帰りがけに一階にある図書室に立ち寄った。

 本が整然と並ぶ書架の間を何気なく行き来してみると、物量に圧倒されて目眩がした。実を言うと、昇二は今まで小説というものをただの一冊も読んだことがなかった。

 文章を書くことも苦手だった。学校という場所で課せられる課題の中で、昇二が最も嫌っているものといえば作文だった。作文というものには正解があるのかないのかがいまいち分からなかったし、自分で考えたことを書けばいいのだと言われても、それでもなお望ましい答えというものはあるような気がした。

 昇二には、考えるということがどういうことなのかも分からなかった。もともとは分かっていた気がした。だが、自分で考えたことを両親に頭ごなしに否定されているうちに、次第に分からなくなってしまったのだ。

 両親は「自分で考えてみろ」と言っては昇二に考えさせ、出てきた答えを全否定するという悪魔の手法で昇二を混乱の極みに突き落としていた。そこでは親の考えこそがすなわち正しい考えであるとされた。事実上、昇二は自分で考えることを禁じられていたのだ。

 多くの本に囲まれて、昇二はいつの間にか平常心を失っていた。

 彼は、書架から何冊もの本をでたらめに取り出すと閲覧席の上に積み重ねていった。自分でもなぜそんなことをはじめたのか分からなかったが、やってみると不思議と心が落ち着くのを感じた。

 一冊また一冊と本の上に本を重ねていくと、やがて即席の本の塔ができた。角は揃っていなかったし、厚さや表紙の色にもまとまりがなかった。判型もジャンルも入り乱れていた。どんな観点から見ても統一感がなかったが、それでもそこには確固たる何かがあった。

 そのとき、昇二は天啓を受けた。欠けている最後のピースがはっきりと見えたのだ。昇二は、鞄からレモンを一個取り出すと、塔の天辺にそれを置いた。レモンはレモンでも、CCレモンのペットボトルだ。つい先程、校内の自販機で買っていたのである。

 これで完璧になった。まるで神話に登場する建造物が眼前に姿を現したようだった。

 昇二はこのあとどうすればいいのかも分かっていた。本の塔をこのままにして、何食わぬ顔で出ていくのだ。

 さっそく実行に移そうとすると、入口のところに図書委員が腕を組んで立ちはだかっていた。

 昇二は、相手の顔を見ないようにうつむいたまま右に避けた。すると図書委員は大股で一歩横に動いて道をふさいだ。昇二は今度は左に避けた。図書委員はまたしても大股で一歩横歩きして行く手をふさいだ。

 昇二は右に行くと見せかけて素早く向きを変え、左から抜けようとした。図書委員はフェイントにひっかからなかった。昇二はあえなく捕まり、腕を後ろにひねりあげられた。

「本を元に戻せ」

 昇二は言われた通りにした。

 放課後、昇二は下駄箱で靴に履き替えると、一刻も早くこんなところから立ち去りたい一心でさっと足を踏み出した。思ったように足が前に出なかった。誰かが右の靴紐と左の靴紐を結び合わせていたのだ。昇二は派手に転倒して地面に鼻を打ちつけた。鼻血が出た。

 古典的ないたずらだった。靴紐はあまりにも固く結ばれており、いくらがんばっても解けなかった。仕方なく、昇二は太ももを縫い合わされた男のようにひょこひょこ小刻みに歩いて帰っていった。 

 駅で電車を待っていると、中学のときに一度同じクラスになったことがある男に声をかけられた。親しく話したことはなかったが、田中という名前は覚えていた。

 田中は、昇二の高校とは駅の反対側にある、偏差値が低いことで有名な高校の制服を着ていた。

「高校の勉強って難しくないか?」

 田中は疲れた顔で言った。

 昇二はあいまいにうなずいた。

「十一を英語でなんて言うかだぞ。分かるわけないだろ?」

 昇二はその言葉の内容をよく検討してみた。

「それは中学の問題だと思うけど。中学一年の」

「マジ?」同級生は深くため息をつきながら首を横に振った。「だからか」

「いや、だからかって意味分からないし」

 このとき、昇二はある重大なことに気がついて後頭部をハンマーで殴られたような衝撃を受けた。

 それは、昇二の両親がこの中学の同級生と同じ高校の出身だという事実だった。両親とこの同級生は、同じレベルの学力なのだ。学校でいい成績を取ることがすべてだと思っているあの親は、英語で十一を何というか知らないやつと大差ないのだ。

 両親の出身校は知っていたが、今までそのように捉えたことはなかった。

 すべてが繫がった気がした。両親が通った高校の偏差値レベルは低かった。大学もそうだった。両親はともにFランクの私立大学の出身だった。そのあとどうなったかと言えば、父親は高校の体育教師になり、母親は一度も社会に出ないまま専業主婦になっていた。

 二人とも勉強などろくにしたことがないのだ。進路にうるさく口出ししてくるのは、両親自身の学歴への劣等感ゆえなのだと昇二は気がついた。自分たちができなかったことを、あるいは怠けてやらなかっただけことを、子供に無理強いしているのだ。自分たちの自尊心を満たすために子供を利用していただけだったのだ。

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