の特別な機械も所有していて、ニックはその全てを引き取った。しかし、機械の動かし方や、肝心の作品が存在していない。写真の連続というヒントしかなく、どうやって作品を作り、その映像を保存し、映し出すのか、分からないことだらけだった。それらを解決したのは、ライクアローリングストーンのドラマーで、なんでも作ってしまいミカンだった。

 エイガの話を聞き、ショウは横浜に残されている一つの文化を思い出した。活動写真と呼ばれている、巻物状の絵物語だ。日本でも、横浜の街では今でも愛されているんだ。日本には書道の文化があるからな。墨汁を使って紙に書いていくんだよ。細長い紙に絵を描いていく。右から左に物語が進むように絵の中の景色や人物などを動かして描くんだ。順を追って絵を見ると、物語を感じられる。片付けるときは、紙を左から丸めて巻いていく。

 ニックはエイガに夢中になった。ショウを主役のエイガを作ると宣言していた。ショウはそれを受けたが、現実にはならなかった。ニックがショウのために生み出した物語は、後にジョージが代わりになり完成させている。それはこの世界で初めてのエイガとして、大ヒットをした。


 エイガの存在を知り、ショウの興味は別の方向に向かっていった。エイガの中で物語を演じる側に興味を抱いたんだ。

 ニューヨークって街には、演劇が文化として根付いていた。舞台に立って、物語を演じる。それだけのことだが、面白いんだ。エイガとも似ていなくはないが、全てをその舞台上だけで表現するんだ。エイガと同じで二時間程度が標準だが、中には五時間も続く演劇もある。

 ショウは妻である俺の母親に、映画についての話をした。すると彼女は、それなら今夜演劇を見に行こうと誘ったんだ。彼女はニューヨークの街で遊び周っていたから、当然演劇にも手を伸ばしていたんだ。ショウはそのことを知らなかったようだが、特にはなにも言わなかった。彼女が自由に遊ぶことを、ショウは喜んでいたんだ。しかも、そこで知った楽しみを彼女から学べるなんて、最高だと感じていた。

 演劇の存在はショウも当然知っていた。演劇はなにもニューヨークだけのものじゃなかったからだ。あちこちの国に、それぞれの演劇が存在している。残念なことにその存在を知りながらも見にいく機会がなっただけだ。忙しかったことに加え、興味を持つきっかけがなかった。

 今日の作品はね、私も初めてなんだけど、とても評判がいいだよ。今年一番の舞台だって言われているんだから。

 演劇は、劇場と呼ばれる専用の建物で行われることが多い。ライブハウスを使用したり、街の講堂や学校なんかでも行われているという。俺の母親は、劇場へと向かう途中、楽しそうにショウと話をしていた。ほぼ一方的にではあったが。

 ショウはきっと、演劇にも向いていると思うわよ。だって、ショウは顔もいいし、ノーウェアマンの興行って、ちょっと演劇っぽいところあるじゃない。

 彼女の言葉に、ショウは微笑む。カオリが言うなら、そうかもね。

 こうやって二人でデートするの、久し振りだよね。ショウは最近部屋にこもってばかりだったから心配してたんだよ。

 彼女はそう言いながらショウの腕に絡みつく。久し振りのデートといっても、二人は毎日何度かは一緒に出かけていた。部屋にこもっていたのは夜の時間だけだし、実際には彼女が知らない時間に一人で出かけてもいた。彼女の言うデートは、夜の遊び限定のようだ。

 カオリは演劇が好きなんだね。なんか嬉しいよ。

 えぇー、なにそれ? どういう意味? よく分かんないけど、私も嬉しいよ。いつかこうして一緒に観たいなって思ってたんだからね。

 劇場の前には人集りができていた。ショウに気がついて集まったわけではなく、演劇を見るために集まっていた。まだ開演前だったが、多くの人が演劇を楽しんでいることが感じられた。彼女はその人集りを避け、入り口へと歩いていく。劇場の人間が彼女に近づいてくる。

 今日は主人も一緒なんだけど、構わないわよね? 彼女のそんな言葉に、劇場の人間は顔を上げてショウに向けた。

 まさか・・・・ あのノーウェアマンのショウが・・・・ 力なく呟き、絶句する。

 あら、私は初めからそう言ってたわよ。

 彼女の言葉に劇場の人間は、口をアワアワ動かし、いや・・・・ しかし・・・・ なんて言葉を発するのがやっとだった。

 信じてなかったのね。けれどそんなこと気にしていないわよ。今日は二人なんだけど、ダメなの? 個室なんだから問題ないでしょ? 椅子だってあるんだし。

 もちろんですよ。あの・・・・ その前に一つ、握手をしてもらえませんか?

 劇場の人間はそう言うと、ショウに向かって手を伸ばした。ショウは快く彼の手を握りしめた。そして中へと案内される。ショウの存在に気がついた人集りの数人がほんの少し騒いだが、大きな騒ぎにはならずに収束した。

 彼女は劇場の観覧席を年間で買い占めていた。お金さえ払えば誰でも可能だが、場所によっての差はあるが、二階の個室の料金は高く、なかなか一般的には手を出しにくい。彼女は当然、ショウのお金を使って購入している。夫婦間ではお金の管理が共通化される。自由に使えるってわけだ。

 その日の演劇は、仲のよくない二つの良家の物語だった。お互いが両親の商売敵の子だとは知らずに恋に落ち、悩んだ挙句に死を選ぶ。その死は両親やその身内を騙すための演技だったが、そうとは知らずにその死を目の当たりにした彼が、彼女を追って命を落とし、それを知った彼女も命を落とすというなんともかやりきれない悲劇だ。その物語の内容も素晴らしかったが、演劇としての見せ方も素晴らしかったが。建物の二階の窓から顔を出す彼女と、外に立って見上げる彼女との愛のやりとりが印象的だった。

 興行が終了すると、ショウは席から立ち上がり拍手を送った。他の観客もショウに倣い真似をした。拍手の手を止めショウは指笛を吹こうとしたが、俺の母親が慌ててそれを止めていたよその判断は大正解だって思うよ。

 家に帰るまでの道程、二人は大いに盛り上がっていた。あのシーンが良かったとか、あの役者の動きが素晴らしいとか、あの背景が綺麗だったとか、話は尽きない。

 カオリはさ、演劇に向いてるんじゃないかな?

 ショウがそう言った。

 どうかな? なんて言う彼女は、まんざらでもない表情を浮かべる。その結果、二人はちょっとばかりの迷走をするんだが、案外と後の評価は高かったりする。俺としては、あまり観たいとは思えない代物なんだけどな。


 ショウは部屋でギターを弾き始めた。ようやく活動を再開させようと考えたんだ。チャコとジョージにも連絡を入れた。新しいアイディアがあるんだ。ノーウェアマンとして形にしたいと思っているんだけど、ちょっとこっちで試したいんだよね。興行の日が決まったら観にきてくれよな。そう伝えていた。

 カオリも一緒に参加するんだよ。

 ショウの言葉に、彼女は一瞬固まったが、すぐにニヤニヤ顔を歪ませた。なんだか照れているようだ。

 私になんてできるかなぁ。その言葉は弾んでいて、喜びを抑えきれていなかった。元来の派手好きな俺の母親は、そんな舞台に上がることに興味を持っていたんだ。ショウが死んでからも、度々舞台に上がっている。演劇もそうだが、それとは関係のない舞台にも呼ばれ、恥ずかしげもなく愛想を振りまき話をする。

 ショウが考えたのは、演劇と音楽を融合させることだった。元々ショウの作る曲には物語性がある。感情を爆発させただけの 詩的な曲も多いが、物語性のある曲こそショウらしいと言われている。そんな曲を演奏するため、演奏に演劇っぽさを感じることは以前から言われてはいたんだ。しかしショウにそんな意識はなかった。ただ曲を表現するために体を動かしたり表情を作ったりしていただけだ。演奏しながらその動作でも表現をする。ノーウェアマンの興行が演劇的と言われる所以だ。

 しかしショウは、その程度で満足はしない。演劇の要素をしっかりと取り入れた上での音楽と演奏にこだわったんだ。今では当たり前になっている歌劇の原型を作ったわけなんだよ。まぁ、ショウは決して楽器を手放さなかったから、今の歌劇とは若干の違いがあるんだが、それは演劇の要素を強くした結果なだけだよ。

 ショウはまず、物語を念頭に置いた曲を生み出していった。普段は一曲三分程度に収めていたが、演じる時間を考えるとそれでは足りなくなり、六分前後の曲を十八曲作り一つの作品を完成させた。

 まずはこの作品を全部頭に入れるんだ。歌うのは僕だけど、世界観を身体に染み込ませないといけないから、歌詞も全部覚えてね。

 ショウは完成した作品をタブレットに綴じ込み、彼女に渡した。

 えぇー、全部? ちょっと無理だよ。二時間近くあるんでしょ? 聞くだけで二時間もかかるんだよ。なんて当たり前なことを言いながらも、早速タブレットを口にし、歌詞を確認しながら口ずさむ。意外にやる気のある母親にビックリだよ。

 俺の母親が作品の世界観を掴むのに、二週間を要した。歌詞を覚えるだけなら三日間だったが、それだけではショウは満足しなかった。演じるっていうのは、そんな簡単じゃないと思うよ。そう言われ、彼女は必死に曲を聴きながら歌を歌い、身体へと染み込ませていった。

 その後ようやく、二人での練習が始まった。ショウはその場所に、横浜を選んだ。今まではなかったが、転送装置が形のある本で溢れる場所の三階に設置されたんだ。便利だし、自分のホームグラウンドだ。利用しない手はない。それに当時は、チャコもジョージも顔を出していなかった。おばちゃんが管理をしていて、たまにショウが本を読みに現れるだけの場所になっていたんだ。

 まずはショウが全曲を通して歌った。自分なりに演じながら。それを観ていた彼女に、感想を求める。なんて言ったらいいのか分からないけど、物語が凄く心に入ってきたわ。きっと、私がそれを知ってるからじゃないと思うわよ。本当に楽しかった。けど・・・・ 私が一緒ならもっと楽しくなるんじゃないかな? 彼女はそう言いながら照れ笑いをした。

 それじゃあ一緒にやってみよう。ショウはそう言い、彼女を手招きする。

 いきなり? 彼女は戸惑いを隠さない。当然の反応だと思うよ。演劇どころか舞台に上がったことすらないんだ。例え二人きりの練習だとしてもなにをどうすればいいのかさえ分からないのが普通だよ。

 とりあえず僕の側で好きにしてていいよ。ショウはそう言った。

 うん! 分かった。やってみるよ。彼女がそう言う。

 ショウは自然と歌い始め、彼女も側で自由に表現を始めた。初めはぎこちない動きだったが、徐々にその動きが滑らかになっていく。正直俺は、この初めての演奏が一番好きだ。初期的衝動は、そのとき一度きりの特権だからな。二度三度と練習を重ねると、確かに洗練されていく。作品としてのクオリティは上がっていったよ。

 ショウが納得のいくできになるまで、五日間かかった。最低限の食事と睡眠以外に割いた時間は少ない。二人の集中力は凄かった。日数的には五日間だったが、その内容的には一ヶ月分はあったように感じられる。

 ニューヨークに戻り、ショウはすぐに会場を探した。ライブハウスでもいいかと考えたが、せっかくなら劇場に立ちたいと考えた。劇場に連絡を入れると、三日後なら空いていると言う。本来は休館日だったが、ショウが利用するならと許可してくれた。

 本当に私なんかがあの舞台に立てるのかな? 開演当日、楽屋で彼女がそう言った。ほんの少し、声も身体も震えていた。

 大丈夫だよ。カオリは一生懸命やってきた。後は普段通りやればいいだけだ。そう言い終えると、カオリをギュッと抱き締める。

 その興行は、成功とも失敗とも言える微妙な反応で終わってしまった。劇場に集まった客は、ノーウェアマンのファンばかりで、演劇は初めてという者が殆どだった。どう反応していいのか分からず戸惑っていたようだ。

 興行を観ていたチャコとジョージには、そんな戸惑いはなかった。凄いじゃんか! チャコがそう言う。いい感じだな。あそこに俺達が加わったら、もっと良くなるよ。ジョージがそう言った。

 僕もそう思うんだけど、反応がいまいちだったよ。もう少し様子を見た方がいいね。ショウはそう言った。そんな必要はない。ただ戸惑っているだけだ。慣れればすぐに受け入れられる。すぐにでもノーウェアマンとしての興行を始めよう。チャコとジョージはそう言ったが、ショウは首を振る。それじゃ僕は納得できない。慣れればなんて言葉は、逃げ口上だよ。

 近いうちに必ずノーウェアマンとしての興行を復活させる。そのためにもう少し時間が欲しい。演劇と音楽の融合は、もうすぐなんだ。そう言い、二人を納得させた。

 しかし、そこからが本当の迷走なんだ。ショウは彼女と共に、演劇と音楽の融合のため、何度も劇場で興行を重ねたんだが、評価はまるで上がらなかった。焦った二人は、音楽を排除してみたり、他の人間を雇って演劇の要素を強めたりしていった。その結果、興行に客は入らなくなり、二人は自信を失った。

 ショウはそのまま表舞台から去る結果となってしまったが、後にチャコとジョージがカオリを交えてショウの意思を継いだ興行をし、評価を受けている。

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