第147話 向こうの景色は陽炎に霞んで

 体に乞われるままに空気を胸に取り込み、すぐに吐き出す。

 そうして繰り返し取り込む空気は変わらぬ冬の冷たさを残しながらも、どこかしっとりとした春の香りを含んでいる。


 すでに日が沈んだグラウンドはまだ寒いけれど、昼間はもう冬という季節が終わるのだと言わんばかりに暖かかった。

 私はクールダウンを終えて、そんな季節の変わり目にいるのだと実感する。


「お疲れー。これでやっと週末だぁ」

「お疲れ。珍しく隆平にしては疲れた顔してるじゃない」

「今日はなんか黙々と走っちゃったからかな? なんか疲れたって感じがするよ」


 同じくクールダウンを終えたらしい隆平は、そう言うと一つため息を付いた。どうやら本当にお疲れのようだ。


「やっほ。お疲れふたりとも」

「結奈もお疲れ」

「そういえば明日だっけ? 柳澤君とのデート」

「はぁ!?」


 唐突に飛び出した結奈の発言に、私は思わず足を止めた。

 デデデート!? 別にあれはそういうんじゃなくて、ただ一緒にお菓子作りの練習をするだけというかなんというか!


「っていうかなんで結奈がその事知ってんのよ!?」

「え? 塚田から聞いたけど?」

「隆平あんたねぇ!」

「あはは、ごめんごめん」


 なに笑ってんのよ。人のプライベート言いふらしやがって。

 でもまぁ、こいつのおかげで陽介と一緒にお菓子作りの練習することになったのよね。そこは感謝してるけどさ……。



 私はつい昨日決定した一大イベントが明日に迫っていることを思い出して、心臓が早鐘を打ち始めるのを感じる。

 や、やっぱりデートみたいに見えるのかな? ていうか陽介を家に上げるのだって随分久しぶりじゃない? 部屋にまで入れる予定はないけど一応片付けておいたほうがいいわよね。あと台所の掃除もしないと。


「で? 夏希は柳澤君と二人っきりでおうちデートするんだよね?」

「デートじゃないわよ! ……でもまぁ、そういうことね」

「わー! じゃあいよいよって感じ!? ねぇ塚田?」

「うん、そうだねー。……ごめん、俺今日ちょっと疲れたから先帰るよ」


 結奈の言葉にそっけなくそう返すと、隆平は足早に部室に向かって歩いていってしまった。

 なんかボーッとしてたわね。具合でも悪いのかな?


「塚田もなんかめんどくさいことになってるねぇ」

「どういうことよ?」


 私が聞き返すと、結奈は呆れたように小さく笑った。

 そして勢いよく私の背中を叩くと、


「じゃあ月曜にいい報告が聞けるの期待してるからね!」


 そう言って去っていった。

 いい報告って、あいつとは特に何かあるわけじゃないし、報告することなんて何も起こらないわよ。ていうかそもそも報告する義務がないわよ!


 そんな文句を心の中で垂れるも、私はなにか起こることを少し期待していた。

 バレンタインのときは思わず誤魔化しちゃったけど、今度は二人きりで、それも私の家でしょ? 一緒にいる時間は普段の比じゃないし、何か起こらないとも限らない。


「……帰ったらお母さんに相談してみようかな」


 い、いや、何考えてんのよ私! 陽介に限ってそんなことあるわけ無いし、無駄な心配よ。

 それに、何も変わらなくたっていいじゃない。ユッキーと陽介と友達のまま笑い合っている今に不満なんてないもの。関係が壊れてしまうくらいなら、今のままのほうが何倍もマシよ。


「……でも」


 でも、このまま何も変わらないでいいのかな。なんにも変わらないまま、陽介と幼馴染のまま高校を卒業して、別々の大学に進んで、全く違う土地で就職して。何年かに一回会うような、そんな希薄な関係になってしまっても。


 この胸を今も張り裂かんと脈打つ感情を秘めたまま、私は生きていくのだろうか。あるいは時間がこの気持ちすらも希薄にしてしまうのだろうか。


「……あともう一歩、踏み込んでみようかな」


 誰に聞こえるでもない小さな呟きは、湿った春の予感の中に溶けていった。





 ――――





 土曜日の昼前。私は時計を気にしながら意味もなく部屋を行ったり来たりしていた。

 もう約束の時間は過ぎてる。だというのに連絡の一つもない。

 その時、自宅のチャイムが来客を知らせた。


「はい、小山です」

『ういっす。来たぞ』


 インターホンを手にとって受話器を耳に押し当てると、緊張感のかけらもない間の抜けた声が聞こえた。

 なんか、私ばっか緊張しててバカみたい。こいつも少しくらい緊張しててくれてもいいのにさ。

 私は高鳴る胸をを落ち着けさせるためにひとつ深呼吸をすると、軽く服が乱れていないかを確認して玄関に向かう。


「遅い!」

「悪い悪い、なかなか材料が見つからなくてさ。っても5分くらいだろ? 遅れたの」

「それでも遅刻は遅刻よ。罰として今日のお昼は陽介が作ること!」

「山井田さんみたいなこと言うなよな……」


 陽介は苦虫を噛み潰したような顔をして、呻くようにそう言った。

 以前のテスト返しの時に言われた言葉が頭をよぎったのかもしれない。


 たしかギリギリ赤点回避で、赤点を回避すればいいってものじゃないとか言われてたっけ。それで追加課題出されてたわね。


「まぁお菓子作るついでみたいなもんだし、簡単なものなら作ってやるよ」

「じゃあ決まりね! 何にしようかな」

「……頼むから手間のかからないものにしてくれよ?」



 そんなことを話しながら陽介を家に上げる。

 陽介は家に上がるなり、なんだか忙しなく辺りを見回していた。

 そんなに見られるとなんか恥ずかしいんだけど……。


「なんか落ち着きないわね? どうかした?」

「いや別になんでもないよ。ただちょっと前来たときのこと思い出してただけで……」

「何年かぶりだっけ? 案外用事がないと家まで来ないものね」

「……そうだな。もう何年前かも分かんねぇな」

「なにボーッとしてんのよ。さっさと荷物置いて始めるわよ!」


 私はボーッとしている陽介の胸を叩く。

 努めて明るく。陽介をこちらに引き戻すように。


 だって、陽介の言葉が少しだけ寂しそうに聞こえた気がしたから。

 噛みしめるような、言い聞かせるような。そんな含みを持った言葉だったから。


 ……きっと私は、その言葉の裏にあるものがなんなのか、なんとなく分かってる。




 ――私も聞いたんだけどね、これといった理由は話してくれなかったの。ただ、自分にはもったいないくらいいい子だったけど、それより大事なことがあったって。そう言ってたよ。




 ユッキーが昏睡状態から目覚めた時、陽介が由美ちゃんと別れた理由についてそう話してたって、ユッキーが言っていた。


 その陽介にとっての大切なことがなんなのか、なんとなく私は分かっているんだ。

 でもきっとそれは私にとって都合の悪いことだから、今はまだ分からないでいたいんだと思う。

 真夏のアスファルトから昇る陽炎かげろうが、遠くの景色をぼかしてしまうように、その姿の詳細を捉えることはまだできない。

 でも、目を凝らせばきっと見える。その正体が。その先の結末が。

 だからまだ、私はその遠くの景色を眺めているだけなんだ。ボーッと、ただ眺めるだけでいるんだ。



「ほれ、とりあえずマカロンミックスなるものがあったから買ってきたぞ」

「え? ホットケーキミックス?」

「ちげーよ、マカロンミックス。お前今日作るものなにか分かってる?」

「わ、分かってるわよ! マカロンでしょ? マカロン! 作れなくたって名前くらい知ってるわよ」

「そいつは重畳ちょうじょう


 ボーッと考え事をしていた私を置いて、陽介はマカロン作りの準備を進めていた。

 どうやらマカロンミックスというマカロンの元? みたいなものがあるらしい。

 それに水とアーモンドを粉末状にしたものと砂糖を混ぜて、あとは焼くだけ。ほんとに聞くだけなら簡単そうじゃない。


「でも杉山曰く難しいみたいだな。形を整えるのが難しいんだったか」

「言ってても仕方ないでしょ? 早速作るわよ」


 そう言って私がマカロンミックスの袋を開けてボウルに入れようとすると、陽介がストップをかけた。


「全部入れるなよ? 材料は少ないからまずは1/4の量でやろうぜ」

「も、もちろんそのつもりだったわよ?」

「だよなぁ? 天下の夏希さんがそんな後先考えないわけないもんなぁ」


 ……っぶなかったぁ! 危うく全部ボウルにぶちまけるとこだったわ。

 確かにこれ失敗したらあと一つしかマカロンミックスはないから、また買いに行かなきゃいけなかった。

 初っ端からやらかすとこだった。気をつけないと……。


「でも失敗してくれたほうが夏希らしくて安心できるけどな」


 そんな私の気も知らないで、こいつはヘラヘラ笑ってる。

 私だって練習して少しは上手くなったんだから。由美ちゃんのスパルタ特訓を耐え抜いた成果を見せてやるわ!


 そう気合を入れ直したせいか、そこからのマカロン作りは順調だった。

 対して難しいこともない。なんだ、やっぱり簡単じゃない。


 そうしてオーブンがマカロンの焼き上がりを告げ、あっという間にマカロン作りは完了したのだった。


「……ってなによこれ。ひび割れだらけじゃない!」


 ……と、そんな簡単に行くわけもなく、焼き上がったマカロンは私の知っているそれとは大きくかけ離れた見た目をしていたのだった。


「ほんとだな。それに端の方のフリル? みたいなのも上手くできてないな」

「レシピ通りやったわよね? 何がまずかったのよ?」

「混ぜるときに空気が入りすぎたか……? 次はもっと空気を入れないように混ぜるか」



 それから焼き上がったマカロンもどきを二人で食べた後、陽介が少し食べたらお腹が空いたとか言い出すので、昼食にすることにした。


「なにか食べたいものあるか?」

「お母さんが冷蔵庫のものなら何でも使っていいって言ってたから、今作れるものにしましょ」

「……さては夏希お前、はじめから俺に作らせる気だったな?」

「さーてなんのことかさっぱり分からないわね」


 作らせる、というより一緒に作りたかっただけなんだけど。


 陽介は胡乱うろんげな視線を私に向けながらも、淡々と準備を進めていく。

 さすがに慣れているだけあって、いつ見ても手際が良い。私も最近はちょくちょく料理の手伝いとかしてるけど、まだこんなにスムーズには行かないもの。



 それから陽介の指示に従って包丁で野菜を切りながら、私は全身で隣の陽介を感じていた。


 お母さんに相談してみたら、最近料理も頑張ってるんだから披露してみたらーなんて言われたけど、こうして二人で一緒に作ってるほうがなんだか嬉しい。

 同じ台所で並んで料理。それも二人きりでなんて、新婚さんみたいでちょっと憧れるっていうか……。

 って、まだ付き合ってすらないのになに考えてんのよ私!


 私がそんな妄想に浸っていると、急に包丁を持つ手を掴まれた。




「っと、危ないぞ。指詰めるつもりか?」




 見れば隣で調理器具の準備をしていたはずの陽介が、背後から私に覆いかぶさるようにして包丁を持つ手を握っていた。

 包丁の先を見てみると、確かにそのまま振り下ろしたら切ってしまいそうな位置に私の小指があって、危うかったなと思う。

 注意が散漫してた。気をつけないと……。


 ……ってそうじゃないそうじゃない! 全然そうじゃないでしょ!?

 な、なによこれ。どういう状況よこれ!? なんで私こんな、陽介と密着して……!?


「刃物持ってるときはボーッとすんなよ? あと火使ってるときも危ないから集中しとけ」

「ご、ごめん。ありがと……」

「ん」


 危ないって、こっちのほうが何倍も危ないわよ! 心臓止まるかと思った!

 暑い暑いっ! もっー、なんか急に暑くて汗かいてきちゃったじゃない!


「ま、まぁ、俺も急に手を掴んだりして危なかったな。すまん」


 少し照れくさそうにそう謝ると、陽介はすっと離れていった。

 ドキドキしすぎて死にそうだったから、離れてくれてホッとした反面、少し名残惜しかった。


 ……うん。でも今日はいい夢見られそう。眠れるかどうかちょっと怪しいけどっ!



 そんなこともありつつも無事昼食を終え、私達は再び材料を混ぜるところからマカロン作りを再開した。


「ゴムベラで空気を押し出すように……。そうそう、うまいな夏希」

「でしょ? 一体何個のチョコをだめにしたと思ってんのよ」

「……そっか。そりゃあんだけすごいチョコが作れるわけだ。すげー美味かったもんな」


 流れるように褒められて、私はまた体が熱くなるのを感じる。

 当然頑張って作ったんだから、そう言ってくれるのは嬉しいけど、不意打ちはずるいじゃない……。


「ほ、褒めすぎよ。由美ちゃんとかのほうがすごかったんじゃないの?」

「たしかに由美ちゃんのもすごかったなぁ。てかなんで夏希がそのこと知ってんだ?」

「ふーん、やっぱりもらってたんだ。そうよねぇ、彼女だったんだもんねぇ? そりゃチョコくらいもらうわよねぇ!」

「な、なんか怒ってないか? やっぱりもう別れたのにもらうのはまずかったのか……?」

「別にぃ? もらってもいいんじゃない? 由美ちゃんはより戻したいのかもしれないし」


 私が半ば八つ当たり気味にそう吐き捨てると、陽介は以外にも真剣な表情で頷いてみせた。


「そうかもな。由美ちゃんにも本命チョコだって言われたし」


 ちょっと待って何よそれ! ほ、本命? まさか陽介もそのつもりでいるわけじゃないでしょうね!?


「でも、俺は由美ちゃんとよりを戻すつもりはないんだ」


 しかし、続く陽介の言葉に私は胸を撫で下ろす。

 そして同時に少し由美ちゃんを不憫に思った。あの子はあんなにも陽介のことを好きでいて、別れた後も陽介にふさわしい女の子になるって努力しているのに。


「……どうして別れちゃったのよ」


 気がつけば、私はそんな言葉を口にしていた。

 答えは聞いたことがある。それでももう一度聞くのは、過去に聞かされた答えが真実だとは思えなかったからだ。

 真実はきっと、ユッキーが話していたところにある。私はそれを陽介の口から聞きたかった。


「またその話か。それは前にも言っただろ? 由美ちゃんのことを恋人としては見れなかったんだって」

「じゃあ聞き方変える。由美ちゃんより大事なことってなに?」


 私はそう問いかけると、陽介は口元に浮かべていた笑みをすっと引っ込め、真面目な顔をして黙り込んだ。

 そんな陽介の横顔をじっと見つめて、私は真実に指をかける。




「……当ててあげようか。それってユッキーのことでしょ」




 その横顔が少し、こわばるのが分かった。


「ちげぇよ。雪芽は関係ないって」

「……そう」


 それだけで十分だった。

 たったそれだけで、私は分かったから。


 あぁ、そうだったんだ。やっぱりそうだった。分かってたことじゃない。最初から分かってたのに、分からないふりを続けてきたんじゃない。

 ユッキーが特別だってこと、陽介にとっての大切だってこと、私にはどうすることもできないってこと。全部分かってたのに。


「夏希?」

「……なんでもないわよ。さて、随分無駄話しちゃったわね! さっさとまともな出来のマカロン作るわよ!」

「お、おう。そうだな」


 そして私は材料を混ぜる作業に戻っていく。

 陽介と他愛のない会話に花を咲かせながら、マカロン作りはつつがなく進行していく。


 でも、そうして焼き上がったマカロンはやっぱりひび割れて、見るに堪えない姿だった。

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