9
翌朝、昇二が恥辱にまみれたいやらしい夢から目覚めると、自分が醜くて哀れで救いようのない高校一年生であることに気がついた。と同時に、両方の足を引っ張られてベッドから引きずり出された。
「お前にはがっかりだ!」
「五体満足で生まれただけで幸せ」
「お前の悩みなど悩みのうちに入らん! みんなの方がよっぽど悩んでる!」
「みんな行くんだから行くのが当たり前」
「ひねくれた根性を叩き直してやる!」
無理やり玄関から放り出されると、そこは一年五組の教室だった。昇二は、一時間目がはじまる前からすでに意識もうろうとしていた。
「れんしょうじしょうじ!」
「へ?」
昇二は大声で名前を呼ばれて突然我に返った。クラスメイトたちが失笑した。
「立て!」世界史の教師が権力を振りかざして言った。「おれが今訊いたことに答えてみろ!」
昇二はよろよろと立ち上がった。何を訊かれたのかも分からず、ただもじもじするしかできなかった。
「はいダメー!」
世界史の教師が手で教壇を強く叩くと、天井がぱかっと口を開けた。そこから大量の水が昇二に降り注いだ。教師とクラスメイトたちが一緒になって、ずぶ濡れになった昇二を指さしてげらげら笑った。
昇二は、二十三回留年の男が言っていたことを思い出した。教師どもをよく観察するんだ。そうすればすべて見えてくる。
昇二はその言葉を信じることにした。もはや他にすがるものがなかったのだ。
教室では何事もなかったかのように授業が続けられた。中世ヨーロッパはどこもかしこもネズミだらけだったのでみんな気持ちが暗くなった、それゆえこの時代を暗黒時代と呼ぶようになった、という内容の話だった。
昇二にしてみれば、あまりにも甘すぎる認識だった。それはそんな大昔の話ではない。暗黒時代は今も続いているのだ。昇二の周りで。
世界史の教師は、前歯を突き出してネズミの真似をした。
ちゅーちゅー、ちゅーちゅー。
生徒たちは大いにウケていたが、昇二には何が面白いのかまるで分からなかった。
そのときだった。世界史の教師が鳴き真似の合間に何かささやいた。
ちゅーちゅー、(……)ちゅーちゅー。
ちゅーちゅー、(……)ちゅーちゅー。
昇二は全神経を集中した。フィルム映像の中にわずか一コマだけ差し挟まれた断片のように、世界史の教師は一瞬恐ろしい悪鬼のような顔に変貌して、何か言っていたのだ。
時の狭間の感知できないほどの短い瞬間だったが、昇二は見逃さなかった。
「屈服しろ!」
世界史の教師はそう言っていた。
ちゅーちゅー、(屈服しろ!)ちゅーちゅー。
ちゅーちゅー、(屈服しろ!)ちゅーちゅー。
昇二は恐ろしくなって椅子ごと身を引いた。
昇二が気がついたということに、世界史の教師もまた気がついたようだった。世界史の教師は、昇二を見据えて陰謀めいた笑みを浮かべた。
昇二はすがるような思いで教室を見回した。他の生徒たちは、まるで笑気ガスでも吸わされたみたいにネズミの物真似に腹を抱えて笑っていた。ただ一人、昇二だけが世界史の教師の正体を知ったのだ。
気がつくと二時間目の数学がはじまっていた。
「お前のことなど誰も助けてくれない!」
数学の教師は因数分解の公式を説明する合間に、ほんの一瞬恐ろしい悪鬼の顔に変貌し、言った。
昇二は、冷や汗をかきながら教師を見つめた。
「お前のことなど誰も助けてくれない!」
教師は同じメッセージを繰り返し発した。人間の顔と悪鬼の顔が点滅するように入れ替わった。昇二はその度に教室をきょろきょろ見回した。クラスメイトの誰も、このことに気がついていなかった。
三時間目は化学だった。
「諦めろ!」
白衣を着た化学の教師は言った。
「何も考えるな!」
サングラスをかけた現代文の教師は言った。
「適応しろ!」
英語の教師は言った。
「適応しろ! 適応しろ! 適応しろ!」
昇二が混乱に満ちた悪夢から目覚めると、自分が醜くて哀れな高校一年生であることに気がついた。昇二は、ベッドから引きずり出され、玄関から放り出された。
「お前には我慢が足りない!」
そこはもう一年五組の教室だった。
「れんしょうじしょうじ!」
昇二が荒れ狂う渦の中でもがき苦しむ束の間の夢から目覚めると、倫理の教師が彼を指名していることに気がついた。授業中に居眠りをしてしまったのだ。
「わ、分かりません」昇二はふらふらと起立し、もうろうとした意識のまま言った。
「体面がすべて!」倫理の教師は言った。
「え?」
「お前には我慢が足りない!」体育の教師が言った。
息をつく暇もなかった。次から次へと焼夷弾が降ってくるようだった。
「同調しろ!」情報の教師は言った。
「既存の体制を支持しろ!」家庭科の教師は言った。
「想像するな!」美術の教師が言った。
昇二は、南棟四階にあるトイレの、奥の個室から転がり出た。
床に突っ伏したまま起き上がれなかった。手の施しようがない悪夢から目覚めたかのように、全身にびっしょり汗をかいていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます