10

 大変なことが起きていた。高校はさながら惨劇の館だった。

 二十三回留年の男の言った通り、すべてが見えたのだった。この学校は完全におかしかった。正気の沙汰ではなかった。ここではとんでもない洗脳教育が施されていたのだ。

 昇二だけがそのことに気がついていた。いや、本当はみんな気がついているのかもしれなかった。むしろ、進んで洗脳を受けているのかもしれないのだ。そうしなければ卒業できないのだとしたら、誰もがそうするのではないか。だが、それは魂を売り渡すのにも等しいことだった。教育とは逆のことなのだ。

 これまでもずっと何かがおかしいと思っていたが、小学校中学校を通して同じことが続いていたのだと今になってはっきり気がついた。

 ここにいたらダメだ。昇二は強く思った。

 気がつくのが遅すぎるくらいだった。いや、本当は心のどこかで気がついていたが、今まで抑えつけられていたのだ。親と学校が結託して、昇二を騙して来た結果だった。どうにかしてここから抜け出さなければ。このままでは遅かれ早かれ自分も洗脳されてしまう。

「何か書けたか?」

 気がつくと、実は小説家の用務員が入口のところに立っていた。片方の手に道具を詰め込んだバケツを、もう片方の手にデッキブラシを持っていた。

 昇二はふとひらめいた。自分には小説があるではないか。いきなり学校をやめるといっても先立つものがなかったが、小説に賭けてみることはできるかもしれない。

 この数日の間に、実は小説家の用務員に勧められるままに少し書いてみたのだった。自分には文章を書くことなどできないと思っていたが、やればできるような気がしはじめていたところだった。プロだか何だか知らないが、とにかく読んでもらって後押ししてもらえたら心強かった。

「少しだけ書いてみました」

「見せてみろ」

 昇二は、制服の内ポケットに折り畳んでしまってあったルーズリーフを渡した。手書き原稿だった。実は小説家の用務員は、ゴム手袋を外してそれを受け取ると、その場で文章を音読した。

「オ、オール・ワーク……」実は小説家の用務員は出だしからつまずいた。「英語?」

「はい」

 実は小説家の用務員は、不満そうに眉をしかめてもう一度頭から読みはじめた。

「オール・ワーク・アンド・ノー・プレイ。えー、メイクス・ジャック……、ジャックというのは誰だ?」

「登場人物というか……」

「まぁいい」実は小説家の用務員は続きを読んだ。「メイクス・ジャック・ア・ダ、ダ……」

「ダル」

「ダル・ボーイ。どういう意味だ」

「それは……」

「ダルビッシュ?」

「そんなところです」

「ジャックがダルビッシュになる?」

 実は小説家の用務員は、文章の続きに目をやった。

「あとは同じ文章の繰り返しだ。ずっと」

「はい」

「はい?」

「ぼく、ものになりそうですか?」

「なるわけないだろ!」

 実は小説家の用務員は、怒りに顔を真っ赤にしてルーズリーフをばらばらに引き裂いた。

「あっ! ちょ、やめっ!」

「ダメダメダメダメ! 全然ダメ!」実は小説家の用務員は、ちぎったルーズリーフを忌々しげに撒き散らした。「小説をナメてるのか!」

 昇二は、わっと泣き顔になって切れ端を拾い集めたが、すぐにそこまでする価値のない原稿なのだとあきらめた。

「これしか書けなくて」昇二は床に膝をついたまま涙目で訴えた。

「あきらめるんだ」

「それじゃ困るんです」

「がっかりすることはない。才能というのは、ないのが普通なんだから」

 その言葉は何の慰めにもならなかった。

 学校から一歩出たと思ったらもう家だった。昇二は、すべての希望を打ち砕かれて居間のソファに倒れ込んだ。テレビでワイドショーをやっていた。

 自殺した男子中学生のニュースだった。同級生から受けたいじめがその原因で、担任教師もそれに加担することがあったという。その男子生徒は、誰にどんなことをされたのか日記に克明に書き残していた。しかし、学校側は会見でいじめの事実は確認できないと言った。

 都合の悪いことは認めない。あるいはもみ消す。それが学校だった。

 次は、両親を殺した高校一年生の男の子のニュースだった。幼い頃から両親に厳しくしつけられた彼は、有名国立大学を目指すようにことあるごとに言われていたという。両親はテストの点がちょっとでも悪いと「そんな子に育てた覚えはない」だとか「お前なんかいらない」などと暴言を吐き、毎日決められた分量の自宅学習が済むまで子供を椅子に縛りつけた。文字通りロープで縛りつけたのだ。

 ある晩、その息子は両親の寝込みを襲い、包丁でメッタ刺しにした。

 昇二は二つのニュースに自分の行く末を見たのだった。自殺した中学生と、両親を殺した高校生。自分が当事者になるならどちらがいいか。そう迫られているような気がした。

 前者なら自分は生き残らない。と同時に、自分を追いつめた相手は野放しになる。後者なら自分は生き残る。それも、自分を追いつめた相手を始末した上で。後者の方がずっとましに思えた。だが、果たしてそれは選ぼうと思って選べるようなものだろうか。

 昇二は両親に殺されかけていた。

 学校にも殺されかけていた。

 昇二の身にも、どちらかが起こる可能性は大いにあった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る