傍観―2133.9.10

〔3〕


 芽衣たちが集合場所に駆け寄ると、そこには誰もいない。正確には、誰もいないように見えた。残り二人の生徒はとっくに光学迷彩を作動させていた。


「それじゃまたね、漆喰さん」


 雛乃はそう言って微笑むと、景色に溶け込んで消えた。

 またね、って、数秒足らずでまた会えるのに。やっぱりあの子は不思議……。


 ――命令。光学迷彩オン。

 ――リクエスト承認。……光学迷彩を展開します。熱感知、視覚情報を照合、……上書きします。


 芽衣が即座に《i-link》との内部通信で準備を整える。時刻は二十五分と四十二秒。そして小走りでスタッフが向かってくる。


「ごめんごめん、もう二十六分?いや、あ……ちょうど今なったね」


 彼はきっと、逐一更新される空に描かれたARの情報に目を通しているんだ。時間に遅れそうでちょっぴり焦ってたみたいだけど、そんなこと忘れてしまうくらい真剣な面持ちをしている。相も変わらず彼は冷静だった。


「他の班にも異常が無ければ、世界共通で三十分ジャストで強制転送になります。ちょっと不適切な表現になるけどあれは核ミサイルのボタンと同じで、そのボタンを押すのは僕じゃなくてもっと上層の人間だからね。もう報告し終わって、今は待機するだけだから、直前に君たちに不備があっても僕には中止できない。後は自己責任だよ」


 不安を紛らわすように首だけを横に向けると、雛乃が少し首を傾げたぐらいにして、お人形のように、ただ静かににっこりと笑い返す。サーマルレンズ越しの疎らな暖色がそう見せているだけ、或いはそうなのかも。


 ……AM10:28。……五十六……五十八、五十九、10:29。


 この場を支配するのは風の音さえ届かぬような沈黙。あの子はともかく、他の二人なんてずっと案山子だ。何を考えてここにいるの?この苛立ちのような不安な何?彼らはおずおずとフラグメントの漆黒を手のひらで転がしているだけ……。


 カウントダウン。十、九、八……。

 ……AM10:30。


 ――キーン……。

 耳鳴りのビットレートを下げたような重厚感の欠片もない、粗くて虚ろな響き。そして、身体がふわっと浮く感触。

 ……シャンシャンシャンシャン。キーン……。なんだこれ、神楽鈴でも鳴らしているの?芽衣の耳元でけたたましい音の残響がこれでもかとうねる。


 待って、……耳元?それなら少なくとも発信源は《i-link》じゃない。


 ――キーン……。

 それは刹那を凝縮したような錯覚だった。


 亡霊の如く立ち現れた浮遊感がこれまたすぅーと身体を抜けていく。それまで自分が息をしていたかどうかも分からない。瞼を閉じた世界にぽつり立っていたような気もするし、その目は抉じ開けたまま、くらり眩んだだけな気もする。


 帳の向こう、芽衣の目の前で現実は再構築された。


 ようやく地に足がつくと、いよいよ芽衣は己の意識を買い戻し、《i-link》の接続を待つ。

 ……よし、ARが回復した。それで、今の時間は?


 ――リソース修復中……推定時刻AM10:32。


 あれ?……ってことは表示の上では2133年か。

 周りを見渡すと、おおよそ人のようには見えないが、四つの熱源が確認できる。


 ――データベースにアクセスできません。……一件の誘導プログラムを検知。実行しますか?


 仮想校舎C2……それだ。実行を要求。

 プログラムが構築されると、張りぼての校舎が仮想空間に現れた。瞬く間、電子情報となった意識だけが会議室に飛ばされた。パーソナルデータは圧縮され、全員がアイコンとして表示されている。


「皆さん、無事にダイブできたみたいですね」


 スタッフの声だ。けど、空気を震わすようなことはない。閉口コミュニケーションが既に適用されている。


「ここは五月十四日。午前八時三十一分の桜流しの灯台。何年か分かるよね」


 男子生徒のアイコンが縦に揺れたように見えた。頷いているのだろうか。


「転送タイミングは地震発生と同時になっているから、まずは急いで灯室に上がりましょう。灯台守はもういないはずだけど、不用意に物に触れないように」


 全員が忍び足で螺旋階段を上っていく。いよいよ建物がぐらぐらと揺れ始めた。何世代か前の避難訓練を模倣したような形で、(押さない・走らない・喋らない・戻らない)に従って動く。


「着きましたね」


 殿を務めていた男性スタッフが階下から顔を出す。彼の表情は腹話術のように何一つ変わるところが無い。地震の揺れが落ち着く気配は一向にないが、この灯台はかなり頑丈のようで機材などの転倒も見当たらない。周囲にはガタガタという音だけが不規則に鳴り響く。


「ここまでくれば安全でしょう。まずは皆さんに特製のアップデートファイルをお渡しします」


 ピークを今に終え、次第に弱まりつつある揺れの下、C2フィールドで提示されたファイルをインストールしていく。直ちに実行すると、現在時刻が修正され、大震災当時の地形情報が時間軸を伴って立体データとして現れる。あまりのデータの奥行きの広さに、芽衣が慌てて拡大率を下げる。


 ……凄い。

 文字通り、思わず言葉を失ってしまうほどに。


 芽衣は緻密なジオラマの世界に心奪われた。動画のように再生や一時停止ができて、当時の住人の配置や行動ルートまで把握することが出来る。


「これは前任者から頂いたデータを基に、震災被害とパラドクスリスクを視覚的に認識できるように改良したものです。津波が完全に収束したら、実際に被害の出た町まで簡易ダイブします」


 彼は現実の身体を動かして、隠し持っていたマスターフラグメントの調整を始め出した。四角い漆黒から明るい緑色の火花のような、鱗粉のような粒子がちらついている。


「色々考えてみましたが、前年度と同じルートで町を回ります。後半で高台に向かうのですが、人目を避ける都合上、道なき道を行くので覚悟してください」


 立体データにピンが立ち、遠足ルートが赤いラインで表示される。


「ただ……午後二時三十六分の辺りから再生してみると分かると思うのですが、今回辿るコース上のデータに空白があって……。前任のスタッフの《i-link》の記億情報を提供してもらったのですが、どうもそこだけ破損していたようです」


 えっ?ほんとだ……確かにその部分に空白がある。拡大率を下げて俯瞰する分には気付くことはないだろう小さな空白だった。


 「彼も問題はなかったと言っていましたし、サーバーと接続できない環境でデータが正常に保存されないことはありますから。ですが、どちらにせよ一帯が避難を急ぐ住民で溢れています。接触の危険は等しくあるので十分に注意してください」



 まもなくして、津波がやって来る。岬の先では波が集中し、他の場所より高くなると聞いた。何故この灯台が後世まで形を保ったまま生き残ることができたのか?芽衣には何となく分かった気がした。黒い波が一艘の舟を焦がした。数十キロメートル沖までの幅を持つ水の塊が全てを呑み込むようにして十八メートルの高さから襲い掛かる。数十分後に津波が町に到達すると、車が何台も寄せ集めるように流されて、家々が押し潰されて崩れていく。


 ああ、分かったよ。もう分かったから、……苦しいから止めなよ。

 波が過去を攫っていくんじゃない。波が全てを焼き尽くしている。破壊を貪る炎が、それでも飽き足らずに私の心を喰らおうとしている。


 黒い波。ジリジリと焼かれる音。……強靭な窓。隔てるもの。

 いつの間にか隣にいた雛乃。ふと目に入った横顔、その頬にそっと、涙が伝って垂れ落ちた。視界には流れるような色彩の変化が現れる。芽衣の頬にもすぅーと染み入るような冷たさが走る。

 悲しいじゃ足りないくらいだよね、芽衣はバレッタを外し、瑠璃色を重ねてみせた。


「ねぇ、漆原さん」


 心を海に囚われた人形が、その言葉を抱くように、優しく呟いた。それでいて芽衣を弄ぶように、その真意を持ち去って彼女は逃げてしまう。


「……綺麗な眺め、ですね」


 雛乃は潤んだ瞳を逸らした。きっと、雫は海に落ちていくのだろう。

 流れ星だって、火竜の焚書だって、“綺麗”なんですから。

 だからせめて……美しく終わらせてあげましょう。それが手向けの言葉になるのなら。


「……きれい」


 芽衣は覚えたての言葉をなぞるように、そっと囁いた。


 忌まわしき過去が一つあったとして、……私がそれを変えられたとして。

 煩わしいだけの現在に希望の灯を一つ分け与えることができたとして。

 彼らには何も選べない。きっと、私は……何も選ばない。だから余計にもどかしいんだ、何もかも。





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