はじまりの季節―2133.9.10
〔2〕
霞んだ空に溶けゆく陽光。未だ雲の形は捉えられそうにもない。
秒針を遊ばせているうちに、午前九時二十分を回った。
皆が灯台の外、螺旋階段の入り口付近に集合する。役者は既に全員揃っていた。暗黙の十分前行動というものだろうか。いずれにせよ、それが共通認識であったことは幾分幸運だった。
「おや、皆さん揃っているようですね。これから一人ずつ、僕と一緒に座標指定していきます。出席確認はそれと並行してやっていきますので」
一番最後にやってきたこの男が恐らく《ブラックボックス》の技術スタッフだ。三十代前半だろうか、とにかく背は高い。
「あ、そっかそっか。そうですね、私が今日の引率を担当します」
見ず知らずの男に生徒がきょとんとしている様子に気付いた彼は、尾上です、よろしく、と付け加えた。
あー……なんというか耳がおかしい。言葉の意味そのままの“肉声”を聞いたのが久々すぎて、まるで赤子が初めて世界に曝されたときのように、上手く五感をコントロールできない。見るからに他の生徒三人も同じ症状に陥っている。みんな頻りに瞬きしたり、耳が小さくピクピク動いていたり……。
「えっと……ですね、まだ時間はあるのですが、先にフラグメントの設定を完了させてしましょうか」
芽衣を含め、生徒たちが頷く。
スタッフの彼から見て左手に居た生徒から順に、真っ黒なキューブをカチカチと鳴らして座標指定を行っていく。生徒の操作を見守りながら、彼は名前を読み上げて出席リストを照合していく。
――<auto setting>......searching......(010.1111101,101.101011)......searching......……ex.point[z]......(2029.5.14.8:31:12)――
ルービックキューブを弄るように一つ二つと数値入力を行い、面を揃えていく。特に滞ることも無く十五分足らずで全員の設定が終わった。
「量子ダイブは一律で十時半ジャストだから、しばらくは気を楽にして待っててください。ただ今から話す注意事項は大事ですので、耳だけはよーく傾けておいてくれますか」
皆の表情が少し硬くなった。恐らくこれから耳にするのはタイムパラドクス法――この世で一番重い罪に関する注意と警告だ。こればかりは少年法が適用されない。未成年だからといって触れたら最後、死罪は免れない。だから皆慎重になっている。むかしむかしに夢見たタイムマシンとは訳が違うのだから。
薄ぼけた淡い空の下、大きな海鳥が羽を広げて、芽衣の頭上に影を落としてさっと過ぎ去っていった。
「過去へ着いた瞬間から、あらゆる干渉が禁止されています。当然、僕もそれは許されない。ダイブが完了し、身体の感覚と《i-link》の機能が戻ってきたら、まずは誘導に従って、すぐに仮想校舎のC2フィールドに集合してください。そこに僕もいます。C2フィールドでは《i-link》による脳波コントロール下での閉口コミュニケーションができます。だからそれまでは光学迷彩制服のSAS(=吸音システム)を起動させた状態で、私語厳禁。ここまでいいかな?」
「はい」気圧されたような各々のか細い声。
その後も念入りな違反事項の確認とシミュレーションが続く。スタッフの指導は質疑応答を繰り返すようにして生徒が満足するまで行われた。
「よし、いいかな。それじゃ二十五分までには各自サーマルレンズを装着して、光学迷彩もオンにしておいてください。ちょうど今十五分だから十分間休憩で」
指導スタッフが背を向け歩き出すと、男子生徒が傍にあった手すりに寄り掛かり、海を見渡し始めた。
あと十分でついに始まる……。芽衣は気持ちを落ち着かせる為、最後にもう一度と螺旋階段を上っていく。灯室からの景色に一人浸ろうとした時、階段から足音が近づいてくるのが分かった。芽衣が振り返ると、ちょうど踊り場を過ぎた頃から女子生徒の頭が見えた。彼女はようやく上り終えると、軽い会釈をしてこちらにやってきた。
「漆喰さん、でしょう?こんにちは。その、隣、いいかしら?」
……私を知っている、どうして?
「どうして?って顔されてるけど、さっきだってフラグメントの登録確認であの人が一人ずつ名前を読み上げてたでしょう?」
言われてみれば確かにそうだった。あの時は操作に集中していてしっかりと聞いていなかった。
「
誰もが羨むようなプラチナブロンドの長い髪。麦わら帽子が良く似合いそうな上品な子だ。令嬢かもしれない。そうだ、彼女の名前は?芽衣はどう話すべきかを考えた。
「わたし?……ととりかわっていうの。
「あ、ああ……登鳥川さん。ごめんなさい、私あの時ちゃんと聞いてなくて……」
芽衣が申し訳なさそうに雛乃から目を逸らす。
「気にしないで。だって私たち、普段から人と会って話すことなんて滅多にないから……」
だから他人への興味も消えてしまうのよ、と。しかし、そこで雛乃は言い淀んだ。
「でも、私ね……。あの……どうか気を悪くしないでほしいのだけど」
雛乃はゆっくりと歩み寄ると、すぐ隣で芽衣と同じ方角を眺めて、不安そうに、その天使のような濁りなき声をくぐもらせた。
「……漆喰さんのこと、もっと前から知っているの。私、クラスメートで気になった方のモデル表示はオンにしてるの。貴女はお人形さんのように整っていて、それでいて、なんだか……」
「私は……そんなんじゃないよ、多分」
思わず眉を顰めたものの、雛乃が芽衣の中に何を見ていたのか、その核心を言葉として受け取れない以上、芽衣にそれを咎める事はできなかった。
「登鳥川さん、あなたは違うの?」
「……というと?」
雛乃は首を前に垂れて、そのままじっと芽衣の横顔を覗く。芽衣がそれに対抗して臆病ながらに一瞥すると、その瞳は人形のように大きく、水晶のように澄んでいるのではないか、そう思えてならない。
「あなたはなんだか深窓の令嬢って感じだわ」
麗しきお人形さんなら私の傍にいる。灯台下暗し、って多分こういうこと。
「冗談だわ。だって貴女、まだ私と出会ったばかりじゃない」
……それで私の何が分かるというの?
物言いこそ淑やかだったが、そこに込み上げる感情を芽衣は感じ取った。
「いや、ごめん……。そんなつもりじゃ……」
「……ごめんなさい」雛乃も悲しそうに謝った。
「漆喰さんとどうしても二人で話してみたくて、それが今に叶ってちょっと興奮してしまったのかも。……ほら見て、海が宝石のように輝いている。瑠璃色、重ねてみてはどうかしら?」
雛乃が芽衣の髪留めを見つめている。芽衣は《i-link》のバレッタをそっと外すと、目に近づけてみた。海は水が赤い光を吸収していて、空の青はレイリー散乱。この端末に関しては言うまでもない。それを美しいと思うかは人それぞれ。それから、摘んだ瑠璃色を徐に雛乃の視界に移す。
「どう?」「まあ、綺麗だわ」
「それはどっち?」「一緒くたにしてしまうのが勿体無いくらい」
「そう……登鳥川さんって不思議」「私たちお友達になれるかしら」
芽衣と雛乃は忽ちに言葉を交わした。
「そうだね、……悪くないかも」
あー……、物好きっているんだな、やっぱり。
芽衣はそこはかとない既視感の理由を穏やかな蒼い海に探していた。
「明日からは、顔を合わせてお話できる?」
「それじゃあ後でバレッタを調整しておかなきゃ」
「ふふ、私、楽しみにしてます」
楽しみ、ね……。ちょっぴり羨ましいかな。ひょっとしたら、私は疲れ果ててしまうかもしれない。
再び瑠璃色を髪に留めると、《i-link》の時刻表示が二十四分に変わった。
「大変、急がなきゃ」
同じようにして慌てふためく二人。自然と笑みがこぼれる。
二人は大急ぎで階段を駆け下りていった。
足音の残響が歴史に取り残された寂しい灯台に温かく篭り続けている。
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