第73話 男の約束は言葉に頼らずとも

 ※このお話以降はR15未満の軽度な性的描写が含まれます。ご覧になる際はご注意ください。





――――――――




 

 疲れ果て、泥のように眠った翌朝。お兄ちゃんは珍しく時間どおりに起きてきた。

 そのことを指摘すると、妹の大変なときに寝坊なんてしないと言っていた。

 まぁ、嬉しくない訳じゃないけどさ。そういう気概はもっと別のとことに使った方がいいと思う。



 そんなことを思いながら駅に向かうと、あの猫は駅舎の前にゴロンと寝転んでいた。


「お、ちゃんと約束通り来たにゃ」

「来たくはなかったけどね」

「まあそう言うにゃって。俺も昨日は大変だったんだよ。だから今日はお互いの誤解を晴らそうじゃにゃいか」


 そう言って仰向けに転がる猫。

 一体何のことだとお兄ちゃんと顔を見合わせると、猫は焦れたような声で言った。


「ほれっ、俺がかわいくて無害にゃ猫様であることを証明してやるから、好きにゃだけにゃでていいぞ?」


 撫でる? つまりモフモフしていいってことだよね。

 よく見ればこの猫、おなかもプニプニそうだし、肉球もピンクでかわいい。

 毛並みもきれいだからきっとすごいモフモフだ……。


 あたしが思わず誘惑に負けて手を伸ばしかけたところで、なんだか変な視線を感じた。

 見ると、エロ猫がなんか鼻息荒くあたしが撫でるのを待っていた。


「どうした? この猫なんか言ってるのか?」


 ぴたりと動かなくなってしまったあたしを見て、お兄ちゃんは怪訝そうに声をかける。


 ……そうだ、いいことを思いついた。



「うん。この猫、撫でてほしいんだってさ。

「うん? そうなのか。よーし分かったぞ」

「え、ちょ、待って! 俺は男ににゃでられる趣味はにゃ――」


 エロ猫はそう抗議するけど、当然その声はお兄ちゃんには聞こえてない。

 そしてあたしも通訳してやる気もない。エロ猫にはお仕置きが必要みたいだし。


「にゃぁんっ! そ、そんにゃに荒っぽくにゃでちゃダメぇ! んにゃあっ! そこぉ!」

「おぉ、なんか気持ちよさそう?」

「……うん、まぁ気持ちよさそうなんだけどさ」

「そうか? じゃあこことかどうだ?」

「ふにゃん!? そ、そんにゃとこ――、うにゃぁぁああんッ!」



 そうしてお兄ちゃんがエロ猫をひとしきり撫で終わるころには、エロ猫は息も絶え絶え、ぐったりとしていた。


「ふにゃぁ……。にゃんか、新しい世界の扉、ひらいちゃったかも」


 でもその表情は恍惚としていた。

 ……やっぱりこの猫、キモい。


 お兄ちゃんは手を洗ってくるとトイレに行ってしまって、今はエロ猫とあたしだけだ。

 お兄ちゃん、早く戻ってきて……。



「で、お前は一体何がしたいわけ?」

「……はっ! そうだったそうだった。俺はこんにゃところで気持ちよくにゃってる場合じゃにゃいんだった」


 新しい世界から帰ってきたエロ猫は、思い出したようにそう言うと、一つ咳払いをしてたたずまいを正した。

 そしてやけに真剣な表情であたしに語りかける。


「いいか晴にゃ、俺はお前に危害を加えるつもりはにゃい」

「でもさっき、あたしに撫でさせて変なことしようとしてたでしょ」

「いや、よく考えたらお前みたいにゃちんちくりんににゃでられても、にゃにも嬉しくにゃかったわ。もうしにゃい」

「そこはかとなくムカつくな、この猫」


 真剣な表情なのが余計にムカつくわ。


「とにかく、俺はお前に手を出したりしにゃいし、危険にゃ目にも合わせにゃい。誓ってもいい」


 そう言うエロ猫の目は真剣で、その表情はなんだか少し焦っているようにも見えた。

 何を焦ることがあるんだろう。昨日言ってた大事な用事っていうのが関係してるのかな?

 あたしの協力が必要とか何とか言ってたけど……。


「どうだ、話はまとまったか?」


 あたしが考えを巡らせて黙り込んでいると、手を洗いに行っていたお兄ちゃんが帰ってきた。

 まるで猫が喋るのが当たり前みたいに受け入れているお兄ちゃんを見ていると、こうして未だそのことを信じられないあたしが馬鹿みたいに思えてくる。

 いや、あたしがバカなんじゃなくて、バカ兄貴が特別バカなだけなんだと信じたい……。



 あたしがエロ猫の話した内容を要約して伝えると、お兄ちゃんは少し考えた後、エロ猫の前にしゃがみ込んだ。


「にゃ、にゃんだ? もうにゃでるのは終わりだぞ?」

「お前、本当に晴奈には危害を加えないんだな?」


 一瞬また撫でられるのかと身を引いたエロ猫は、お兄ちゃんの言葉に、その期待に膨らむ瞳を真剣なものに変えた。


「もちろん。にゃにも危険なことはさせにゃいし、嫌がることもにゃにもしにゃい」


 そう言ったエロ猫の瞳を、お兄ちゃんはじっと見つめていた。

 なんだか随分と真剣だ。鬼気迫ると言ってもいいかもしれない。


 ……って、そうだった。通訳しないとお兄ちゃんにはエロ猫の言っていること伝わらないじゃん。


「お兄ちゃん、えっとね――」

「うん、分かった」

「……え?」


 お兄ちゃんはあたしが通訳する前にエロ猫に向かって頷き、右の拳を差し出した。




「じゃあ男の約束だ。もし破ったら死ぬより恐ろしい目にあわせてやるから、覚悟しとけよ?」


「分かった。俺は約束は守る猫だからにゃ」




 そしてエロ猫はお兄ちゃんの拳に、自分の手をポンと当てた。

 それから二人して笑いあう。その様子はまるで言葉が通じているように見えた。


「え、え? お兄ちゃんこの猫の言葉分かるの!?」


 あたしが驚き声をかけると、お兄ちゃんは楽しそうに振り返って、さも当然のように言い放つ。


「いんや、何にも分からん。でもこいつの目を見れば、大体言いたいことは分かる。今も約束は守るって言ってくれたんだろ?」

「まぁ、守るとは言ってたけど……」

「じゃあ問題ないな。これから仲良くしてやれ」

「えぇ!? なにそれぇ!」



 こうして頼みの綱だったお兄ちゃんは、なんだかエロ猫と仲良くなってしまったのだった。

 あわよくば追っ払ってもらおうと思ってたのに、これじゃあ思惑がまるで外れてるじゃん……。


 でもまぁ、猫風情に何かできるわけでもないだろうし、仲良くとはいかなくても話を聞いてやるくらいはしてやってもいいかな。

 そう思えるくらいには、あたしもこのバカ二人に侵されてきているのだった。





 ――――





 それから、お兄ちゃんは由美を待って、一緒に街に出かけて行った。

 由美は最初あたしの姿を目にして驚いていたけど、お兄ちゃんといられるのが楽しいみたいで、すぐに気にならなくなったみたい。


 あたしはそんな由美の態度や、楽しそうな二人の姿に釈然としない自分を感じつつも、二人の楽しい時間に水を差しちゃいけないし、邪魔者扱いされたくないから黙っていた。



 それほど待つことなく電車はやって来て、二人を見送った。今はあたしとエロ猫の二人で駅のベンチに座っている。


 今頃由美のテンションは最高潮だろうな。洋服も気合い入れてたし、あたしと二人でいる時とは違う顔してた。


「どうした? にゃにか気に入らにゃいことでもあったか?」

「……別に」


 エロ猫はそんなあたしの心の中を見たかのように、そう言った。

 猫の癖に、人間みたいな事しやがって。



「しかし由美はいいにゃぁ。おっぱいも大きいし、パンツも黒だったし、えっちくて俺の好みだにゃ」

「お兄ちゃんに言いつけるよ」

「わ、悪かったよ……。まぁ、晴にゃが嫉妬するのも分かる気がするにゃ」

「別にしてないし」

「そうにゃのか?」

「そうなの」


 それきりエロ猫は何も言わなかった。

 そのことがなんだか気を使われているようで、なまいきな猫だと思った。



「そういえばあんたの名前、まだ聞いてなかった」

「俺のにゃ前? おかしにゃことを聞くにゃぁ、晴にゃは。野良猫ににゃ前があるわけにゃいだろ」

「じゃあエロ猫って呼ぶわ」

「それはちょっと勘弁してほしいんだけど……」


 苦いものでも食べたかのような顔をするエロ猫を見て、あたしはおかしくなって噴き出した。


「にゃに笑ってるんだよ」

「だって、ちょー不細工なんだもんっ! ぷははっ、変なの!」


 エロ猫は何とも言えない表情で笑われていたが、しばらくすると柔らかく笑って呟いた。


「でも、ようやく笑ったにゃ」

「え?」

「おんにゃは愛嬌だぞ。笑ってた方がにゃん倍も魅力的に見える」

「猫の癖に偉そうなんだけど」

「にゃははっ、そういえば俺は猫だったにゃ」


 まるで自分が猫であることを忘れてしまったかのようなそのセリフに、あたしは小さいころに読んだ童話を思い出した。

 悪い魔女に蛙にされた王子様の話。エロ猫も、もしかしたら元は人間だったりして。

 そんな妄想をしてしまうほどに、エロ猫は人間らしかった。



「でも猫にゃらいいこともある。こうして下からおんにゃの子のスカートのにゃかを覗き放題だし、抱っこしてもらえばおっぱいも触り放題。体をにゃめても怒られにゃいし。にゃふふ……」

「うわ、キモッ! お兄ちゃんに電話しよ」

「わー! 待て待てっ、冗談、冗談だって!」

「……もしかして大事な用事って、そのことじゃないよね」

「違う違う! けっしてそのようにゃことは……、にゃいにゃん?」


 あたしは無言でスマホを手に取る。

 これは絶対にすぐ約束なんて破るやつだ。そもそも猫と約束するとか、バカ兄貴も相当だな。


「あっー! 違う違う! ほんとに違うからっ! そんにゃエッチにゃ目的でここまで来たわけじゃにゃいから!」

「じゃあなんなのさ」


 あたしがスマホをいじる手を止めてエロ猫を見ると、エロ猫は気まずそうに目をそらす。


「そ、それは言えにゃい」

「はいじゃあ――」

「分かった分かった! ちょっとだけにゃ? ほんの先っちょだけ教えてやるから、にゃ?」

「次やったらマジで言いつけるから」

「はい。すみませんでした」


 ホントにこのエロ猫のそばにいるの、気持ち悪いんだけど。

 一秒でも早く別れたい。やっぱお兄ちゃんと一緒にいるときだけ会うようにすればよかったかなぁ。エロ猫の発言の端々から身の危険を感じるし。



「真面目にゃはにゃし、詳しいことははにゃせにゃいんだ。上からの命令でにゃ」

「じゃあ話せるとこだけ話して」

「うーん、そうだにゃぁ……。俺はある人を観察・報告するためにこっちに来たんだ。あの人も心配性っていうか、過保護っていうか」

「こっちに来たって、あんた随分前からこの駅に居ついてるんでしょ? その大事な用事っていうのはいつ終わるの?」


 あたしがそう言うと、エロ猫は一瞬思い出したような顔をして、誤魔化すように言葉を並べた。


「ま、まぁ、多分もうすぐだ。あと1ヵ月もすれば終わるんじゃにゃいかにゃぁ?」

「ほんとかよ」

「ほんとだって! ハロウィンでおんにゃの子たちときゃっきゃうふふした後に帰る予定だからにゃ!」

「お兄ちゃん」

「い、今のはギリギリセーフだろ!?」



 そんな風に騒いでいると、あたしのおなかの虫がぐぅと鳴った。

 そう言えばもうお昼はとっくに過ぎてるんだっけ。あたしも家に帰って何か食べよう。


「じゃああたしはもう帰るから。ついてこないでよね」

「にゃんだ、もう帰るのか。じゃあまた今度にゃ」

「できればもう二度と会いたくないけどね」


 そうしてあたしはエロ猫と別れた。


 帰り道、ようやく解放されたあたしは、清々しい秋の空気を胸いっぱい吸い込む。

 そうしてあのエロ猫のことを頭から追い出そうとしたけど、そう簡単にはいなくなってくれなかった。


 名前も、目的も、どうして喋れるのかも、何にも分かんなかった。

 分かったのは、あいつがエロいことと、まぁ、少なくとも約束を守る意思があるってことくらい。

 意思があるだけで守れているかは別だけど。隙あらばパンツ覗こうとするし。



 あたしは今日ズボンだから心配ないけど、あのエロ猫、由美のスカートの中を覗こうと必死だった。

 阻止しようとしたけど、結局できなかったんだよね。すまん、由美。


 ……ていうか、今日の由美の下着、黒って言ってたよね。マジなのか……?

 中学生で黒って、あたしもそれくらいした方がいいってことなのかな? いやでもさすがに……。


 エロ猫のせいでくだらない思考に陥りそうになったあたしは、もう一度大きく息を吸った。

 少しひんやりした空気が、あたしの中の淀んだ考えを洗い流してくれる気がした。



 さて、お兄ちゃんが帰ってきたらエロ猫のことを言いつけてやろう。


 あの場ではお兄ちゃんと由美の邪魔しちゃ悪いと思って、電話をする振りだけしたけど、報告しないと約束したわけじゃない。

 今日のエロ猫の所業はすべて、お兄ちゃんに言いつけることにしよう。そしてなでなでの刑に処してもらおう。


 そんなことを考えて、あたしは微笑む。

 きっとその笑顔は邪悪に歪んでいるんだろうなと、そんなことを思った。

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