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 どうも尾けられているらしい。

 排気ガスにまみれた空気と新たなネタを求めて事務所を出たおれの後ろを、首根っこに息がかからんばかりの距離でついてくるやつがいる。これだけ近寄っては気付くなという方が無理だ。明らかにプロのやり口じゃない。おれは次の曲がり角で何の予告もなしに足を止めた。おれの背中に尾行者がぶつかる。だが、何か感触がおかしい。

「あら、ごめんなさい」

 振り返ってみると、特大のシフォンケーキが二つ、おれの目に飛び込んできた。背中にぶつかった物の正体はこれだったってわけだ。そこにはメリハリの効いたボディラインと、胸元が剥き出し同然に開かれたドレスに身を包んだブルネットの女がいた。まさしく極上。こんな女と甘い一夜を過ごせるというのなら、おれの死んだジイさまでさえ地獄の淵からよみがえるだろう。

「私ったら、よく見てなくて」

 こっちはすべて承知だが、相手はちょっとばかり抜けたところのある女の演技を完璧にこなしている。なるほど、プロはプロでもこっちのプロというわけだ。色仕掛けで落とそうという気らしいが、あいにくそんな罠に引っ掛かるおれじゃない。と言いたいところだが、たまにはこんな話に付き合うのも悪くない。何かのネタになることだってある。おれは探偵、ときには自ら進んで危険地帯に足を踏み入れることもある。このたまらないスリル。

 数分後、まどろっこしい駆け引きを全部すっ飛ばし、おれたちはベッドの中にいた。まったく、女スパイってやつは何から何までよく訓練されているらしい。終わったあと、おれの口に煙草をくわえさせることも忘れない。すべてはこっちの油断を誘うための手口。だが相手が悪い。あれだけの大運動会のあとだが、おれは疲れも見せずに切り出した。

「小猫ちゃん、そろそろ本題に入ったらどうだい?」

「本題?」

「おれのジョークに探りを入れに来たんだろ?」

「何の話がはじまったのかしら?」

「白髪混じりの髪を後ろに撫でつけたサングラスの男に命令されたんだろう。おれの作ったジョークを盗んで来いとな」

「白髪混じり? サングラスの男? 何を言ってるのか分からないわ」

「例えば、さっきおれが喋った傑作ジョークなんだが――」

「さっき喋った? ジョークを? 傑作の?」

 どこまでもすっとボケた演技をする女だ。試しにもう一度、おれは今日ひらめいた中でも爆笑必至のジョークをこの女に言ってみた。冷凍マグロみたいにピクリとも反応しない。おれのジョークが分からないなんて、いい女が台無しだ。

「もっと面白い話はないのかしら?」

「やめておこう。そのかわり、思い出し笑いには気をつけた方がいい。今のネタがあとでボディブローみたいに効いてくるだろうからな。電車の中でそうなったら、最悪だぜ」

「もうお終いなの? もう一度したらその気になるんじゃない?」

 女はおれの首に両手を回し、再びベッドに誘い込もうとした。おれからジョークを掠め取るのも楽な仕事じゃないってわけだ。だが、おれが甘い顔をするのも一度だけ。

「悪いんだが、一度目と二度目の間は十二時間以上空けることにしてる。医者の忠告でね」

「このけちんぼ! おたんこなす!」

 おれが断ると、女はようやく正体を現した。

 そのとき、ドアの後ろで拳銃が唸った。「ガチョン! ガチョン!」。おれの髪の毛が数本千切れ、空中にひらりと舞った。「ガグワァッ」。女はおれの腕の中でドナルドダックみたいな声を上げてサヨナラした。用がなくなれば始末する。タクシー待ちの列に平然と割り込む。ゴミの分別は気にしない。これが連中のやり方だ。

「まったく、役立たずにはもううんざりだ」

 そう言いながら一人の男が登場した。男はドアを何度も押したが、あいにくこのドアは引き戸だった。そいつは濁った眼と顎に二重三重に肉のついた、小柄だがどこか喧嘩っ早そうな初老の男だった。いかにも面倒くさそうにため息をつき、態度がでかい。だが、すぐにもそんな態度ではいられなくなるだろう。遊びの時間はもう終わりだ。



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