第49話 占い師の不安はコーヒーに溶けて
一口飲んだコーヒーは、いつもより少し苦く感じた。
そのことに顔をしかめると、ソーサーにカップを戻す。
カチャン、と高い音が、日曜日の昼下がりだというのに客の居ない店内に響く。
何となしに見た腕時計の時間は13時20分。もうすぐ柳澤君が来る時間だ。
こうして私が柳澤君と面会できるということは、彼の陥っていた夏休みのループは終わったとみるべきなのだろう。
何事もなく普通に8月23日を超えると、本当に彼の夏休みが繰り返していたのか疑わしく思えてくるが、それだけはないと彼の目が物語っていた。
私から見れば普通にこの世界は続いていて、何の変哲もない日常の延長線上にいる。
ループしていたなんて嘘なんですと彼から言われたら、割とすんなり受け入れてしまいそうなくらい普通の日常だった。
もう一度コーヒーを口に運ぶ。
やっぱりちょっと苦い。
私に会いに来た初日の彼の目、あれは一度何かを諦めて、それでも希望に縋りつこうと必死にあがいている者の目だった。
最初は入念に私の周りを嗅ぎまわっているストーカーの類かと思ったが、ただ真剣な様子で相談をしてくるだけで、手を出すようなことは何もなかった。
試しに私の過去のことか、私に最近あったことについて聞いてみても、彼は首をかしげるだけで答えられなかった。
ただ私という存在を知っていて、私が占いをできるということ、恋占いにはまっているということくらいしか知らなかった。
余りに歪に私の情報を持っている彼の話は、およそ信じられるものではなかったが、私自身過去に不思議な体験をしたこともある。真っ向から否定する話でもなかった。
世界がループすることに比べたら大したことじゃなかったけど、あれも十分不思議な体験だったな。
――もう11周目なんです。
ふと、そう言った時の柳澤君の顔を思い出した。
その顔は疲れ切っていて、そうして微笑みを浮かべていることの方が不自然なくらいだった。
話を聞けば彼は一度死を選ぶほどに追い詰められたというし、そんなどん底から、勇気づけてくれた友人がいたとはいえ這い上がってきた。
一体どんな悲しみを背負えばあの歳であんな目ができるんだろう。
私が手を貸さなければ、彼は近いうちに壊れてしまうかもしれない。そんな直感が働いたのを覚えている。
直感とか、非論理的なものはあまり好きではないのだけれど、あのときばかりは素直に従った。そうさせるだけの切迫感が、柳澤君にはあった。
そんな彼が、昨日会った時は別人のように穏やかな表情で、隣にいる雪芽さんを優しげな瞳で見守っていた。
その表情が、柳澤君を苦しめていた終わらない夏休みが終わった事実を物語っていた。
……でも――
「飯島さん。お待たせしました」
私は思考を中断して顔を上げる。
目の前には落ち着いた雰囲気の少年が一人。柳澤君だった。
「それほど待ってはいませんよ。コーヒーでいいですか?」
「はい、いつもありがとうございます」
そう言って微笑む柳澤君に、私も思わず口元が緩むのを感じていた。
そもそも男性と親しくなる機会もあまりない私が、こんな男子高校生と一緒にお茶していていいのかな? なんだか犯罪臭がするような……。
「飯島さんは何飲まれてるんですか?」
「え? あぁ、いつものブレンドコーヒーですよ」
私は緩んだ口元を引き締めなおし、冷静に答える。
柳澤君から見たら私は大人の女性。それらしく振る舞わなくては。
「……コーヒー、お好きなんですか?」
「まぁ、特別好きってわけではないですが、どうしてそんなことを?」
私の質問に柳澤君は照れたように笑い、頭を掻く。
「いやぁ、飯島さんにはお世話になったので、なにかお礼をと思って」
「お礼だなんて。私は大したことをしてないので、そんなもの貰ってはむしろ肩身が狭いです」
「そんなことない! あなたの存在がどれだけ俺の支えになったことか!」
そう言って身を乗り出す柳澤君。
一気に縮まった距離に思わず身を引いてしまったが、彼はそれを気にしてない様子。
「本当に、私からしたら何事もなく時が過ぎて行っているだけなので、そう言われてもあまりピンと来ないんですよ」
「あっ……、そうか。俺は何度も飯島さんに会ってるけど、飯島さんからしたら俺とは一月前に会ったばかりですもんね」
朗らかに笑うようになった柳澤君を見て、本来の彼はこんな風に笑ったのだろうか、なんて考えていた。
マスターが淹れたてのコーヒーを柳澤君の前に置く。
「ブレンドコーヒーでございます」
静かな声でそう言い、またカウンターの方へと戻っていく。
私はここのそんな静けさが気に入っている。
「それで、飯島さんは何が好きなんですか?」
柳澤君はコーヒーを一口すすり、熱さに顔をしかめた後、そう尋ねた。
「お礼のことはまた後でいいでしょう。今はもっと大事なことがありますから」
「あ、お話があるって言ってましたもんね。何の話ですか?」
今日柳澤君が私を訪ねてきたのは、私が呼んだからに他ならない。
ループのことについて話しておきたいことがあったのだ。
あまり言いたくはないのだが、柳澤君にとっても必要なことだ。
私は意を決して口を開いた。
「それなんですが、柳澤君は無事夏休みを抜け出した、ということでいいんですよね?」
「そうですね。飯島さんのお陰で無事に雪芽と一緒に学校に通えてます! まだあまり実感がわかないですけど」
「それはよかった」
そう言って一呼吸置くためにコーヒーを一口。
……やっぱりちょっと苦い。
「ですが、まだ安心できないかもしれません」
「……どういうことですか?」
笑みを湛えていた柳澤君の表情が曇る。
不安げに、彼の瞳が揺れる。
「ループは確かに抜け出しました。しかし、これで再発しないとも限らないということです」
「また、何かの拍子にループが始まると……?」
私は頷く。
柳澤君が幸せそうな今この時に、こんな話をするべきではないのかもしれない。そんな考えが一瞬頭をよぎる。
「どうしてループが始まったのか、柳澤君は理解していますか?」
「えっと……、雪芽が死んでしまったから?」
「結果から見ればそうかもしれません。しかし、なぜ雪芽さんが亡くなるとループが始まるんでしょう?」
「それは……」
この一連のループ現象には謎が多すぎる。
まず、ループの始まりと終わり。この原因が不明だ。
雪芽さんの生死が関係しているとしたら、なぜ雪芽さんが亡くなった時点で時間が巻き戻らなかったのか?
次に柳澤君にだけ記憶があること。
もし、雪芽さんを死から救うことがループを抜ける条件だったとしても、なぜ柳澤君にだけ記憶がある必要があるのか?
次に雪芽さんの死。
彼女の手相からは死相が見えていた。聞いた話によると白血病とのことなので、運命で定められた死だったのだろう。それを一介の高校生が救えるはずがない。
だが、現実は違った。なぜか雪芽さんの寿命は延び、死相は消えた。なぜ?
このように、わからないことを上げればきりがない。確かにループという現象自体おかしなものなのだから、わからないことだらけでも仕方ないとは思う。
「う~ん……、確かにそう聞くといろいろ謎のままですね」
私の話に首をひねる柳澤君。ただ、しばらく悩んだ後に首を横に振った。
「だめです。俺にはわかりません」
「残念ながら私にもわかりません……。ただ、この謎を解き明かさない限りは柳澤君に真の平穏は戻ってこないと思います」
「条件が分からないとループの回避も、万が一入った場合の脱出法も分からないってことですよね?」
「その通りです」
へ~、さすがに頭は回るんだ。今まで一人であれこれ試行錯誤していただけはある。
「でも、飯島さん言ってましたよね? 雪芽の寿命を延ばすのは俺と雪芽の親密度だって。雪芽は俺のことを親友だと言ってくれました。だから死を免れたんじゃ……? あっ、でもそれだと……」
「そうです。それだと、どうして柳澤君と仲良くなることが寿命を延ばすことにつながるのか? そこが謎になってきます」
「そうか……」
「そこで提案がありあます」
柳澤君が顔を上げる。その表情があどけなくて、可愛いと思ってしまった。
……いけないいけない。しっかりしなさい理恵。年下男子の可愛さに当てられてる場合じゃないんだから。
「これからも、今まで柳澤君がやってきたような検証をやっていきたいと思うのです。もちろん、柳澤君が嫌なら構いませんが、どうでしょうか?」
「それは、雪芽が死んだりとか、そういうことはないですよね?」
「それはありません。お二人の日常に支障が出ないように、この一連のループ事件を解決して行こう。そういう提案です」
「そういうことなら、願ったりですよ! これからもよろしくお願いしますね、飯島さん!」
「はい」
自分が微笑んでいるのが分かる。
柳澤君といる時はこうやって自然と笑みがこぼれる。彼の笑顔にはそういった力があるのかもしれない。
「それでは、現在までの仮説を共有しておきましょう」
それから私は柳澤君の話や、昨日見た雪芽さんと柳澤君の手相占いから得た情報をもとに組み立てた仮説を話した。
仮説として、雪芽さんが死んでしまうことがループの発端であるとする。また、ループを抜ける条件は雪芽さんが時間が巻き戻る時点で生存していることとする。
雪芽さんの寿命を延ばしているのは柳澤君との関係によるものとする。
現時点ではこんなところだ。
「それって、俺が雪芽と喧嘩したりしたら、また雪芽は死んでしまうってことですか?」
「それはわかりませんが、喧嘩程度では問題ないかと。絶交とか、そこまでいかない限りは。ひとまずは普通に生活していても問題ないかと思いますよ」
「そう、ですか……」
ちょっと不安そう。余計なことをしちゃったかな。
でも、また次があったら、今度こそ柳澤君は壊れてしまう。あれだけのことがあって傷を抱えていないわけがない。そこを再び抉られたとき、彼の心は限界を超えるだろう。
だから、事前にあり得るかもしれないという心構えを持っていた方がいいのだ。
「頭の片隅には置いておきます」
「それがいいでしょう」
「それで、この話はもう終わりですか?」
柳澤君は再び微笑みを湛えると、そう言った。
なんだろう。私の話がつまらなかったとかかな? 柳澤君にも必要なことなのに……。
「そうですが、ちゃんと私の話を聞いていましたか?」
「聞いてましたよ。それより、飯島さんの好きなものの話の続きです! お礼をさせてください」
「い、いや、それはいいでしょう。お礼なんて高校生の君に何ができるわけでもないでしょうに」
流そうとしていた話題を持ち出してくる柳澤君に、思わず動揺してしまった。
お礼、と言われても、高校生に何か買わせるわけにもいかないし。
若い男の子とどこかへ遊びに行くのは魅力的ではあるのだけれど、それだと売春行為を強要しているような気が……。
「俺にできることなら何でもしますよ! というか何かさせてもらわないと俺が嫌なんです」
な、なんでも……? いや、落ち着きなさい理恵、相手は未成年。お酒に付き合ってもらうとかは無理だから。
優しい男性と一緒にお酒を飲んだり、落ち着いた雰囲気の中に身を置くのは私の理想とするところではあるけれど、彼はまだ高校生。飲酒させたら犯罪者になってしまう。
そう、結局のところ私から何かを要求することは、ほとんどの場合犯罪行為になってしまう。お礼をしてもらうのも楽じゃない。
でも……。
正面では柳澤君がつぶらな瞳で私を見つめている。
これは何か言うまで帰ってくれない気がする……。
「そうですね……。時々今日みたいに一緒にお茶をしてくれればそれでいいです」
「お茶? そんなの今まで何回もしてきたじゃないですか」
「私はそんなにありません。それに、若い男の子といられるだけで刺激が得られていいですから」
「そうですか……? じゃあ、今度はまた違ったお店でお茶したりしましょうよ。あまり高いところだと俺がお金払えなくなるのでダメですけど」
「そこはほら、私が払いますから大丈夫ですよ。柳澤君がどんな所に連れて行ってくれるのか、楽しみにしてますね」
「いやさすがにおごってもらってばかりはちょっと……」
柳澤君はそう言ってコーヒーを飲む。苦々しい表情は、きっとコーヒーのせいだけではないのだろう。
私もつられて一口飲んでみた。
あれ、さっきより苦くない……?
不思議に思いつつ、もう一口すすってみた。うん、やっぱりいつものコーヒーだ。なんでだろう。
その疑問は、未成年の男の子をお茶に誘うのは犯罪にならないのだろうかという不安に上書きされて、すっと消えてしまったのだった。
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