第三十章 日暮れて道遠し

第三十回 劉聰は死して靳準は漢を謀る

 漢主の劉聰りゅうそうは、子の劉約りゅうやくが皮袋と玉石でできた簡牘かんとくを持ち帰った時から、一切の国事を執らなくなった。日夜、後宮に皇后や妃嬪きひんと飲宴して戯れ、一年に渡って酔いから醒めることがない。

 劉約は予言されたとおり、反魂から二年にして世を去り、それを知ると劉聰はますます予言を信じ込む。死を畏れたのか、病を得て床に就いた。いよいよ漢が乱れると予言されていた三年が過ぎようとしていたが、史官を含む朝臣たちはそのことを忘れ去っていた。

 ある夜、劉聰の夢に劉約が現れて言った。

「皇帝を迎える法駕ほうがはすでに整っているにも関わらず、陛下は装いを整えておられません。三年後という約定をお忘れになったのですか」

 夢から覚めると、劉聰は自らの死期を悟って言う。

「劉約が死んで一年になり、朕を迎えにきたのか。この世にある時はもはや残されておらず、免れる術はあるまい」

 劉曜りゅうよう石勒せきろくの許に人を遣わして平陽へいように呼び出し、後事を託そうとしたものの、いずれも他事に託けて応じない。やむなく詔して劉曜を趙王に改封して関西と山西の軍事を統べさせ、石勒を襄國公に封じて王が用いるべんを授け、関東と山東の軍事を統べさせることとした。

 また、二人には征伐の権を与えて征討せいとう大将軍に任じる。

 皇弟の上洛王じょうらくおう劉景りゅうけい濟北王せいほくおう劉驥りゅうきに尚書の政事を司らせ、大司徒だいしと靳準きんじゅん輔國公ほこくこうに封じて左丞相さじょうしょうに任じ、弟の靳術きんじゅつ靳明きんめいをそれぞれ大司馬だいしば司寇しこうに任じて禁衛兵を掌らせる。

 これにより、靳準は兄弟で枢機に与って文武の権を握り、官吏の任免まで手にしたこととなる。

 

 ※

 

 劉聰の病はいよいよ篤く、太子の劉燦りゅうさん、靳準、劉景、劉驥、遊光遠ゆうこうえんらを枕頭に召して後事を託した。靳準に言う。

「朕は卿とともに政事を執って二十年を過ぎ、今や訣別の時となった。天命ではあるが遺恨が残っておらぬわけではない。太子は愚昧であるが、卿は国戚こくせき(皇帝の姻戚)でもあり、よくよくこれを輔けよ」

 靳準は地に伏して言う。

「万一の際には非才ながら臣が力を尽くして太子を輔弼いたしましょう。陛下におかれてはそのようなことに聖慮を労されず、ただ龍体をお安め下さい」

 ついで、劉景と遊光遠に言う。

「朕はもはや再び起てまい。太子を卿らに託す。卿らは国家に忠節を尽くして社稷を安んじよ」

 二人は叩頭して言う。

「必ずや粉骨砕身して御覧に入れます」

 現実を見ているのか判じがたい目で衆人を見て言う。

「今や南北の趨勢は定まっておる。何を言うことがあろう。ただ劉曜と石勒に辺境の防備を委ね、朝廷の大臣を才によって選んで妄りに軍事を起こさねば、朕の在世の時によりも漢は盛んとなろう」

 言い終えると、衆人には明日また来るように命じて引き取らせる。

 その夜半に劉聰は崩御した。在位していた九年の間に行った改元は三度であった。

 

 ※

 

 翌日、百官は哭声を挙げてその喪に服した。

「国家は一日たりとも君を欠いてはならぬ。まずは大位を正した後に万事を行うべきであろう」

 靳準がそう言うと、群臣は太子の劉燦を奉じて皇帝位の即け、年号を昌平と改めた。百官の秩禄は劉聰に遺命に従ってそのままとした。国内に大赦が行われ、訃報は劉曜が鎮守する長安、石勒が拠る襄國、曹嶷そうぎょくが治める青州にも知らされた。

 即位した劉燦は国戚である靳準に軍国の大事を委ね、万事はまず靳準に報告された後に行われることと定めた。これより、靳一族の権勢は朝野に並ぶものがなくなる。

 当初、靳準も朝臣に事を諮ったために異議は起こらなかった。しばらくすると、劉燦は国勢を靳準に委ねて飲宴し、荒淫に耽るようになる。その人となりは胡族の風に染まって殺戮を好み、およそ徳と呼ばれる行いを欠く。そのため、朝野の人々はいずれも劉燦を畏れた。

 一日、劉聰の皇后であった靳氏、劉氏、樊氏、宣氏、王氏の五人と飲宴し、淫らな行いに及ぼうとした。ただ樊氏のみはそれを拒み、劉燦は命じて縊死させた。他の四人は劉燦の命に従った。

 王沈おうちんと靳準に劉燦の行いを報せる者があり、靳準は怒って言う。

「娘の月華げつかは先帝の皇后であったにも関わらず、あの小僧はなんという無礼を働くのか」

 そもそも北辺の雑胡である靳準は気が短く、今にも劉燦の許に向かいかねない。王沈がそれを止めて言う。

「騒いではなりません。主上は殺戮を好む人、諌めたところで無事には済みますまい。主上が人倫を破って徳を失われたとはいえ、まだ即位より一月も過ぎておりません。朝権は公の手にあります。腹心を朝廷に布いて朝臣を従え、その後に主上の過ちを正されるのがよいでしょう。さもなくば、不測の事態を招きかねません」

 靳準はその言葉に従い、朝廷に自らの一党を布いて爪牙とし、屈強剛直の朝臣は罪を構えて官を免じ、密かに殺害したものもあった。ただ、劉景と劉驥の二人は皇叔にして重臣であるため、なかなか手が出せない。

 

 ※

 

 劉景と劉驥の二人は漢室に忠実であり、かつ、謀略を善くする。この二人を除かない限り、靳準は安心できない。一計を案じると、密かに宮中に入って劉燦に上奏した。

「噂によると、上洛王と濟北王の二人は敢死の士を養って兵を練っていると聞きます。二人は陛下の行いと朝政を執られぬことを憎み、早晩にも伊尹いいん霍光かくこうのように陛下を廃さんと企てているようです。すみやかに備えねばなりません」

「朕は皇帝であり、漢の臣民の生死は朕の意向による。朕が何をしようと口出しなど許されぬ。二人は朕が朝廷に出ることが少ないがゆえ、不徳などと言っておるのであろう。必ずやこの二人を殺さねば、臣民は朕を畏れまい。さもなくば、朕の威令が国中に行われぬ」

 劉燦の言葉を受けた靳準は、諌めたように装って言う。

「軽々しく口にしてよいお言葉ではありません。二王は位は高く、その権勢を憚る者も多くあります。与する者も多く、少しでも気取られれば思わぬ禍を招きかねません。そうなると、累は必ずやこの老臣にも及びましょう」

「それならば、朕が密かに詔を下して二人を除くように命じればどうか」

「臣は外戚の身であり、どうして親王を除けましょうや。それに、謀略にも優れておらず、一つ間違えば必ずや禍を受けましょう。陛下におかれては熟慮頂ければ幸いございます。臣を愚昧と申されますな」

 そう言うと、靳準は己の計略があたったことを喜びつつ、退出していった。その裏では、二王を讒言するよう娘の月華に命じる。月華は命を受けて王沈に計略を求め、王沈は二王を図るために計略を案じた。

 

 ※

 

 一日、劉燦が月華を召したが、拒んで応じない。劉燦は自ら月華の許に赴いて言う。

「すでに一度は過ちを犯していよう。今になって拒むとは、朕を貶めるつもりか」

 月華はひざまづいて答える。

「陛下の命に背きたいわけではございません。ただ、宦官によると、朝臣は妾らが陛下を誘惑していると噂されており、上洛と濟北の二王は特にお怒りになっていると聞きます。密かに人を宮中に入れて妾らを除き、あわせて陛下を廃さんと図っているとまで申します。それゆえに、陛下と座を同じくすることを避けたのです。万死に値する罪ではありますが、何とか陛下に累が及ばぬようにせねばと案じた結果でございます」

「宮中には朕の腹心の者しかおらぬ。何を懼れることがあろうか」

 劉燦の言葉に月華は言う。

「二王がご存知であるからには、妾は陛下の身に近づけません。二王に罪されるよりは、陛下の命に背いて殺されることを願っているのです」

「何の難しいことがあろうか。明日には二王を除いてお前の懸念を晴らしてやろう」

「陛下は誤っておられます。妾のような一婦のために社稷の臣である二王を除くことなど許されません」

「二王が朕を廃するつもりであるならば、先んじて手を打たねば、朕もお前も二王に害されよう」

 そう言うと、劉燦は月華の部屋を出て靳準と王沈を召し出した。

「先に卿らは二王の不軌を申し、朕はその処置を卿らに任せようとしたが、卿らは従わなかった。聞くところ、宮中の内外ではすでに二王の企てが噂になっておる。このまま放置しては禍に罹るだけであろう。すでに詔はここにある。卿は禁衛の兵を率いて上洛と濟北の王府を囲み、捕らえて斬刑に処せ。廷尉に付するには及ばぬ。決して事を誤ってはならぬ」

 靳準は詔を奉じると、弟の靳術、靳明とともに三千の兵を率いて二王の府に向かい、二王の一族に係る者は老若を問わず殺害された。

 

 ※

 

 この時、漢の親王と重臣のうち、劉曜、劉雅りゅうが、石勒、張賓ちょうひんは外鎮にある。二王が害されても百官は靳準の権勢を畏れて抗弁する者もない。それゆえ、靳準はほしいままに振舞えたのである。

 靳術と王沈が言う。

「今や大漢の大権は丞相じょうしょう(靳準)の手にあり、郡縣も半ばは吾らの腹心です。さらに漢主は荒淫にして不徳、この機に乗じぬ理由はございません。しかし、弑虐すれば人倫にもとることとなります。廃して伊尹、霍光のように朝権を握り、漢を奪った魏や魏を簒奪した晋のように基を立てるのがよろしいでしょう」

「朝廷の百官など怖れるに足りぬ。ただ、外にある劉曜、石勒、曹嶷が兵を起こせば、到底敵うまい。これらの外兵を退けられるのであれば、大事を行えよう」

 靳準の言葉に靳術が言う。

「かつて、劉淵りゅうえん左國城さこくじょうにあって兵は数万に過ぎず、それでも大業を果たしました。吾らはこの平陽にあって軍勢は四十万を下りません。漢軍の大半は吾らの手中にあります。劉曜と石勒が結んで攻め寄せたとしても、その軍勢は二、三十万、怖れるに足りません。また、一計がございます。孔萇こうちょう桃豹とうひょうが石勒の麾下にありますが、彼らは丞相と莫逆の友、書状を認めて協力を求めれば、石勒を足止めできましょう。これで一路の軍勢を阻めます。また、青州の曹嶷は石勒を警戒しています。その行いを観るに、漢の臣と称しているものの、自立の心を懐いておりましょう。これもまた吾らと古い馴染み、密かに人を遣わして書状を送れば、必ずや従いましょう」

 靳準はその言葉に従い、書状を認めると二箇所に人を遣わしたことであった。

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