第三章 雪とともにやってきたもの 1
何が悪かったのか。
何故こうなってしまったのか。
今となってはわからない。どこで、何を間違えたのか。
ただ、わかっている。自分はミスを犯したのだ。あのとき、あんな風に言うのではなかった。もっと違った方法はあったはずだ。あのときのあのミスが、これを引き起こしたのだ。
だが、起こってしまったことはどうすることもできない。
私にできるのは、ただ前進することだけだ。
これ以上状況を悪くすることは、望まない。
薦められてやってきた温室は確かに見事なものだった。だが、花や木々よりも、中央にある魔導石の像が素晴らしい。透明度はそう高くない。高ければ、さすがにそれを像にしようとは思わないだろう。魔導石の透明度が高いと言うことは、質が高いと言うことだ。
そばに控えるクライドも、同じように像の方を見ていた。子どもたちはなにやら気に入りの場所があるようで、ここに入った途端散って行った。手招きされ、それらの場所を一つずつ紹介される。その度に彼らが望んでいるであろう褒め言葉を口に上らせるのだ。
が、正直飽きている。
すましてお上品にしているのも飽きているし、子どもの相手もそろそろ限界だ。忘れてもらっては困るが、セイラもまた子どもなのだ。
「お嬢様、そろそろお部屋へ戻られますか?」
「そうね。私よりもこの子たちが寝る時間だわ」
もう九時時をまわっている。夕食を食べ終えたのが八時近く。もう一時間以上経っていた。
「セイラ、そろそろ部屋へ戻るかい?」
ローラと一緒にいたジュリアンも同じ質問をしてくる。わかってはいたが子ども扱いされている。
「私よりもこの子たちが先よ」
少しきつめに言うと、ジュリアンはすぐに察してそうだねと笑った。
彼はいつでも、どんなときでもこちらの考えを理解してしまう。今回の旅も、本当は付き合う必要なんてないのだが、彼は強固に主張した。ドライバーが必要だと。セイラとしては、ジュリアンも一緒に旅をするのは新しいことが多くて嬉しい。けれど、そんな気持ちを察して彼がついてきてくれるのではと考えてしまう。
「部屋に届ければいいのかな、それとも――」
「親の方がやってきました、が、違いますね」
クライドが途中で口を挟んだが、最後は彼も首を傾げた。やってきたのはヘレン。マイケルの母親だ。
「ああ、みんなここにいたのね」
「マイケルはいないわよ?」
入り口に一番近かったローラがそう答えると、彼女は軽くうなずいた。
「ええ。ずいぶん前に部屋へ戻ってきたわ。それより、エドガーはいる?」
あちこちへ視線をやり、夫の姿を探すがここにはいない。
「一緒に部屋へ帰ったんじゃなかったのか」
クインジーにヘレンは首を振った。
「一度は帰ったんだけど、またすぐに出て行ってしまったの。たぶんまた……」
と、そこで言葉を飲み込む。
クインジーが苦笑し、仕方ないなと温室の出入り口へ向かった。
「探しましょう。屋敷の中でも暖房が効いていないところで寝こけていたら風邪を引いてしまう」
「ごめんなさい。そうしてもらえるとありがたいわ」
それで『また』の後が何か、セイラにもわかった。食事のときからかなり酒量が多いなとは思っていたのだ。
私たちはどうしよう、とクライドを見上げる。彼は少し悩んだ。我々は客だ。それも賓客に値するのだろう。そのセイラたちが、たぶんヘレンにしてみれば恥ずかしいだろう、酔いつぶれた夫を捜すのに手を貸すのは、あまり喜ばれないように思える。
「こうしましょう。お嬢様とレノックス様はお子様たちをご両親の元へお届けください。私はヘレン様とクインジー様をお手伝いします」
クライドは相変わらず旅先で使用人として動く。この件に関しては、もう何を言っても無駄なので諦めていた。また、確かに色々と便利なことは多い。たとえばこんな時だ。
「そうね。そうしましょう」
セイラが了承すると、クライドはジュリアンを一瞥し、それではと温室の出入り口へ向かった。
「よし。それじゃあみんな、そろそろ部屋へ戻るよ!」
ケヴィンとローラは素直に従う。アイザックとジェイクはなんだかんだとグチグチ言っていたが、ジュリアンが上手く丸め込んだ。六人は一緒に東棟へ向かう。
今度は正面玄関と、東棟とをつなぐ壁にケヴィンが手をついた。外側は光ってはいない。一般の屋敷では珍しい構造だったが、冬、雪がかなり降るので変に通路として繋がっていない方が良いのだと、案内されたときにドロシーから聞いた。セイラたち三人も、一番最初にこちらで登録をした。右手に鍵を仕込んだ。
だが、子どもたちを部屋に届けるまでもなく、東棟の一階でドロシーに会う。そこには先に出たはずのクインジーとヘレンもいた。こちらの姿をみとめると、彼らはすぐに近寄ってきた。笑顔のドロシーと、正反対の表情をしたヘレン。クインジーは少し困ったような顔をしている。
「ちょうど迎えに行こうと思っていたところでした。ケヴィン、ローラ、あなたたちは先に部屋へ帰ってらっしゃい。アイザックとジェイクも二人で行けるわよね?」
ドロシーの有無を言わさぬ口調に、子どもたちは首をすくめておやすみなさいと二階へ駆けていった。
「クライドさんにもエドガーを捜してもらっていたそうで。本当に申し訳ありませんわ。弟は心根は優しい子なんですけれど、どうも意志が弱くてねえ」
隣でヘレンがぐっと口を結び何かに耐えていた。
「私たちの部屋から屋敷の東にある湖の傍の四阿が見えるんです。ちょうど先ほどふとそちらを覗いたら、誰かいるんですよ。誰だろうと思って見に行こうとしたら二人に出会って……たぶんエドガーだわ。四阿には人が入ると自動的に暖房がつくようになっているとはいえ、あれじゃ風邪を引いてしまいます」
明日の話し合いの布石なのだろう。ドロシーはぺらぺらとよく喋った。どこにも反論するところがないので、ヘレンは黙って聞いているしかない。
さすがに可哀想なので助け船を出すかと思っていると、クインジーが歩き出した。
「さあ、早く行かなければ本当に彼は風邪を引いてしまうよ」
ヘレンはほっとし、ドロシーはまだ言い足りないと不満そうではあったが彼の言葉に従う。
「それじゃあ私たちはクライドを探しましょうか」
「そうだね。見つかったと知らせてあげないと」
一階の部屋は二階より一部屋少なく五部屋だ。そのうちセイラたちが二つ使っている。一部屋少ない部分、ちょうど中央あたりに湖側へ出る扉があった。
先ほど案内された部屋の窓から氷の張った湖と、その傍にある小さな建物は見えていた。少し興味もあったので、目でジュリアンに同意を求めると、ドロシーたちの後を追った。
こちらも夜降った分はまだ雪かきをしていないので、うっすらと柔らかい雪が、セイラたちの歩みに合わせてふわりと舞った。雲はいつの間にか消えてなくなり、明るい月が世界を照らしている。太陽のきつい光より、月の柔らかい灯りがこの雪景色には似合っていた。
「エドガー!」
少しでも早く目を覚まさせて失態を回避しようとヘレンが必死で夫の名を呼ぶ。
だが、彼女の声はむなしく雪に吸い込まれて行くだけだった。誰にも踏み荒らされていない雪は、音を包み込み静けさをもたらす。
「よりによってお父様とお母様の四阿の方にいるなんて、本当に困った子だわ!」
わざとらしく、皆に聞こえるようドロシーが言った。
「すっかり寝こけてしまっているみたいだなあ。運ぶとなるとクインジーさんだけじゃきついだろうし、僕もあちらへ行って来るよ」
ジュリアンが言う。となるとセイラも彼に着いていくしかなかった。もしセイラ一人でうろついているところをクライドが見つけたら、ジュリアンがこっぴどく怒られるのだ。例えどんな理由があったとしても。これから先、クライドとジュリアンには仲良くやって欲しいのでここはセイラが気を遣うところだろう。
ヘレンにとってはいい迷惑だろうが、結局五人は揃って雪の中を進んだ。
より湖に近い四阿を目指して、雪の中を進む。
もともと雪かきをしてあったところへ一センチほど積もった程度だ。歩くのに支障はない。五人の足跡が新しい雪の表面に後を残していった。
「エドガー? 風邪を引くぞ」
四阿のソファから金色の髪の毛が覗いている。月と雪のおかげで辺りは夜遅いにも関わらずかなり明るかった。
「エドガー! いい加減にしなさい!」
ドロシーの厳しい声。だがどこか笑いを含んでいるそれには悪意も見え隠れする。
最初に四阿へ着き、湖側へ開かれた場所からその中を覗いたのはクインジーだった。
「エドガー!?」
それまでのだらしない従兄弟へ向けた言葉とは裏腹に、鋭く切迫した口調にセイラはジュリアンを見る。彼は前の二人を押しのけその身をクインジーの隣へ滑り込ませる。
「何? どうしたの?」
ヘレンがのぞき込もうとするのを、ジュリアンが止めた。彼は、普段人に威圧感を与えることはないが、時に驚くほどの力を見せた。前へ進もうとする二人を、軽々と押さえる。だが、それはセイラには通じない。
「だめだって! あとでまたクライドに怒られるよ」
彼がドロシーとヘレンを相手している間にするりとその横を通り抜ける。
四阿に一歩足を踏み入れると、暖気とともにむっと押し寄せる酒の匂い。それと同時に微かに死の香りが漂ってきた。
「セイラさん……」
「大丈夫」
慣れているからという言葉は飲み込んだ。
瞳孔が開ききったうつろな目。角膜に濁りは見られない。まあ当然だろう。二時間ほど前に彼が元気に動いているのをセイラも見ている。
ソファに座る形で、両腕をだらりと脇へ垂らし、少し身体を傾けていた。開いた口に弛緩した両足。
「まだ暖かいわね」
右手の手袋を外し、そっと彼の首筋へ手をやる。わかってはいたことだが、脈はない。すでに事切れていた。腕の袖を軽くめくってみるが、紫斑も現れていない。死後二時間以内。事実とおかしな差違はない。
「あまり手を触れない方がいいと思う。この四阿にも。暖房を切ることはできますか?」
呆然とセイラの行動を見ていたクインジーが、慌てて動き出す。
「え、ええ。それは。使用人に聞いてみればわかると思いますが」
手袋を左手で握りしめたままじっと遺体を見つめた。
「せめて死因の検討だけでもつけておきたいわね」
先ほど腕を触ったときに指先を見ると、爪の間には何もなかった。衣服にも破れたところはなかった。少々乱れてはいるが、きれいなものだ。それだけで決めつけるのは早急だが、争ったような形跡はない。
「失礼」
ソファの、頭が当たっている部分が影になっている。だが少し色が濃いように思えた。もともとソファの生地の色は濃い赤だ。それがまるで水に濡れたようにシミが広がっていた。……たぶん、血だ。頭を手袋をしていない手で支え、後頭部をのぞき込むと致命傷であろう傷が目に飛び込んできた。
詳しい診断はクライドか、ジュリアンにしてもらわないとわからないが、何かに当たって傷を負ったのだろう。それが彼の命を奪った。酒を飲み過ぎていたことも、彼に死をもたらす一因となったのかもしれない。
「残念だけれど、私たちにはもうどうしようもないわ」
雪がまた降り出した。月にも厚い雲が迫っている。四阿から出ると、その周りをくるりと見てまわった。そして元の場所に戻る。
「ねえ! 何があったの? エドガーがいるの?」
ヘレンが青白い顔をしてジュリアンの腕にしがみついていた。隣に立つクインジーを見るが、彼も同じような顔色で、視線を足下へ落としていた。仕方ないとセイラは覚悟を決めてヘレンを見つめた。彼女は、セイラのその様子に息を詰めて唇を噛む。
「本当に残念ですが……お悔やみを申し上げます」
いやよ、と彼女は小さくつぶやいた。それまで何かと言い合っていたドロシーも、セイラの言葉に目を大きく開いて顔を歪めた。
「いやよ、いや、いやいやいやいや!!!」
「ヘレン、ヘレン落ち着いて」
喚き出すヘレンを抱きしめて、こちらを睨むように見る。
財産を無駄に与えたくはないが、それでも弟の死は喜ばしいことではないようだ。
「死因は?」
当然のように尋ねるジュリアン。セイラが確かめないはずがないと思っているのだ。なんだかその認識は嬉しくないかもしれないが、彼がセイラのことをよく知っているという現れでもある。
「後頭部の挫傷? かしら。後でもう少ししっかりみてもらいたいわ。ただ、一つ言えるのは――事故または殺人」
えっ、とクインジーが声を上げ、ヘレンの悲鳴が響く。
「だって、あの場所には彼の頭の傷ができた原因の物が何もなかったもの。ソファは柔らかいし、柱には血の跡がない。もちろん机もね。誰かが持ち去ったか、またはエドガーさんはここで死んだんじゃないってことでしょう。持ち去ったにしろ、遺体をきっと動かしているわ。彼はソファにもたれていたもの。そのソファは柔らかい。自然の流れであの格好になったとは思えない」
つまり事故なら彼の命を奪った凶器を隠し、遺体を動かした人物がおり、殺人なら言わずもがなだ。
「さらに言えば事故なら誰か人を呼びに行って彼を助けるでしょう? それを遺体は動かすわ凶器は隠すわ……おかしいことだらけよ」
例え当たり所が悪くて即死であっても、誰かしらに知らせようとするだろう。それにしても凶器を隠すのは異常な行為だ。
「まあ、とにかく屋敷に入りましょう。ヘレンさんに何か飲み物を。他の皆に知らせなくてはいけないし」
「エドガーは!? このままこんなところに置いていくというの!?」
「ヘレン。仕方ないよ。警察が来るまでここはそのままにしておかなければいけない」
そう言ってクインジーは空を見る。セイラもつられて見上げた。厚い、黒い雲がそこまで迫っている。
動揺していたドロシーは、立ち直るや否や、それまでの失態を挽回するかのように素晴らしい采配を振るった。
三十分後には屋敷中の人間が一階のよりも広い、二階の居間に勢揃いしていた。唯一麓と連絡を取っている執事のセバスチャンだけがこの場にいない。
子どもたちは怯え、大人たちも突然の出来事にどう反応していいものか戸惑っていた。アーヴァインもエドガーの死を知らされたときはさすがに動揺した。だが今はもう、その大きな身体を椅子へ沈め、セバスチャンの報告を待ち微動だにしない。
ジュリアンもセイラの隣に座って先ほどの遺体の姿と周囲の状況を思い返していた。
「嘘だろう……本当に、その……」
死んだのかと言い出せないチャールズに、セイラは痛ましい表情を浮かべて首を振る。
「確認しました。残念ですが」
彼女も死と言う言葉は使わない。彼らは慣れていない。死を身近に感じてはいないのだ。
誰もが傍に住まわせる死に、誰もが鈍感だった。
「なぜ、エドガーが?」
つぶやく言葉に返事はない。
ファティマはその横で息子たち二人を抱きしめ震えている。すっかり眠る支度をしていたのだろう。薄い色の夜着に濃い茶色のガウンを着ている。子どもたちもパジャマ姿だった。他の皆もだいたい同じような格好だ。
扉の向こうから足音がする。全員がうつむいていた顔を上げ、そちらを見る。開かれた扉から執事が現れるが、いくつもの視線に臆することなく真っ先にアーヴァインの傍へ走る。耳打ちすると、この屋敷の主人は低いうなり声を上げた。
「警察は、来られない」
「なぜ!」
誰よりも真っ先に声を荒げたのはなんとセイラだった。彼女は座っていた椅子から立ち上がり驚きの表情でアーヴァインを見ている。
「オブライエン殿には大変申し訳ないが、先ほどから急に天候が悪くなり、空中からの移動が難しいそうだ。もちろん麓との道も繋がらないままだ。警察もなるべく早く道を通して駆けつけると言っているそうだ」
「いえ、こちらこそ少々取り乱してしまいました。申し訳ございません」
セイラは一礼して元の椅子に座る。
「さらに、やっかいなことがあるらしい」
これ以上何をやっかいとするか、そんな思いを秘めてアーヴァインの次の言葉を待つ。
「詳しい事情はわからないが、凶悪犯がこの山に登った形跡があるそうだ。十分に注意されたしと警告された」
「そいつが! そいつがエドガーをっ!」
ヘレンが叫ぶ。彼女の横でマイケルが怯えていた。隣に座っているクインジーがそっと彼の肩を抱く。
セイラが事故か殺人だと言った。その後ジュリアンがあらためて遺体を見たところ、見立てに間違いはないと断言した。
そうなると、誰が、という問題が浮上してくる。
居間を包み込む奇妙な空気は、いったい誰がエドガーを殺したのかという点も問題となっていたのだ。
「その凶悪犯とやらが、エドガーを殺したのか。しかしなぜ!?」
「それよりも、もしこの屋敷の中にすでに入っていたら!!」
ざわつく空気をアーヴァインが一言で収める。
「静かにしろ」
ぴたりと誰もが口を閉ざした。ドロシーのリーダーシップはもちろん素晴らしいが、やはりアーヴァインほどの威厳はない。
「我々が浮き足立てばそれは相手の思うつぼだ。とにかく今日はもう夜も遅い。茶の一杯でも飲んだらそれぞれ厳重に鍵をかけて朝まで部屋にこもっていろ。お前たちも、今日の仕事は切り上げてなるべくまとまって部屋にいなさい」
すぐ脇に控えるセバスチャンに言うと、老執事はゆっくりとうなずく。目でヴィクトリアへ合図し、皆の前に紅茶を淹れる。最後に少しだけブランデーを垂らした。
次男の死と凶悪犯の存在が不安の塊となって襲いかかるが、お茶は誰もが自分を取り戻すのに一役買った。
「……でもなんで、エドガーが」
ヘレンがまたぽつりとつぶやく。
「彼はあの四阿に座っていただけでしょう? しかも抵抗していないというなら、その、殺される意味がわからないわ」
確かに彼女の言う通りではあった。
あのソファはエドガーなら頭一つ分背もたれより飛び出るだろう。ということは、そこめがけて凶器を振り下ろせば現場が完成する。
だがそれには一つとても重要でとても難解な問題が待ち受けている。だがそれを今言って、混乱している彼らをさらに混沌へたたき落とすのは酷だろう。
「まさか……」
ファティマがつぶやいて口元を押さえた。
「なんだ、どうした」
チャールズが、妻の言葉を聞きつけ隣を振り返る。
「いえ、その……」
「いいからいってみろ!」
声を荒げるというよりは、怒鳴りつけるような彼に、ファティマは肩を震わせる。
「その、あの四阿は、お義父様の四阿で、私たちは絶対に近づかない」
確か、エドガーを捜しに行く途中にドロシーがそのようなことを言っていた。
「ああ。そうだな。それがどうしたんだ」
幾分落ち着いて、それでもまだ怒りを含んだような言い方でチャールズが先を促した。
苛立ちを女性へ向けるのは見ていて気分の良いものではない。フェミニストをうたって止まないジュリアンとしては許し難い光景だ。この状況でないならばぜひ庇ってやりたいのだが、さすがにこの空気でそれはさらなる荒れた事態を引き起こしてしまうだろう。時には我慢も重要だ。
「エドガーの後ろ姿は、最近お義父様に似ているから、その……」
「エドガーさんとアーヴァインさんを間違えたんじゃないかと言うのね」
セイラが話に割って入る。
我が意を得たりとセイラへ笑顔を向けようとして、周りの表情の厳しさに、ファティマはまた怯えたように肩を縮こまらせた。
それはそうだろう。
迷い込んだ凶悪犯がなぜアーヴァインを狙う必要がある。
彼女のその説は、エドガーが殺されたもっともらしい理由であるとともに、意図的にアーヴァインの命を狙おうとした誰かの存在を創り出すこととなる。しかもその誰かは、アーヴァインに何か思うところがある人物。たまたま迷い込んだ凶悪犯であるはずがなかった。
それはつまり、屋敷の中の誰かだということだ。
説として、ジュリアンとしてはしっくりいく。大変わかりやすく、次の標的はアーヴァインであろうから、彼の身辺をきっちり守ればよいわけだ。
だが、他の人間にしてみれば自分の家族や親族、または長年仕えている使用人たちの間にその誰かがいるのだから。しかも、家族や親族であるというならば、今夜動機としては十二分の発言が、アーヴァインからあった。
遺産相続。
しかも莫大なと頭に付けば、人を殺すことを視野に入れるような人物も出てくるのかもしれない。
「ジュリアン。さっきの札、あとどのくらいあるの?」
自分の中で事件の整理をしていたところへ、セイラから声がかかる。札に思い当たるのに少し時間がかかった。
「ああ、あれか。ちょっとまってくれ」
ジャケットの内ポケットを探ると、全部で三十枚ほど。結構な数がある。
「雪がいつまで降り続くかにもよるけれど、三夜としたら使えるのは一夜ごとに十枚……足りるかしら」
「それはなんだ?」
ジュリアンの取り出した札に不審な目を向けるアーヴァインだが、アイザックやジェイクが、あっ! と叫んだ。
「ある一定の範囲に人が近づけないようにする物です。全部で十部屋ぐらいにできますか? 相手がとんでもなく魔術に長けていない限り、かなりの効果がでますよ。彼らが証人だ」
「おじいさま! あのお札はすごいです。本当にどうやっても近づけないんです」
ローラが、他の子どもたちがうなずき保証する。
「発動と解除は同じ人物がしなければなりません。部屋に入って鍵を閉めたらベッドの辺りで発動の呪文を唱え、朝起きて外に出る前に解除の呪文を唱えます。唱え忘れると次は自分すら入ることができなくなるので気をつけていただかなければなりません。まあ、二十四時間しか効果はないので変わらないとは思いますがね」
どうします? とアーヴァインへ尋ねると、彼は渋々ながらうなずいた。嫌われたものだ。
ジュリアンは札を渡して呪文を教える。相変わらず関連性に乏しい三つの単語を唱える。彼が試す試作品は皆このタイプだった。ルネ・ドミンゴ曰く、『魔法使いのようでのジュリアンにはふさわしい』と。最後にアーヴァインに渡す。
「呪文を間違えないでくださいね」
「ふんっ。そんな短い言葉、間違えようがないだろう」
その後、ヘレンがエドガーをあのままにしておけないと一騒動あったものの、何とか彼女を沈めると皆、自室へ戻っていった。朝は七時までは扉を開けないこと。それを約束して。
そして、次の日の朝、アーヴァイン・ストーンの遺体が発見される。
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