第3話

 女子が多いと、結局こうなるんだ。どうなるかって? ケンジがモテるんだよ。それが一番気に入らない。

 バンドを始めようとケンジが言ったときも、俺はそのことばかり考えた。またケンジがモテてしまう。別に悔しくなんかない。俺には好きな子がいるんだしな。ただ、ほんの少し嫉妬してしまうんだよ。

 ケンジが女にうつつを抜かすほどの馬鹿じゃないのは知っているが、俺たちとの時間が減ってしまうのは寂しいんだよ。

 バンドって、ゴムか?

 俺の渾身のボケに、ケンジはなんの反応も示さなかった。今日もやってるそうだからさ、見に行こうぜ。そう言っただけだった。

 なにを見るんだ? 俺がそう言うと、いいから付いて来いよ。それだけを言い、自分のクラスへと消えて行った。

 俺たち五人は、見事に別々のクラスになった。五クラスしかないのにだよ。同じ中学からは他にも数名が入学しているんだけど、そいつらと同じクラスになっても嬉しくはない。まぁ、ケンジたちと離れている方が新しい友達ができて嬉しかったりもするんだけどな。

 ケンジは休み時間の度に俺のクラスにやってくる。お陰で俺には、新しい友達が大勢できたよ。ケンジは入学してすぐに人気者なったんだ。女子からだけでなく、男子からもな。

 入学式の日、校長の挨拶が長くて退屈なのはどこの学校も同じだよ。なんのひねりもない決まりきった言葉をカンペを見ながら落としていくんだ。さっさと終わらせてくれよと、そこにいる誰もが感じていた。生徒だけでなく、先生たちからもな。

 カンペを覗きながらの挨拶には、一定の間が生まれるんだ。ケンジはその間を見計らって、拍手を鳴らした。その音に周りが反応をし、その意味を理解した何人かが真似をする。そしてあっという間に会場中に広がった。

 お陰で挨拶は打ち切りになった。校長は、なんだか満足気に舞台から降りて行ったよ。その勘違いには誰も指摘をしていない。評判が良かっと満足気に校長室で話していたらしい。担任の先生が保健室の先生とそんな話をしているのを、俺は聞いたんだ。


 ケンジの活躍は、全生徒が知っている。同学年だけでなく、上級生も知っているんだ。すでに何度か絡まれているが、ケンジは上手にかわしているよ。ちょっと上手いことしたからって調子に乗るなよと言われても、気をつけますとの一言でその場を後にする。ケンジは意外なほどに大人な対応をするんだ。まぁ、ときによってはなんだけどな。ケンジは驚くほどに子供っぽい対応をすることもある。

 昼休み、ケンジはクラスの友達にジュースを買ってきてと頼んだんだ。構内には売店もあるし、自動販売機だってある。自分で行けばあんなことにはならなかった。けれど、休み時間のそんな場所は、とにかく混むんだよ。特に四月は、新入生が多く集まるんだ。中学時代にはなかった光景に、意味もなく興奮をし、たいして飲みたくもないジュースを買うために行列を作るんだ。

 俺は自慢じゃないけど、一度も自動販売機を利用していない。混雑が嫌だからとか、そんなつまらない理由だけじゃなく、そこの自動販売機には紙パックしか置いていないんだ。紙パックには、どうしても紙の匂いが混ざって嫌なんだよ。

 ケンジの友達は、あろうことか牛乳を買ってきたんだ。悪気なんてなかったようだが、ジュースを買ってきてと頼んだ相手に牛乳っていうのはいただけないよな。ケンジはその友達に、ジュースならなんでもいいなんて言ったから余計に話がややこしくなったんだ。その友達の言い分では、牛乳だってジュースなんだとさ。野菜や果物が原料じゃなくても、スポーツ飲料だってジュースだ。俺だってそう思うよ。高校生にもなってジュースといえばオレンジかりんごだろって考える方がどうかしているんだよ。ケンジは本気でそう思っていたんだ。

 かと言って、ケンジは特に牛乳嫌いってわけでもなかった。どちらかといえば好きな方で、毎朝毎晩飲んでいるよ。少しでも背が高くなりたいんだよ。ケンジは俺たち五人の中では一番のチビだからな。しかしまぁ、残念なことに、今のところはその効果が出ていない。

 その日のケンジは、朝に飲んだ牛乳のせいで腹を壊していた。俺たち五人は毎朝駅前で待ち合わせをして一緒に登校しているんだが、ケンジはその日、真っ青な顔で一番最後にやって来て、俺たちの顔を見るとすぐ、駅の中のトイレに駆け込んだ。

 ケンジは大抵早起きなんだ。待ち合わせに遅れたことなんてなく、一番乗りで俺たちを待っている。当時はタバコを咥えていたが、バンドを始めてからは吸っていない。学生の分際で生意気だって思うだろ? 確かにその通りだよ。あいつは生意気だったんだ。けれど不思議だよな。学生服姿でタバコを吸うあいつに対して、誰も文句を言わないんだ。注意すらしない。売店のおばちゃんだって笑顔で対応してくれる。

 俺はタバコなんて吸わないよ。一度も口にしたことはない。これからもきっと、吸わないだろうな。そもそも煙を吸うって発想が受け付けられない。煙ってのいうは、チーズや玉子を包むためにあるんだよ。

 ケンジはタバコを、陸上部を引退し、自転車で空を飛んだ前後から始めたんだ。頭を強く打ったせいもあるけれど、それだけじゃないのは分かっている。あいつの家では、全員がタバコを吸うんだ。両親も兄貴も、爺ちゃん婆ちゃんまでもがヘビースモーカーなんだから。


 どんなに腹が痛くても、約束の時間には遅れないのがケンジらしいよな。ギリギリにやって来たってことは、ギリギリまで家のトイレに入ってたってことだ。ケイコとカナエは遅刻しちゃうからと先に行ったよ。俺はヨシオと二人、トイレの前でケンジを待っていた。電車が二本、行き過ぎてしまったよ。しかしまぁ、遅刻は免れた。ケンジの歩きが遅くて焦ったが、予鈴には間に合わずとも、本鈴には間に合った。

 トイレから出てきたケンジは、真っ青な顔を真っ白に変化させていた。頬の肉が削ぎ落とされていて、まるで減量中のボクサーのようだった。まぁ、ケンジの場合、その眼光もボクサーのように鋭かったんだけど、理由が違う。ケンジは身体も顔も全てに力を入れていないと立ってはいられなかったんだ。少しでも気を緩めれば、トイレに逆戻りか、あわやの大惨事が待っていたんだよ。

 ケンジはどうしても、遅刻をしたくなかった。あいつはたまに、妙なところでこだわるんだ。その理由はいまだに謎だよ。ケンジは小学校に入ってから今までずっと、無遅刻無欠勤だからな。

 ケンジは授業中にも何度かトイレに駆け込んでいた。その甲斐あってか、お腹の調子も良くなっていたみたいだな。ジュースを飲もうっていうのは、その兆候だよ。その日は昼飯を抜いていたようだから、柔らかい味のジュースでお腹を労ろうと考えたはずなんだ。そこへもって牛乳が運ばれてきた。ケンジは手に取った瞬間、その牛乳をそいつに投げつけた。

 ふざけんなよ! 今日の俺は腹痛なんだぞ! ジュースって言えばりんごだろ! それがなけりゃ気を利かせてお茶でも買ってこい!

 本気でそう怒鳴っていた。俺はその現場を廊下から眺めていたんだ。腹痛で苦しんでいるあいつをからかうつもりで、隣の教室に向かっていたんだ。その日は休み時間になっても顔を出さなかったからな。

 俺は思ったよ。ケンジの今日の気分はりんごだったのか? ってな。俺だったらきっと、オレンジを買ってきただろうなとも思ったよ。頼まれたのが俺じゃなくてよかったよ。きっとあの日のケンジは、オレンジを買ってきた俺にも怒鳴っていただろうからな。

 その友達とケンジは、今でも表向きはだが仲がいい。少なくとはケンジはそうと感じている。俺は正直苦手なんだよな。高校生のくせに、背中まで伸ばした髪の毛にストレートパーマをかけている。耳にはピアスだよ。人の見かけなんてどうでもいいんだけれど、あいつの外見はどうにも嘘くさいんだよな。長髪もピアスも、まるで似合っていない。自分らしさがない奴って、つまらないんだよな。


 なに遊んでんだよ! さっさと行こうぜ!

 俺は放課後、珍しくクラスの女子と話をしていた。せっかくの楽しい時間だよ。ケンジとの約束なんて忘れていた。

 俺は部活なんてしていなかったし、放課後は自由だった。アルバイトでもしようかとは考えていたけれど、あの日はまだ無職だった。なんていうか、悩んでいた時期だったんだ。

 ケイコは陸上部に誘われていたけれど、練習には参加していたが正式に入部はしていなかった。

 カナエは読書部なんていう不思議な部に入部していた。図書室で本を読み、感想文を書いたりするらしい。俺には興味がなかった。本を読むのは嫌いじゃないけれど、家でゆっくりと読みたい。誰かと並んで本を読むなんて、なにが楽しいのか不思議だったよ。誰かと並んだら、お喋りしたくなるもんだろ?

 ヨシオは軽音部に入ろうとしたけれど、拒否されていた。見た目がロックっぽくないと言われたそうだ。先輩たちは、音楽を楽しむというよりも、そのファッションだけを真似して遊んでいたんだ。ケンジの友達の長髪は、そんな先輩たちと軽音部で仲良くしているよ。結局ヨシオは、放送部に入部した。そこで好きな音楽を流して楽しんでいる。

 ケンジは俺と同じでなにもしていない。ラグビー部に入ろうとしていたけれど、俺たちの通う高校は、真剣じゃなかったんだ。学校教育の一部としての運動部なんだよ。ケンジの肌には合わなかった。

 俺もそうだけれど、スポーツっていうのはやるからには本気じゃないとつまらないと思うんだよ。プロになりたいとか、世界一になりたいとか、そんな思いなしでのスポーツはつまらない。やるからには上を目指したい。それも、最上階をだ。屋上から宇宙へと飛び出すのが理想的だ。まぁ、結果なんてどうでもいんだよな、実際は。気持ちが大事だってことだよ。この高校には、その気持ちが欠けている。

 今から行くのか? もうちょっとゆっくりしようよ。俺はクラスの女子たちに向かって、笑顔を見せて、だよねー、なんて言ったんだ。するとケンジは、俺を強く睨みつけ、いいから行くぞと声を荒げた。

 俺は女子たちに、ごめんね、また明日ね、そう言いながら教室から出て行った。楽しかった時間が、終了した。廊下で待っていたケンジを睨みつけたが、当のケンジは笑顔になっていたよ。


 とにかく来てみろよ。タケシならきっと俺の気持ちが分かるって。

 ケンジが俺の肩に手を回す。ケンジが楽しそうにしていると、俺までもが楽しくなってくる。まぁ、ケンジは言い出すと他人の意見なんて聞かないし、ケンジの誘いで間違いはこれまでには一度もない。正直俺には、いい予感しかしていなかった。けれど俺は素直じゃないんだ。口ではケンジに喰ってかかる。

 バンドをしたいならさ、あの長髪でも誘えばいいだろ? 俺には音楽なんて向いてないだろ?

 正直俺は、音楽になんて興味がなかった。小中の授業でも、合唱は口パクで通していたしな。ピアニカやリコーダーだって、まともに吹いた記憶はない。今では不思議だけど、音楽は女子のものだって本気で信じていた。合唱にしても楽器の演奏にしても、上手なのは女子ばかりで、真剣なのも女子だけだった。そんな中に入って歌ったり演奏したりするのが、恥ずかしいことだと感じていたんだよ。俺はバカで、幼かったってことだ。

 タケシはバンドマン向きだと思うけどな。はっきり言ってさ、うちの高校の軽音部はダメだな。ヨシオは入部しなくてよかったと思うよ。あれはただのお遊びだよ。これから本物を見せてやるよ。

 よぉケンジ! これから聞き屋の所に行くんだろ? 俺も連れて行ってくれよ。

 校門の前に、長髪男が立っていた。俺はあからさまに嫌な顔をしたよ。嫌いじゃないが、一緒には帰りたくない。あいつといると、俺までもがつまらない人間なんじゃないかって感じるんだ。

 悪いんだけどさ、今度紹介してやるよ。今日はちょっとさ、そんな暇ないんだよね。

 ケンジは無意識に嫌味なことを言うんだが、長髪男はそんな嫌味にまるで気づいていなかった。そいつは残念だな。なんて言いながら校内に引き返して行った。

 面白い奴だよな。俺がそう言うと、ケンジは、まぁ、あれで悪い奴ではないんだよ。そう言って苦笑いを浮かべていた。

 さぁ、本物を拝みに行くか。

 そう言って連れて行かれたのが、横浜駅西口の地下鉄へと降りて行く階段の裏側だった。相鉄線側の大きなデパートの側だよ。箱型の建物で、その裏側にはいつも誰かがしゃがんでいた。人通りが多くて、待ち合わせにも多く利用されている。まさか俺が、あんな場所に立ち止まり、腰を下ろすとは想像もしていなかった。なんていうか、校庭で行われる全体朝礼のときに、朝礼台の上に腰を下ろして生徒たちを眺めているような気分だよ。もちろん、朝礼台の上では校長が演説を垂れていて、横に並ぶ先生たちの姿もよく見える。


 今日はさ、俺の家族を連れて来たよ。ケンジはそう言いながら、箱型の建物の裏でしゃがんでいた誰かに近づいて行く。

 本当に来たのか? 学生は暇そうでいいな。

 そうなんだよ。暇なんだよね。

 部活でもやればいいだろ? 目指せ甲子園! ってな。まぁ、今時流行らねぇか?

 野球はもういいんだよ。うちの学校はさ、部活動に力は入れてないしね。俺は決めたんだ。バンドで世界一になるってさ。

 ふん・・・・ なんだよ、それ?

 ケンジはそこにしゃがみ込む誰かの隣に腰を下ろしていた。壁に背中を凭れている。俺はそんな二人の向かいで仁王立ちだよ。どうしていいのか分からなかったんだ。人通りの多いあんな場所にしゃがみ込む勇気は、まだなかった。

 今日はあの人、来ないの?

 やっぱりお前もあいつに会いに来たのか? 残念だけど、来ないだろうな。俺は昨夜から大忙しでさ、そんな日にあいつが来ることはないんだよ。

 なんだよ、それ? 意味わかんないんだけどさ。

 俺がギターを持っていない日には、来ないってことだ。俺は大抵の日はギターを持って来るんだけど、あんまりに忙しいときはついつい忘れちまうんだよ。今度からここに置きっ放しにしようかと思うんだけどな。お前たちで見張っててくれないか?

 あんた評判いいんだろ? だったら誰も盗んだりしないんじゃない? 今日友達に聞いたんだけどさ。あんたなんだろ? この街で最近有名になってる聞き屋ってさ。

 俺はずっと二人の話を聞いているだけだったんだが、聞き屋っていう言葉には反応せざるを得なかった。横浜の街で、ちょっとした噂になっていたんだ。この街の事件を未然に防ぐヒーローだってね。俺はそんな話、信じちゃいなかった。単なる都市伝説ってやつだと思っていたんだよ。けれど現実に、その聞き屋が目の前にいたんだ。誰だって驚くよな。

 本当にそうなのか? 聞き屋って、実在するのか? 俺は興奮気味にそう言ったよ。自分では無意識に、その場にしゃがみ込みながらな。

 俺ってそんなに有名なのか? ただここに座ってギターを弾いているだけだ。そりゃあたまには誰かの話を聞いたりもしているけれどな。聞き屋だなんて呼ばれてるのも、あまり好きじゃないんだよ。

 そんな話よりさ、本当に今日は来ないのか? だったら帰ろうかな? ここにいても目立つだけだからな。

 そうしてくれると助かるよ。昨日から寝てなくてな。俺も帰ろかと考えていたんだ。明日ならきっと、あいつは来るだろうな。また明日来いよ。

 聞き屋の男は立ち上がり、ちゃんと勉強するんだぞ、学生さん。そう言ってその場を去って行った。あんただってまだ学生じゃないか! 聞き屋の背中にケンジがそんな言葉をぶつけた。聞き屋は背中でその言葉を受け、右手を上げて振っていた。


 本当にあれが聞き屋なのか? 俺はケンジの隣に腰を移して壁に凭れた。聞き屋がいた場所にしゃがんだんだ。なんだか俺が噂の聞き屋になったみたいで、いい気分だった。歩いているときには感じられない、いつもとは違う横浜を感じられた気分がしたよ。座って眺める世界は、学校の屋上から眺める校庭とはまた違った楽しみがあった。

 そうだよ。ここに座って話を聞いてくれるのは、聞き屋しかいないってさ。今の俺たちのように座ってるだけの奴には、誰も話しかけてこないだろ? あいつは特別なんだよ。けれど驚くなよ。明日来る奴はもっと特別だ。俺たちの運命を、きっと変えてくれる。ケイコたちも誘って、五人で来いってことだな。

 ケンジがなぜそんな言い方をするのか、意味が分からず、俺はきょとんとケンジを見つめた。五人で来たければ今日だって来られたんだ。誘わなかっただけだしな。俺はそう思っていた。それに、たかだか一人の人間に会ったぐらいで、運命なんて変わらない。そうとも思っていたよ。

 俺って馬鹿なんだよな。俺はさ、っていうか俺たち四人はみんな、ケンジとの出会いで運命を変えている。そのことはあまりにも自然すぎて忘れていたんだけど、あの人との出会いで思い出すことになるんだ。

 聞き屋のあいつはさ、俺たちのためにわざわざ待っていたんだぜ。口には出さなくても、感じるだろ? 仕事で忙しいのに、律儀な男だよ。俺はさ、昨日約束したんだ。タケシって奴がいるから、会わせたいってな。俺たちの関係も全て話したんだ。後の三人にもいずれは会いたいなって、あいつは言っていたよ。今日俺が連れて来ないことを知っていたんだろうな。あいつはさ、五人揃ってあの人に会わせたいと思っているんだろうよ。だから今日はあえて呼ばなかった。そして明日はやって来ると言い残しただろ? あれってさ、明日は全員で来いよっていう意味なんだ。

 そうなのか? なんて間抜けな返事をした俺だが、ケンジの言う言葉の意味は半分も分かっていなかった。明日は五人揃って横浜駅前に集合か。なんだか恥ずかしいなって思ったよ。中学の同級生にも、クラスの誰かにも会いたくないなってことだけを考えていた。

 次の日ケンジは、朝から興奮していた。俺以外の三人に、今日は絶対に行こうぜと誘っていた。損はさせない。きっと世界が変わるよ。ケンジがそんなセリフを言えば、断る馬鹿はいないよな。少なくとも俺たち五人は、ケンジの言葉の強さを信じていた。


 俺たち五人は、久し振りに全員が揃って下校をした。なんだか不思議だよな。家族全員で帰るっていうのは、恥ずかしいんだ。登校するときは感じないのにな。

 聞き屋と知り合いって、凄いことなんだって。そう言ったのはケイコだった。陸上部の子が言ってたんだけどね、この前の事件を解決したのも聞き屋なんだって。

 ケイコが言う事件っていうのは、国内ではそれほどの話題にはならなかったけれど、横浜市民にとっては衝撃的だった事件のことだよ。

 横浜駅構内にある赤い靴はいてた女の子像に着色されるっていう事件が起きたんだ。その靴だけを、真っ赤に染めていた。その綺麗さに、このままでもいいんじゃないかって言葉も多かった。

 聞き屋はその犯人を探し出しただけじゃなく、その犯人に、山下公園にある赤い靴はいてた女の子像にも色を濡れと言ったんだ。当然、横浜市のお偉いさんからの許可を得てだよ。どういう繋がりかは知らないが当時の市長がその行為を正当化していた。

 私はただ、いい音楽を聞きたいだけ。本当にその人、凄いの? 神奈川カナエの言葉に、ケンジは笑顔を見せる。驚くよ、きっと。そう言った。

 横浜駅より、今は桜木町の方が盛り上がってるって噂だよ。二人組の凄い人気者がいるって聞いたことあるんだ。ヨシオがそう言った。その人たちなら私聴いたことあるよ。と、カナエが言う。確かに凄い人気だったよ。集まってたのは殆どが女子だったけれどね。いい音楽だったけれど、女子たちの悲鳴が凄くてあまり楽しめなかったな。

 俺はまだ、音楽を聴いて自分の運命が変わるなんて信じていなかった。ケンジだってたまには間違いを起こす。音楽をやっている男なんて、所詮は女受けを考えているだけなんだ。カナエの言葉がそれを証明しているって感じたよ。

 とは言ってもさ、実際に俺も後日桜木町でその二人組の音楽を聴いたんだが、正直勿体無いと感じたな。あんな風な悲鳴に包まれなければ、もっと音楽が活きるのにってな。静かな空気で聴くべき音楽も存在するんだよ。ざわめきを好む音楽だって確かに存在はしているけれどさ。


 やっと来たのか? おっ、これがお前の家族か? 聞き屋のそんな言葉に、なぜだか俺たち五人は揃って頷いた。そんな俺たちの姿を見て、聞き屋は笑った。

 お前ら、面白いな。まぁいいや。そんなところに突っ立ていると邪魔だからさ、こっち来て座れよ。

 聞き屋の言葉に促され、俺たちは横一列に壁際にしゃがみ込んだ。すると聞き屋は、おもむろに立ち上がった。そして、目の前の地べたに横向きに置かれていたギターケースからギターを取り出す。

 俺は今でこそ聞き屋なんて呼ばれてるけどさ、こっちが本職なんだよ。まぁ、あいつが来るまでの間、俺の歌でも楽しんでくれよ。そう言い、聞き屋の演奏が始まった。

 俺たちは黙って聞き屋の演奏を聴いていた。聞き屋は、本当に楽しそうだった。基本的には俺たちに背を向けていたが、時折こっちに顔を向ける。正直俺は、格好いいなって思ったよ。

 ケンジは終始笑顔だった。聞き屋よりも楽しんでいたのかも知れない。

 ケイコはなぜだか頬を真っ赤に染めて、聞き屋の姿を、焦点の合っていない瞳で見つめていた。

 身体で感情を表現していたのが、カナエだった。頭や身体全体を揺らしていた。手拍子を入れたり、膝を叩いたり、足踏みをしたり、カナエ自身が楽器になっていた。そして、聞き屋との時間を共有して楽しんでいた。

 ヨシオは真剣な表情を崩さず、じっと聞き屋に目を向けていた。聞き屋が俺たちに笑顔を向けても、ヨシオだけは無表情を貫いていた。けれど俺には伝わっていた。あいつは興奮していた。膝の上に乗せた両手がそれを証明している。握り拳を作っていて、その拳が震えていたんだ。拳の隙間から溢れる汗が、ヨシオの感情だよ。あのままの時間が長く続いていたなら、きっとヨシオは倒れていたはずだ。もしくはその拳の隙間から流れる汗が真っ赤に染まっていたことだろう。ヨシオの手の平には、翌日までくっきりと爪痕が残っていた。

 聞き屋の曲は、一曲で終わりだった。たった一曲でも、その魅力は抜群だった。ケンジが言っていた驚きは、このことかって思ったぐらいだが、それは間違っていた。

 今日もあんたは最高だよな。

 その言葉は、ケンジのものでも俺たちの誰かのものでもない。その言葉の主は、突然聞き屋の目の前に立ちはだかり、そのギターを奪い取る。見た目はケンジの友達にもよく似ていたが、偽物感がまるでなかった。サラサラに輝く長髪が、格好良かった。

 聞き屋はケンジの隣で、俺たちと横並びにしゃがみ込んだ。

 ここからが今日のメインだよ。ケンジがそう言った。


 本当の驚きって、言葉を失う。開いた口が塞がらないって言うだろ? あれって本当だ。二度目のケンジは別だが、俺たち四人は、揃いも揃ってその口を開き、そのままの姿で固まっていた。まるで記憶はないが、きっと瞬きも呼吸も、もしかしたなら、鼓動までもを止めていたのかも知れない。

 あの人の音楽は、聴く者全てにこれまでに感じたことのない感情を呼び起こす。俺は、生きていたいって感じた。特にこれまでの人生には不満もなかったが、この先の人生には不安があった。このまま年を重ねれば、つまらない大人になるんじゃないかって予感しかない。それでいいのかって考える毎日だったんだ。

 現実ってのいうは、そんことはどうでもよくて、ただ生きていればいいんだって感じたんだ。毎日を必死に、楽しく過ごすんだ。妥協なんていらない。そう感じた。

 ケンジや他のみんなも、それぞれに色んなことを感じていたようだ。詳しくは聴いていないが、五人の出した答えは一緒だった。

 バンドやろうぜ。

 その一言に尽きるんだ。ケンジが突然言い出したときはなにを馬鹿なことをと呆れたが、あの人の音楽を聴けば、なぜだかバンドが組みたくなるんだよ。たった一人でギターを弾きながら歌っているにも関わらずにな。

 ケンジは前日、俺以外にもバンドやろうぜの声をかけていた。あの人の曲を聴いた瞬間、五人での姿を想像したようだ。その想像は、俺もしている。ケイコもカナエも、ヨシオもしているんだ。

 お前たちならきっと、いいバンドになるだろうな。あの人がそう言ってくれた。

 あの人はその日、五曲の歌を歌ったけれど、二曲が以前からの持ち歌で、残りの三曲は半即興だった。なんとなくのイメージがあった曲を、その場で完成させた。天才っていうのは、あの人にこそ相応しい言葉だって思ったよ。

 俺たち七人は、箱型の建物の裏で円陣を組むようにしゃがんで話をした。聞き屋もあの人も、俺たちと対等な目線で会話をしてくれる。外の世界で生きて行くためには、年齢なんて関係がないことを知ったよ。学校やら家庭やらテレビやらで歳上を敬えなんて教えるのは、本人たちが対等な会話を恐れているからなんだ。上から目線でも、下から目線でも、本音をぶつけることはできない。上からの奴は大抵、俺にだけは下の連中も本音を言うなんて勘違いをし、下からの奴も本気で慕ってるんですよの嘘がバレていないと思っている。まぁ、この二組がコンビを組むことが現実では多いから、特に問題はないんだがな。学校の先生やテレビを見ているとよく分かる。世間には、つまらない人間が多すぎるってな。

 俺もきっと、あの人に出会えなかったら、そんな人間になっていたことだろう。あの人と聞き屋は、生まれて初めて対等な会話のできる人間だった。ケンジたちを含めた家族を除いてはな。小学生にもなれば同級生同士の間でも上下関係は生まれるんだ。早ければ保育園時代からもそんな態度を見せる奴はいるよな。俺たち五人にはそれがなかった。だからなんだよ。こういう関係になれたのは。


 俺もさ、いつかはバンドを組みたいんだ。一人で歌うのは楽しいけれどさ、やっぱり音楽は大勢で楽しむもんだよな。あの人の言葉だ。まだ正式にはバンドを組んでいなかった俺たちを羨ましいとも言っていた。

 ふん、なにを言ってんだよ。お前と一緒にバンドを組める奴なんて、そうはいないだろうよ。はっきり言うけどさ、この国で探すのは難しいな。この世界でも難しそうだけどな。いっそ宇宙人とでもバンドを組むか? それが無理なら未来人とだな。

 聞き屋の言葉にみんなが笑ったが、その通りかもなってみんなが感じてもいたよ。

 あの人の音楽からは、不思議と仲間を感じられる。一人じゃないって言う意味じゃなく、背後からはドラムの音もベースの音も聴こえるんだ。曲によってはピアノやストリングスの音までが聴こえてくる。意味は分からないし、実際にはそんな音なんて鳴ってもいない。けれど確かに聴こえてくる。それがあの人の音楽なんだよ。

 聞き屋の演奏も、最高だったよ。正直言って、桜木町の二人組にも負けていない。けれど聞き屋は、聞き屋でいるのが似合っている。

 その日はサラリーマンマンが酔っ払って帰宅をする頃までそこにいた。話をしたり、聞き屋の歌を聴いたりするのがメインだった。あの人は、最初に歌ったきりギターさえ触らなかったよ。どうしてなのかはよく分かる。聞き屋が歌っても、立ち止まってまで聴く人はまばらだが、あの人が歌い出すと、その音楽が届く範囲の全ての人が立ち止まってしまうんだよ。当時からあの人の影響力は、世界規模だったってわけだ。なんせ露天商のイラン人までもが聴き耳を立てるんだからな。

 俺は次の日からバイトを始めた。ケイコは陸上部に正式に入部をした。カナエは読書部内に作詞課を創設した。ヨシオは放送部の部長になった。ケンジは毎日、聞き屋の元に顔を出していた。

 俺たちの行動はバラバラだったけれど、目的は一つだった。バンドを組み、ライヴをする。そして世界中に音楽を届けることだ。

 バンド名は決まっていた。ポップンロール。意味なんて誰かがきっと後からつけてくれる。ケンジがそう言って名付けたんだ。

 俺は単純にポップなロックンロールだと感じた。ケイコはホイップいっぱいのロールケーキのような甘さを感じた。カナエはバネのように弾けたいなと言った。ヨシオは、ポップコーンって美味しいし、作るのも楽しいよねと言ったよ。

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