6
昼休みになってようやく意識を取り戻すと、昇二は鞄を手にふらふらと教室を出て南棟に向かった。
敷地の外れにあるそのこじんまりとした建物は、一階に図書室と保健室が入っている他は各階に実習室があるだけで、普段生徒が寄りつくことはほとんどなかった。
その四階にある男子トイレの奥の個室は、広い校内で唯一昇二が息をつける場所だった。彼は昼休みはもちろん、授業合間の短い休み時間にもわざわざここまで来て、そのわずか半畳ほどの空間で過ごすようになっていた。
昇二は鞄からおもむろに弁当を取り出すと、立ったままそれを食べた。彼にとっては他のどこで食べるよりマシだったのだ。立ったままなのは便器が和式だからだった。
弁当はまったく喉を通らなかった。入学以来まともに食べられた試しがないのだ。少しでも食べなければと思って無理やり口に入れると、まるで腐葉土を詰め込まれたかのように胸がむかついた。
昇二は、いったん個室を出て、洗面台の脇にあるごみ箱に弁当の中身を捨てた。残して帰ると母親がうるさいから食べたことにするのだ。気配を感じて振り返ると、作業服にゴム手袋をつけた男がトイレの入口のところに立っていた。
「わっ」
昇二は驚いて弁当を捨てる手を止めた。
男は、薬品や雑巾を詰め込んだ水色のバケツをぶら下げ、もう片方の手には使い込んだ感じのデッキブラシを持っていた。用務員だった。
何か釈明しなければとどぎまぎしたが、相手は気に留める様子もなかった。用務員はバケツから容量の大きな黄色いボトルを取り出すと、小便器の目皿を取り外して液体洗剤を垂らして回った。
「新入生だな?」用務員はようやく昇二に一瞥をくれた。
昇二は黙ってうなずいた。
「私の正体を知りたいか」
「え?」
あまりにも唐突な質問だった。どう返せばいいのか見当もつかなかったが、そんなことを言われるとこの人は用務員ではないのかという疑問が否応なく生じた。だが、目の前の男はどこからどう見ても学校の用務員にしか見えなかった。
「用務員さんじゃ――」
「実は小説家なんだ」
「え?」
「兼業してる。小説は仕事が終わったあとや休みの日に書くんだ。だが、こうしている間も常に小説のことを考えている」
大学で教えている小説家という話なら聞いたことがあったが、高校で用務員をしている小説家というのは初めてだった。昇二は、男がどこか油断のならない目つきをしていることに気がついていたが、その目は便器の汚れを見極める以外のことにも役立っているらしかった。
「何か悩みがあるようだな」用務員は研磨スポンジで小便器を磨きながら言った。
「いや、ぼくは――」
「小説を書くといい」
実は小説家の用務員は、昇二が話そうとするのをさえぎって言った。
「な、なんで?」
昇二は、ほんの少しでも小説に興味があるような素振りをした覚えはなかった。
「書いてみなければ何も分からない。小説というのはそういうものだ」
「いや、なんて言うか――」昇二は別にそんなことは訊いていなかった。
「きみがここで学んだことは何だ。この学校で。中学や小学校で」
実は小説家の用務員は、言いたいことを一方的に言い、他人の話にはまるで興味がないタイプの人間のようだった。それでも昇二は訊かれたことについて考えてみた。
「何も」
高校で学んだことなど何もなかった。これまでも同じだった。小学校と中学校、九年間の学校教育、何もなし。
「よし、それを書いてみろ」
「でもどうやって」
素人の昇二には、「この学校で学んだことは何もない」と書いたらそれで証明は終わってしまうように思われた。
「そこが腕の見せどころだ。書けたら読んでやろう」
具体的なアドバイスはなかった。実は小説家の用務員はバケツに水を汲んで小便器を順に洗い流すと、さっさと荷物をまとめて次のトイレに行ってしまった。
得体の知れない男だったが、小説を書いてみるという考えは悪くなさそうだと昇二は思った。そういう形でしか吐き出せないような何かが自分の中にはあるような気がした。
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