第4話

 ケイコが陸上部に正式に入部をした理由は、体力強化が目的だった。本格的な練習をして、大会にも参加をする。人前で走ることは、度胸がつく。中学の部活と違い、高校ではテレビ中継も多いし、観客だって倍増だ。学生っていうのは、案外に時間があるんだ。勉強をして、本気で部活に打ち込んでもまだ時間はある。バンドの練習にも時間は充分に裂けたんだよ。

 短歌部に入ったカナエは、言葉の勉強をするのが目的なんだって最初は思った。作詞に興味があるからこその短歌なんだってな。しかしそうじゃなかったんだ。カナエは、短歌の中のリズムを体内に吸収しようとしていたんだよ。

 ヨシオが放送部の部長になったのは、音楽の幅を広げるためだ。校内放送っていうのは大抵が流行歌を流すんだよな。けれどそれって、退屈だろ? この世界には何十億っていう数の曲があるんだ。ヨシオは部長の権限を使って、様々な音楽を集めていたんだよ。

 ケンジの目的は単純だ。聞き屋とあの人と一緒の時間を過ごせば、それだけで色々なことを吸収できるっていうもんだからな。

 俺はもっと単純で、楽器を手に入れるためにはバイトで金を稼ぐしかなかったからだ。他の連中と違って、親が金を出してくれないのは分かっていたからな。

 俺は一ヶ月間分のバイト代を頭金にベースを手に入れた。一年間のローンだったが、かなりきつかったよ。バイトをしながら楽器の練習をするのは、肉体的にきつかった。俺は馬鹿だからさ、初めての楽器だっていうのに、あまりにも高価な品物を買ってしまったんだ。

 俺は特に演奏が上手ってわけでもない。当然だよな。ベースを始めたのは高校一年の夏だったんだから。それ以前に真剣に楽器を触ったことなんてない。っていうか、初めてベースを触ったのが、店頭でだったんだ。俺たちは誰がどの楽器を担当するかを話し合った。と言ってもまぁ、ヨシオが主体となって自然な形で決まっていったんだけどな。

 ケンジに楽器は似合わないよな。ヨシオがそう言うと、四人全員が頷いた。僕は鍵盤が得意だし、似合っているでしょ? そう言って笑顔を見せた。ドラムはやっぱり・・・・ とヨシオが言いかけると、ケイコが口を挟んだ。私じゃダメかな? ヨシオはすぐに、そう言うと思ったんだ。そう言ったよ。

 ケイコはパワフルだからな。きっと格好いいドラマーになるよ。俺がそう言った。するとヨシオが、最近では女の人のドラマーも多いんだよ。身体が小さくて細身でも、物凄くパワーがあるんだよ。それに加えて女の人特有の繊細さも兼ね備えているからね。まさにケイコ向きだよ。ヨシオのそんな言葉に、俺が失言する。

 ケイコのパワーはゴリラ並みだけどな。

 パシッと頭を引っ叩かれたよ。


 タケシにはベースがいいんじゃないかな? ベースとドラムって夫婦の関係性だからさ、二人にはお似合いだよ。ヨシオのそんな言葉に、冗談じゃないよ! と俺とケイコの言葉が重なった。

 まぁ、この二人は夫婦というよりは漫才だな。ケンジがそう言うと、カナエが口を挟んだ。夫婦漫才かな? その言葉を受けて、俺とケイコの言葉が再び重なった。なんでそうなるんだよ!

 やっぱり二人はいいパートナーになれるよ。それにさ、タケシはこの中で一番背が高いだろ? 指も細くて長いしさ、ベースが一番様になるんだよ。

 そんなもんか? まぁ、俺は楽しければなんでもいいよ。そう答えたよ。するとヨシオはこう言ったんだ。僕の意見ではあるけどさ、ベースが一番楽しいよ。ちょっと地味だとか言う奴もいるんだけどさ、そんなの嘘だよ。なんでも許される自由な楽器だって僕は思うよ。

 ヨシオが言う自由な楽器っていう言葉が俺をその気にさせたのは言うまでもないだろ?

 それじゃあ私がギター? カナエがそう言った。ヨシオは真剣な表情でカナエを見つめて頷いた。不安そうな声を出すカナエに、その場の空気が静まっていたよ。俺もヨシオも、カナエが不満を口にするんじゃないかって感じていたんだ。ケンジとケイコはなんだかニヤニヤしていたけれど、その理由はすぐに分かったよ。

 本当に? すっごく嬉しい! ほんの少しの沈黙の後、カナエは笑顔を弾けさせた。私さ、ずっとギターに憧れていたんだ。いつか弾いてみたいなって、ずっと思っていたの。私のお父さん、学生の頃ギター弾いていたんだよね。家の押入れには今でもギターがあるんだよ。ってそんなことみんなも知ってるか? とにかく私、ギターが弾けてすっごく嬉しい!

 そういえば、カナエの家にはもう一本のギターも置いてあったなと思い出したよ。プラスティック製のアンパンマンモデルだ。

 こうしてそれぞれのパートが決まった。


 ヨシオの家にはドラムが置いてあった。父親が買った物だというが、ほとんど使用していないと言っていた。今ではケイコの家にある。ケイコの家はヨシオの家ほど大きくはないが、父親の趣味である映画鑑賞のための地下室があり、そこに置かれているんだ。

 楽器を持っていないのは俺だけだった。ヨシオの家にもカナエの家にも、ベースはなかった。仕方なしに俺は、四人を引き連れて楽器屋に行ったんだ。そしてまずは手頃な価格のベースを試奏した。俺としては、それでも満足だったんだ。そのまま会計をすればよかったとも思うが、今のベースには満足もしている。きっとだが、一生物を手に入れたとの実感があるんだ。

 俺がベースの音を出して楽しんでいると、ケンジが店員に店で一番のオススメは? と尋ねたんだ。予算は無限だよ。なんて付け加えてね。

 その店員が持ってきたベースは、真ん中に浮かぶ黒い楕円形が特徴的だった。木目が綺麗で、手に持つととてもしっくりとくる。弦を弾くと、その音に衝撃を感じた。その前に手にしていた安物とはまるで違う重みのある音が胸に響いた。

 物凄くいい楽器だって感じたよ。値段を聞いても、驚くほどの高値ではなかった。まぁ、最初に手にしたのとは十倍近い差があったんだけど、それ以上の価値を感じられたよ。

 けれど俺には、なんだかしっくりとこない点が一つあった。立ち上がってその姿を鏡で見たけれど、俺らしくないっていうのが素直な感想だったんだ。ケンジたちも揃って微妙な顔を俺に向けていた。

 タケシにはさ、こっちの方が似合うんじゃない? そう言ってケイコが一つのベースを指差した。同じような木目調ではあったけれど、色の濃さはもっと薄く、その形はまるで違っていた。似ている部分もなくはないが、抱えたときの胸に飛び込む角の形が印象的で、抑えた丸みも好印象だった。俺はその見た目だけで惚れていたよ。俺にとってはだが、音が想像できる見た目をしていたのは、そいつ一つだけだったんだ。

 手に持った感じも最高だった。しっくりと来るんだよな。ネックは手に、ボディは身体に馴染む。立ち姿も完璧だった。ケンジたちだけでなく、店員でさえ感慨のため息をこぼしていた。

 音を鳴らすと、俺の鼓動が喜んだんだ。楽しい音を出す楽器なんだ。俺の感情が、もろに伝わるんだよ。こんな音がするなんて私も知りませんでしたよと、店員が言う。俺も買おうかななんて呟きを漏らしていたよ。

 買うしかないでしょ。そう言ったのはヨシオだった。そうだよなぁ・・・・ 俺の言葉だ。

 結局俺は、その場でローンを組んだ。未成年者は親の承諾が必要だと言われ、電話で母を説得した。案外に話が分かる親で助かるよ。まぁ、金は全部俺が払うんだけどな。少しくらい助けてくれてもいいと思うんだが、まぁ仕方がないな。俺の家はあまり金に余裕がないんだ。

 こんなことをここで話すのは恥ずかしいんだが、俺はバイトを始めてからお小遣いを貰っていない。もちろん、俺から拒否をするはずはない。アルバイトをしているんだから、自分のことは自分でしなさいよ。本当なら食費を払って欲しいくらいなんだからね。そう言われてもいる。


 俺たちがバンドを結成したのは、夏休み前だったが、本格的に全員が揃って練習をするようになったのは夏休み後だった。ケンジは文化祭に出ようと考えていたようだが、軽音部以外は出られないと言われたんだ。正直俺は、興味が湧かなかった。

 長髪男は、先輩たちと共に文化祭でライヴデビューをしている。あいつはギターを弾き、コーラスを担当していた。

 俺は最後まで、あいつらの演奏に耐えたよ。言っちゃ悪いけど、予想通りだった。コピーバンドだって考えればあんなもんなんだよな。そう言ったケンジは意外なほどに楽しんでいた。

 確かにそうなんだよ。どんなに上辺だけでつまらない音楽でも、そもそも音楽っていうのは楽しいんだよ。本当の意味でもつまらない音楽なんてないんだ。ただ単純に、それ以上に楽しい音楽を知っているから、つまらなく感じるんだよ。

 ケンジは凄いよな。単純に音楽を楽しむことができるんだ。あの人の音楽を聴いた後でさえ。

 俺たちの練習場所は、ケイコの家の地下室だよ。ちょっと狭いが金もかからないし、時間制限はないし、腹が減ればケイコのお母さんの手料理が食べられる。文句は一つもなかった。

 とは言っても、一つ大きな問題があったんだ。ドラムの音は、思いの外大きいんだ。アンプ無しの生音では、演奏が成り立たない。

 とは言ってもさ、ケンジは化け物だって証明された。ケンジはマイクなんてなくても、ドラムの音に負けなかった。単純な大声ってわけじゃない。通りのある声だったんだ。

 バンドって、以外に金がかかるんだよな。俺は必死にバイトをしてアンプを買ったよ。シールドを買ったり、張り替え用の弦を買ったり、練習場所に金がかからなくて助かったよ。

 俺たちの練習は、初めからオリジナルだった。古い曲の真似をするのも楽しいのかもとは思ったよ。俺はヨシオから色んな曲を聴かされていたから、興味はあったよ。家ではそんな曲を聴きながら、勝手に真似をして楽しんでいたんだ。

 俺たちの曲は、自由に生まれる。みんなで集まり、適当に演奏をする。細かい指示はヨシオがしてくれる。歌詞はケンジが書くが、そのメロディはカナエが担当していた。カナエのギターは、もう一つの歌なんだ。

 冬休み前には、十曲のオリジナルが完成していた。そろそろどこかでライヴをしようって話で盛り上がった。けれど俺たちには、思いもよらない敵が存在していたんだ。俺は全く気がついていなかったよ。というかむしろ、ずっと味方だと感じていた。


 話は少し遡る。ケンジは珍しく、自分から恋をした。入学式の後、クラスで可愛い子を見つけたと言ったんだ。

 ヘルメットみたいな子でさ、すげぇ可愛いんだよな。見た目もそうだけど、声も喋り方も、その雰囲気が俺にピタッとはまるんだ。あんな子とずっと一緒にいられたら、幸せなんだろうな。

 ケンジの目つきがいつもにはなくぼやけて輝いていた。

 最初は単純な一目惚れだって思っていたが、そうじゃなかったと後になって知ったよ。

 俺たち五人は、入学式の日は別々に学校へ向かったんだ。特に理由があったわけじゃないと思う。誰もお互いを誘わなかったってだけだ。流石に五人でぞろぞろ行くのは恥ずかしかったんじゃないかって、俺は思っているよ。まぁ、他の学校の連中は、揃ってやって来る奴が多かったんだけどな。

 それともう一つ、理由があった。ヨシオの家は過保護だからな。高校の入学式だっていうのに、親が来るんだよ。俺なら恥ずかしいが、ヨシオは嬉しそうだった。ヨシオの家族を見ていると、俺の家とは大違いだと感じることが多い。羨ましというよりも、見ていて心が温まるんだ。その場ではね。後になって急速に感じる寂しさの理由にはまだ、気がつかなくていいと思っている。

 彼女はここで、空を見上げていたんだ。メガネを外して、両手を広げながら大きく深呼吸をしていた。

 二人で帰っていたある日、校門を出てすぐの場所でケンジがそう言った。

 俺たちの高校は、駅からは近いが、少しばかり山を登った場所にあり、人通りも車も少ない静かな道路沿いに校門が設置されている。

 俺はさ、入学式の日、誰よりも早くここに来たんだ。まだ教師も全員は来ていなかったんじゃないかな? 高校生っていうのはさ、学生といっても、もう義務教育じゃないんだ。いつだって自分の意思で辞めていいんだよ。仕事している奴だっているんだ。俺はさ、なんだか嬉しくってね。今日から大人なんじゃないかって思ったんだよ。まぁ、現実は親の金で学校に通っているんだから、まだまだ子供なんだけどな。とにかく興奮しててさ、早くに来ちまったんだよ。

 俺は入学式の日にケンジがそんな気持ちでいたなんて全く気がつかなかったよ。俺とはやっぱり、違うんだよな。高校生が大人だなんて、俺は考えもしなかった。高校に通っているのだって、働くのが面倒だからだよ。勉強がしたいからなんかじゃない。バイトは所詮バイトだからな。俺は単純に、自由でいたいだけだった。自ら勝ち得た自由なんかじゃなく、親元で甘えながらの自由ではあるんだけどな。それこそが、最高に楽な自由でもある。

 ここの坂道を登っているとさ、校門の前に立っている女子の姿が見えたんだ。それが彼女だったんだよ。俺には気づいていなかったと思うよ。深呼吸が終わると、メガネをかけ直し、お辞儀をしたんだ。そして一歩を踏み出したんだ。なんとも可愛かった。

 ケンジはそう言った後に、俺って今、恋をしているんだよな。なんて言いながら空を見上げていたよ。

 深呼吸でもするのか? まったく・・・・ 好きなら早いとこ告白しちまえよ。そんなに可愛いんなら、他に奴に取られちまうぞ。

 そうだよなぁ・・・・

 ケンジは上の空でそう答え、道路に向かって一礼し、その一歩を踏み出した。つまりは学校から出たってことだよ。まったく不思議だよな。建物やグランドに向かっての礼は意味が分かるが、背を向けての礼になんの意味があるんだかな。

 ケンジはその行動も態度も分かり易い奴なんだ。


 彼女の名前はユリ。確かに可愛い顔をしていたよ。けれどな、髪型とメガネのせいで損をしている。服装もだな。まぁ、それを損と呼ぶのかどうかはそいつ次第であって、男にモテるのが女の全てじゃない。けれど大抵の女子高生は、見た目にこだわるもんなんだよ。ケイコやカナエだって、それなりのおしゃれはしている。ユリちゃんも最近は、少しのおしゃれをするようにはなっている。けれどまだまだだよな。喋ると楽しいんだし、顔も可愛いんだ。普段からもっと自分らしい表情をすればいいのにって思うよ。格好につても同じだ。いまだに親が用意した服しか着ないそうだからな。

 ケンジはまだ、告白をしていない。けれど想いは伝わっているはずだ。ユリちゃんだけでなく、学校中が知っているよ。先生も含めてな。

 俺たちにはリリーっていう曲がある。分かるだろ? 英語でリリーは百合の花だ。ケンジは意外と、詩的な表現をするんだよ。

 女子から人気が高いっていうのは、ときには罪なんだよな。ケンジのことを好きだって女子が、ユリちゃんをいじめるんだ。ケンジのことがそんなに好きではなくても、どうしてあの子がって思うんだろうな。もちろん俺は、そんな現場に居合わせればユリちゃんを守るよ。けれどまぁ、女子っていうのは陰湿なんだ。表立ってはいい顔をする。許せないよな。

 俺のクラスには、見た目だけならテレビで見かける女優よりも綺麗なんじゃないかって女子がいる。正直俺も、最初は好きだった。勘違いはするなよ。俺には想いを寄せている人がいるんだ。好きっていうのは、単純に見た目だけを言っているんだよ。甘い果物が好きなのと一緒で、綺麗な女子が好きなんだ。まぁ俺の場合、甘い果物には手を出しても、綺麗なだけの女子には手を出さないんだけれどな。

 その子の名前はナオミだ。いい名前なんだが、俺にとってはイメージが悪い。兄貴の彼女が同じナオミって名前なんだよ。ちょっと大柄なんだけど、それは体型だけじゃないんだよな。性格も態度も見た目も全てが大柄なんだよ。もちろん兄貴の彼女だ。嫌な奴じゃないし、どちらかといえば好きだよ。けれどまぁ、その名前を聞くとあいつの顔が浮かんでしまう。俺は今でもあいつには文句ばかり言われるんだよ。髪を切れとか、服装がだらしないとか、親戚のおばちゃんかっていうんだよ。まぁそんなあいつも、俺がこの高校に受かったと知ったときには驚き、素直に喜んでいたよ。悪い奴じゃないんだ。

 同級生のナオミもそうだ。根っこはきっと、悪い奴じゃないんだよ。あんだけ綺麗な顔してりゃ、短い人生とはいえ、相当いい思いをしてきたはずだからな。しかも家は大金持ちだ。多少心が捻くれるのも当然だよな。俺のように見た目も環境もそれなりって奴は、心は案外に綺麗だったりするんだ。


 あんたの友達にさ、タケシっているでしょ?

 登校したばかりの俺に、ナオミがそう言った。

 タケシって、俺の名前だけど?

 俺がそう言うと、ナオミは顔を真っ赤にして、あんたなわけないでしょ! そう言って俺の頭を引っ叩いたんだ。俺のノートを使ってな。

 俺は教室で、カバンから教科書やらノートやらを引っ張り出していた。まさか自分のノートで引っ叩かれるとは思いもしなかったよ。しかも、ナオミにな。俺は思わず、ふざけんなよ! なんて叫んでしまった。まったく、女子の前で恥ずかしいことさせるなっていうんだ。

 なによ! 私が悪いって言うの? あんたがあの人と同じ名前なのが悪いんでしょ!

 ナオミはそう言って、もう一度俺の頭を引っ叩いた。

 ちょっとナオミ、なにしてるのよ? タケシ君のことじゃなかったの? そんな言葉が少し離れた席から聞こえてきた。なんのことを言っているのか、まるで意味が分からないよな。

 こいつがタケシ?  冗談じゃないわよ! 私のタケシ君はもっと格好いいんだから! あんたね! 勝手にタケシを名乗るんじゃないわよ!

 ナオミはもう一度俺の頭を引っ叩こうとその手を振りかざした。俺だって馬鹿じゃないからな、そう何度も同じ攻撃にはやられないんだ。ナオミの手首を、頭上で捕まえた。

 ちょっと! 痛いじゃないのよ!

 あのなぁ、お前一体なんなんだよ! 人のノートでバシバシ頭叩きやがってよ!

 俺はもう片方の手で自分のノートを奪い返した。正直このとき、俺はナオミを殴ってやろうかと思っていたよ。女子だからって、やり過ぎなんだよ。

 もうやめなよ、ナオミ! タケシ君のこと、好きなんじゃなかったの? 誰の声かなんてどうでもよかった。ただその言葉にイラっとし、声の飛んでくる方向に顔を向ける。

 はぁ? 俺とナオミの言葉が重なったよ。その行動も重なっていた。俺と同時に、ナオミもその声に顔を向ける。

 こんな奴好きなわけないわよ! ナオミがそう言った。

 こんな奴好きなわけないだろ! 俺はそう言ったよ。

 真似すんなよ! の言葉がまた重なる。

 離れた席から聞こえる笑い声に、俺は恥ずかしさを覚えたよ。なにを朝っぱらから・・・・ そう思ってしまったんだ。これじゃあまるで仲良しだよな。


 ちょっと! 話が違うじゃないのよ! そう言いながらナオミは、笑い声の元に歩いて行った。

 さっさと自分の教室に戻れよ! 俺はナオミの背中にそう言った。するとナオミは、足を止めて振り返り、ばぁか! なんて言いながら舌を出し、右手の人差し指で右目のくぼみを引っ張り、その大きな目玉を飛び出させた。

 俺はこのとき、ナオミのことを知らなかった。このときも、綺麗な子だとは思っていたよ。けれどまさか、同じクラスにいたなんて驚きだ。別のクラスの子だと、本気で思っていた。ナオミっていう名前も、知らなかった。

 ちょっとタケシ君、それは酷いわよ。ナオミだってこのクラスなんだから。

 ナオミの友達がそう言った。俺は思わず、苦い顔を浮かべていたはずだ。私と同じクラスだとそんなに不満なんだ。ナオミがそう言っていた。その顔が少し、寂しそうだったのが印象的で、いまだにその顔を覚えている。夢にまで出てくるんだよ。

 俺の頭の中には、兄貴の彼女の顔が浮かんでいた。

 ごめんなさい・・・・ 思わず出てしまった言葉だった。

 するとナオミが、笑顔を見せた。

 案外と素直なんだね。よし! 許してやるよ。そう言って友達の輪の中に入り込んでいく。

 ナオミの友達は二人いた。三人で大いに盛り上がっていたよ。俺は聞き耳を立てたが、なにを言っているのかは分からなかった。ときおり、えぇー! とか、やだぁー! とか、悲鳴のような言葉だけが聞こえてきたよ。

 俺は後日、友達の中の一人からその日の真相を聞かされた。

 この前はごめんね。なんてその子は言った。なんのことか分からず必死に思案していると、ナオミのことだよ。なんて言った。ノートで叩かれたでしょ?

 あれは痛かったよ。それに、いまだに意味がわからない。

 だよねー。だからさ、どういうわけか教えてあげるよ。

 そいつはありがたいな。そう言った俺だけど、正直どうでもよかった。ナオミのことは好きだが、それは顔だけだったし、俺がナオミの存在を無意識にシカトしていた理由にも気づいていた。その時の俺はもう、ナオミについては完全に興味を失っていたんだ。

 ナオミはいつでも自分のことしか話さない。友達といても、先生といても、自分を中心にしか言葉を発しない。自分が世界の中心だって、高校生にもなって思っているんだよな。まぁ、そんな思いを捨てていない大人は大勢いるんだが、俺はそんな人間に興味がないんだ。だから俺には、ナオミが見えていなかった。

 けれど今となってはだが、ナオミを好きな気持ちには変化をしている。見た目だけじゃなく、ちょっとはその中身も好きになっているんだ。当然、恋人としてではなく、一人の人間としてだけれどな。

 ナオミが好きなのはね、残念だけど、タケシ君じゃなかったみたい。私は二人がお似合いだって思うんだけどな。

 ナオミの友達は、笑顔でそんなことを言う。なにが楽しいんだろうな? 女子はいつでも、恋の話ばかりで盛り上がるんだ。


 いつも教室に来る人いるでしょ? ケンジっていうんだよね? ナオミはそのケンジ君が好きなんだって。

 なんだよ、またかよって感じた。ケンジのことが好きだから、好きな子がいるのか教えて欲しいなんて言葉には聞き飽きていた。好きだって伝えといてとも言われたことがある。全て適当に無視を決め込んでいる。

 好きなら自分で好きって言えばいいんじゃない? 俺から言っても意味ないでしょ?

 俺がそう言うと、その友達は、突然俺の肩を叩いた。まるで近所のおばちゃんのように力強かった。俺は思わずよろけてしまった。

 ちょっとタケシ君大袈裟すぎるよ!

 そう言いながらまた、俺の肩を叩いた。

 その友達には、授業中に回ってきた手紙で呼び出されたんだ。折りたたんだ紙に綺麗な字で、お昼が終わったら屋上の階段で待ってるね、なんて書かれていた。

 俺はその手紙が、誰から届けられたのかも知らなかった。その文字からも、手紙の絵柄からも、女子からだってことは確実だった。俺は大きな勘違いをしながらその後を過ごし、胸をドキドキさせながら屋上の階段に向かった。

 俺たちの学校では、屋上へ出ることは禁止されていた。そもそも鍵がかかっている。まぁ、勝手に開けている奴もいるんだが、それはあまりいいことではないよな。

 屋上へと出るドアの前で、俺はその手紙の相手を待っていた。そこはほんの少し広い空間になっている。掃除用具が入っているロッカーなんかが置いてあり、男女の密会にピタリの雰囲気なんだ。まぁ、男同士の密会でも構わないんだけどな。

 ナオミの友達は、一人でやってきた。その顔に、緊張はなかった。俺だけが勘違いをしているんだと気がついたよ。

 ケンジ君とナオミを誘ってさ、四人でデートしようよ。なんて言葉を、その友達は明るく言い放った。

 なかなかに面白くて、可愛い子だと思ったよ。けれど困ったよ。俺はモテることに慣れていない。

 俺のこと、好きなのか? いきなりそんなことを言ったんだ。馬鹿だって、反省している。

 しかしその友達は、お腹を抱えて笑い出し、タケシ君って面白いこと言うのね、なて言うんだ。ほんの少しだけど、惚れそうになった。その日から好きになったのは間違いないよ。今では俺の、大事な友達でもある。


 ナオミはなんでケンジのことが好きなんだ? 見た目か? 態度か? 話したことすらないだろ?

 なんでだろうね? ケンジ君、人気者だから、ただのミーハーだったりしてね。

 なんだよ、ミーハーって。自分の友達のことをそんな風に言うなんて、やっぱり面白い子だよな。

 とにかくさ、私たちはいつでもいいから、予定が決まったら教えてね。デートなんだから、二人がエスコートするのよ。その友達はそう言い残し、階段を駆け下りた。

 さて、困ったな。俺はなんとなく、そう呟いた。すると、鍵がかっているはずの屋上へと出るドアが、カチャッと音を鳴らしたんだ。外側に誰かがいる。曇りガラスに人影が見えた。

 モテモテじゃんかよ。羨ましい限りだな。ドアが開き、そんな声が聞こえたよ。

 誰だって思い、一瞬身構えた。悪意の感じる声だったからな。大勢いたら、逃げるしかないなと考えていたんだ。しかし一人なら、相手をしてもいいって思っていたよ。

 お前の彼女か? なかなかお似合いじゃねぇかよ。キスしてたのか? なんてことを言っていたが、嫌味なのか本気なのか、判断に困ったよ。

 なんだ? 羨ましいのか? 俺は一応、そう返事をした。

 長髪男。屋上から出て来たのはそいつ一人だった。こんな所でなにやってたんだよ。

 空を感じていたんだ。気持ちいいんだぜ。さらっとそう言い退けたが、胡散臭さ満載だった。

 どうせ嘘だろって思い、外に出た。他にも絶対に誰かがいるはずだってね。参ったよ。本当に誰もいなかったんだからな。

 長髪男は、俺と一緒に再び屋上に出ると、ポケットから取り出したタバコに火をつけた。

 ケンジとバンド組むんだって? ずりぃよな。俺も混ぜてくれないか? なんてな、冗談だよ。一度ケンジに断られているからな。それにしてもさ、お前たち仲よすぎだろ? いっつも五人で登校してるんだろ? いい加減、飽きないのか? 保育園からの付き合いなんだってな。

 面倒な奴だって思ったよ。そんなこと、どうでもいいだろって思っていたら、思わずそのままを口にしていた。

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