第133話 親友の悩みは杞憂に終わる

 教室の足元に漂う冷気は、俺のズボンの隙間から容赦なく這い上がってくる。

 寒さで薄まった感覚を確かめるように足を擦らせると、ほんの少しの温もりとともに、それが確かに俺の足である実感を得る。


 さながら冬眠した熊のように動かない俺の正面には、さながら冬眠から目覚めた虫のように忙しないやつが1人。


「べーよ、マジべーって。なぁすけっち?」

「なにもべくねぇよ。いいからそこで決死のミツバチよろしく発熱すんのやめてくれないか。耳障りだ」

「んだよ〜。相変わらず冷てぇじゃん! キンキンに冷やしたチョコより冷てぇじゃん!」


 高野が机に身を乗り出すと同時に、先程まで教室の床を揺らしていた微振動が止んだ。

 ふぅ、これで少しは静かになるな。人のすぐそばで貧乏揺すりなんてするなっての。


 今は朝のホームルームを待つ時間だ。隣りにいた雪芽は席を離れて夏希たちと話をしている。

 そこへやってきたのが、今目の前にいる高野だ。

 ていうかこいつ来るなり震えだして、うわ言のようにべーべー言い出したんだが、なんの用なんだ?


「てかすけっちめっちゃ落ち着いてんじゃん? なに、リンリンと同じタイプなん?」

「冗談でもあいつと一緒にすんなって……」

「さすがにそこまで嫌われると、俺も悲しいって思うんだけどね」

「げっ」


 嫌な意味で記憶に残る声に振り向くと、今まさに頭に浮かんだ顔がそこにあった。


「お! リンリンちすー! 今ちょうどリンリンのこと話してたんよお! これなんだっけ? う、う……、噂は心に影を指す?」

「それもあながち間違ってはないかも知れないけど、正しくは噂をすれば影が指す、だよ」

「そうそれぇ! うわ影うわ影ぇ!」


 何でも略すな。きっとそのせいで全文出てこないんだろうし。なにより馬鹿っぽく見える。

 まぁ、それがこいつの狙いかもしれんが。だとしたら俺は見事術中にまってるわけだな……。


「それで、俺はどんな噂をされてたのかな?」

「リンリンもすけっちと一緒でめちゃ落ち着いてるって話。もう来週だってのにさぁ? 二人ともマジありえんって!」

「来週? なんかあったか?」

「あぁ、もう来週か……。まぁ今年はあまり構えなくても良さそうだけど」


 どうやら広瀬には心当たりがあるようだ。

 来週だろ? 今日が7日だから……、14日か。


「あー、バレンタインか」

「そうそれぇ! 緊張しすぎて夜しか寝れねえわー」

「ははっ、健康じゃないか」

「ばっか広瀬、授業中寝れなくなるってことだろうが。よく考えろよ」

「な、なるほど……? いや待てよ、それも良いことなんじゃないのか……?」


 そうして広瀬は、授業中寝れなくなることのデメリットを黙々と考え出してしまった。

 ふはは、そのまま永遠に答えのない問いに囚われていろ、エセ優等生め。



「おっ、ダッペイ! ダッペイはどうなん!?」


 どうやらトイレから帰ってきたらしい隆平を見つけた高野は、救いを求めるかのような悲鳴にも近い声を上げた。


「え? 何の話?」

「来週バレンタインだろ? だから高野が今からソワソワしてんだとさ」

「ダッペイは俺と一緒っしょ? チョコもらえるかどうか分かんない立場っしょ?」


 何だ高野、それだと俺はもらえることが確定してるみたいに聞こえるぞ。

 まぁ、今年は自分で作って自分に渡せば確定ゲットだけどさ……。


「まぁね〜。俺も去年は一つももらえなかったしね」

「あれ? 夏希からもらわなかったのか?」

「うん、去年夏希は陽介にしか渡してないはずだよ」

「え、そうだったのか」


 てっきり隆平にも渡してるもんだとばかり。ブラックサンターくらい隆平にあげてもいいじゃないか。

 となると俺は自分で思っている以上にバレンタインに関わりがあったのか……?


「っしょ? 俺の気持ちを分かってくれんのダッペイだけだわぁ〜」

「でもさすがの俺も一週間前からソワソワしたりはしないけどなー」

「マジか!?」


 高野はショックを受けたようで、新たな同志を探すべく教室中に視線を泳がせ始めた。



 ようやく静かになるかと思ったところで、隆平がちょいちょいと俺の肩を叩いた。

 振り向くと、隆平は廊下の方に視線を投げる。どうやら話があるってことらしい。


「それで、話って?」


 隆平と連れ立って廊下に出て、俺がそう切り出すと、隆平は嬉しそうに笑った。


「話が早くて助かるよ。実はさ、最近夏希の様子がおかしいと思うんだよ」

「お前に対する態度のことか?」


 俺の言葉が核心をついていたのか、隆平は驚きを浮かべる。


「そうだけど、よく分かったなぁ。お前は絶対気づいてないと思ってたけど」

「あれだけ露骨に態度が変われば俺も気づく」

「普段からあれだけ露骨な態度示されてるのに気づかないくせして?」

「何の話だ? とにかく、夏希がお前を避けてることについてだよな」


 隆平はどこか釈然としない表情のまま頷いた。


 ちょうど週が始まった月曜日辺りから、夏希の隆平に対する態度はどこか硬い気がしていた。

 露骨に目を合わせないようにしてるし、話をするときも早口だし、そのくせ授業中とか隆平の方を気にしてるみたいだし。


「なにか言ったんじゃないか? 夏希を怒らせるようなこと」

「陽介じゃないんだからそんなことしないよ」

「それだとまるで俺が日常的に夏希を怒らせてるみたいじゃねぇか……」

「間違ってないだろ?」


 ……あながち間違いとも言い切れないな。最近良く夏希を怒らせてる気はする。


「となるとよく分からんな。詳しいやつに聞いてみるしかないか……」

「それって本人に聞くわけじゃないよね……?」

「バカ言え。本人より詳しいやつだよ」


 そいつの顔を思い浮かべた俺は、きっと渋い表情をしていることだろう。

 これから滝のように浴びせられる罵詈雑言を思えば当然だよな。だって俺はMじゃないし。





 ――――





「うわぁ……、塚田先輩、肩に虫がついてますよ。早く駆除したほうがいいと思います」

「のっけからフルスロットルだな杉山。昼休みに突然来たのは悪かったけどさ」

「悪いと思ってるなら消えてください。それが世界のためです」

「急にスケールがでかくなったな……」


 昼休みの吹奏楽部の部室で、杉山は俺の顔を見るなり話も聞かずに好き放題に喋りだす。

 俺にとってはいつも通りなのだが、隆平は曖昧な表情で固まっている。


「言っときますけど、私にとって世界とは夏希先輩のことですから!」

「すごく狭い世界だな……。まぁいいや、今日はその夏希のことで聞きたいことがあってさ」


 最近杉山と話す機会が多かったせいだろうか、少しずつ杉山の扱いに慣れてきた気がする。

 杉山もそれを悟ったのか、不服そうな顔をしている。


「そうでしょうね。でなければわざわざ罵られに来るドM変態先輩ですよ」


 罵ってる自覚はあるんだな。それなら少しは手加減してくれよ……。

 もちろん俺はMではないので、罵られて喜ぶ性癖は持ち合わせていないが、一定の層には需要ありそうだな。

 まぁ、こいつが俺以外に罵声を浴びせてるとこなんて見たこともないけど。



「話が早くて助かるよ。それで最近夏希が――」

「嫌です」

「……おい、まだ何も言ってないぞ」


「言わなくても分かります。塚田先輩が一緒にいるんだとしたら、先輩が私に聞こうとしてることは一つです。最近、夏希先輩が塚田先輩をいし――、避けてることです」


 杉山はつまらなそうな表情で、俺たちの聞こうとしていたことを言い当てる。

 マジかよ、杉山半端ないな。これはさすがの俺も、高野よろしく「べー。マジべーよ」と言わざるを得ない。

 もう夏希のことに関して言えば、エスパーと言っても過言ではないんじゃ……?


「そうなんだ。俺なにかしたのかな?」

「心当たりはあります」


 驚く俺の代わりに隆平が救いを求めて問いかけると、杉山はあっさりと原因に心当たりがあることを教えた。


「でも、先輩がいるところでは話したくありません。それではさようなら」


 しかし俺を一瞥すると、そのまま部室から追い出さんと俺の背を押し始めた。

 隆平も呆気に取られたように口をぽかんと開けている。


「ちょ、ちょっと待て! なんで俺がいるとだめなんだよ?」

「そんなことも分からないからだめなんです! いいから出っていってください! そして2度とうちの敷居をまたがないでください!」

「出禁!? 一体俺が何を――、あっ」


 俺はついには部室を追い出され、杉山はそんな俺を苛立ちを隠しもしない瞳で見下ろしたあと、勢いよくドアを締めた。



 しかし、その直後にちょうど顔が覗く程度にドアを開けると、隆平に向かって一言。


「塚田先輩、夢は見るだけ無駄ですよ」

「夢……?」


 聞き返したのは隆平なのに、杉山は鋭い目つきで俺を睨む。

 俺、ほんとに何もしてないよな……?




「夏希先輩の意思は変わりませんよ、絶対に」




 そしてもう一言隆平に告げると、今度こそドアを締めた。


「なんなんだよ、杉山のやつ……。俺そんなに嫌われるようなことしたのか?」

「……あぁ、そういうことかぁ」


 ぼやく俺の隣で、隆平はなにか分かったような声を上げる。

 見れば納得した表情で小さく頷いていた。


「えっ、やっぱ俺なにかしちゃったのか……?」

「そうじゃなくて夏希のこと。それにしても、夢を見るだけ無駄かぁ。分かってたけど辛辣なこと言うなぁ」


 辛辣なことと言う割には、隆平は嬉しそうな顔をしていた。


「どういうことだ? 俺にも教えてくれよ」

「うーん、さすがにちょっと難しいなぁ」

「お前まで杉山みたいなこと言いやがって……」

「陽介だから言えないんだよ」


 それがなんでなのかを知りたいんだが、聞いてもさっきと同じ答えが返ってくるだけだろう。

 堂々巡りか。気にするだけ無駄ってことかね。


「……うん、でもそうだ。やっぱ夏希はそうでなきゃ」


 何が何だか分からないが、隆平の表情はなんだかとてもスッキリしていて、嬉しそうだった。

 ならまぁいいか。わざわざ杉山に罵られに来たかいがあった、……のかな。


「もう解決ってことでいいのか?」

「うん、ありがとう陽介。お前のおかげで助かった」

「何もしてないけど、どういたしまして」


 微笑む隆平は変わらず嬉しそうに見える。

 だけど一瞬、ほんの一瞬だけ、悲しそうに見えた気がした。

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