第2話

 中学校の入学式が終わり、俺達五人はいつものように集まった。

 俺は空を飛ぼうと思っているんだ! そのためにさ、陸上部に入ると決めたよ。

 ケンジのその言葉に、なぜだか俺たち四人は、いいねぇそれ! なんて言ったんだ。馬鹿げた発想だが、ケンジならできるって思ってしまうんだよな。陸上と空を飛ぶことのつながりは全くの謎だけどな。ケンジは空を飛ぶ手段として、自転車を選んだ。自転車部のない中学校だから足を鍛えるための陸上部なのかも知れないが、ケンジが選んだ種目は走り高跳びだった。あいつは単純に、飛びたかっただけなんだよ。自転車で空を飛ぶために陸上部を選んだんじゃないってことだよ。陸上部に空を飛べる種目があると知って飛びついただけなんだ。

 空を飛ぶ気持ちよさは感じられたようだった。ケンジは、とても綺麗にバーを飛び越える。身長が思うように伸びなかったケンジは、走り高跳びの選手としては抜群にチビだったが、最終的には県大会に出場をしている。市の大会での上位の者しか出場できない大会にな。まぁ、ケイコは全国大会に出場しているんだが、それとは比べないでほしい。ケンジは走り高跳びの全出場者の中で、一番のチビだったんだ。他の種目でもそうだが、走り高跳びほどに身長差がものをいう種目はなかったよ。

 俺達が入った陸上部は、全国レベルの強豪だった。中でも短距離が特に有名だった。公立の中学校っていうのは生徒側に選ぶ権利はなく、育った町の中学校に強制的に入学させられる。まぁ、私立の学校を選ぶこともできるが、俺達にはその学力はあっても経済力と想像力がなかったんだよ。なんてな。

 俺達が通う中学校は、山の中腹にあった。登下校の際、必然と山登りをしなくてはいけない環境にあり、足腰が鍛えられるんだ。その結果だって、俺は考えている。中学校の近所に住んでいる連中は、普段の生活では山登りをしているものの、やはりその量が少なく、他の生徒に比べて体育の成績は低かった。

 俺がそうだったんだよ。小学校時代は毎日のように山を降りて遊んでいたが、中学校に入り部活を始めてからは、家との往復だけの毎日が増えていった。ケンジや他の連中はみんな山登りをして登下校していた。その差が出たんだって、俺は思うようにしている。

 俺は特にやりたい種目もなく、顧問の先生が決めた走り幅跳びを専門にすることになった。ヨシオは長距離だった。ケイコは短距離でリレーのメンバーにも選ばれていた。カナエはハードルだった。

 しかし、ケイコとケンジ以外は、大会にさえ出られなかったよ。陸上部の顧問はその世界じゃ有名人だったんだ。陸連の次期会長候補だって噂を聞いたことがあるよ。俺達の中学校が強豪だったのは、その顧問の力もあってこそだと言われている。


 中学時代のケンジは、一部のおかしな連中から嫌がらせを受けていた。俺達の中学校には、近隣にある四つの小学校から集まるそこそこ巨大な学校だったんだ。全校生徒数が千二百人程度だったはずだよ。一学年に四百人もいるんだ。おかしな連中がいて当然なんだよな。

 もちろんケンジがやられっ放しってはずもなく、おかしな連中は仕返しをされているんだが、奴らは本当に馬鹿だから、やられてもなお威張り腐っていた。そんな奴らをケンジは、それ以上は相手にしていない。俺達にも助けは求めてこなかったから、正直詳細は知らないんだ。ただ俺は、何度かそんな連中が大勢でケンジを囲っていたのを見たことがある。ケンジはまるでそんな連中が見えていないかのような態度をとる。数に任せてケンジに絡んでいるようだが、ケンジが少しでも本気になり睨みつけると、そいつらはまるで十戒の海のように真っ二つにケンジの通り道を割って作っていた。

 陸上部内でのケンジは、とても一生懸命だった。全体練習が終わると、ひたすら飛び続けていたよ。俺は正直、ケンジがなにを目指しているのかが理解できなくなっていた。ほとんど休みのない部活動の合間に、どうやって空を飛ぶんだって思ったよ。走り高跳びで満足しているじゃないかとも感じ始めていた。

 けれどケンジは、確かにそのブレない意思を形にしようとしていたんだ。五時過ぎまでの練習後、一度家に帰ってから自転車で山を駆け登る。土日も部活はある。しかし、それ以外の時間はひたすら自転車を漕いでいた。

 ケンジが本格的に空を目指して動き出したのは、最後の年の県大会が終わってからだった。陸上部の全体としての大会は秋で終わりだが、冬には駅伝が待っている。ヨシオ以外の俺達四人は、半ば引退状態だったんだ。好きなときに来て、練習に参加をする。それが許されていた。

 ケンジは山の頂上に広がる公園で、自転車に羽根とプロペラをつけての練習を始めた。プロぺラは前カゴの前に取り付けてあった。直径で一メートルはあったんじゃなかと思うよ。動力はゴムだが、風の力で回転は増していく。羽根は二組、前カゴから突き出ている大きめの羽根と、後ろの荷台に小さめの羽根が取り付けてある。ケンジは公園内の坂道を、何度も降りてはその角度などの調整をしていた。

 ママチャリを使用していたのは、ケンジなりのこだわりだったようだ。適度な重みとバランスの良さが空を飛ぶにはピッタリだと言っていたよ。

 ケンジの計画では、頂上から一気に駆け下り、中腹の崖から空へと舞い上がる予定になっていた。崖の下には田んぼが広がっていて、その先が川になっている。失敗しても大きな怪我にはならないだろうと笑っていたよ。


 中学時代のケンジは、本気でイカれていたんだと思う。頭がよくて勉強もよくできたんだが、授業中には椅子の背もたれに腹をつけて座り、教壇に背を向けて後ろの奴と話をする。俺は二年生のときに一度だけ同じクラスになり、その被害に遭っているんだが、先生は注意をしてくれない。というか、できないっていうのが正解だな。ケンジのその姿勢は一年生の夏休み明けから始まった。最初は後ろの席の奴に勉強を教えるためだったんだ。数学の授業だった。その先生は、自分勝手にしか授業を進めない。分からない奴は置いてけぼりだよ。そのときケンジの後ろに座っていた奴は、頭は悪くないんだが、ちょっとばかり理解に時間がかかるんだ。それでいてやる気は人一倍で、当初はしつこく先生に質問をして、怒りを買っていた。他の生徒の迷惑になるからと、その先生は全ての生徒に対して授業中の質問を禁止にしたんだ。

 ケンジはそんな奴に対し、後ろ向きで丁寧に勉強を教えていたんだ。授業を受ける態度としては最悪だよな。当然先生は怒り狂っていたよ。

 大声を出してるわけでもないし、誰にも迷惑はかけていませんよね? むしろ俺は、こいつに勉強を教えているんですよ。先生のお手伝いをしているんですから。

 ケンジのそんな言葉に、教室中が凍りついた。お前な・・・・ 先生の声は震えていた。その手も震えていたよ。殴るんじゃないかって、誰もが思ったそうだ。

 するとケンジは立ち上がり、先生に顔を近づけた。テストの点数で判断するってのはどうですか? 俺とこいつ、二人ともが平均点を越えれば文句はないですよね? 授業の邪魔はしませんよ。後ろ向いているくらいどうってことないでしょ? それくらいのことで先生の集中力が切れるはずもないですよね。立て続けにそう言った。そして教室内を見回し、みんなもそれでいいでしょ? そう言ったんだ。

 先生は唇を震わせながら頷いていた。なんだかよく聞き取れない独り言を、その日一日呟いていたって噂だよ。

 数学の授業が始まると、ケンジは背を向ける。後ろの奴に、ケンジは授業中にしか勉強を教えなかった。それでじゅうぶんだと思っていたようだ。そしてテストが終わり、結果が発表された。ケンジは百点だった。後ろの奴は九十点だ。平均点は六十点を切っていたよ。

 そのテストは難しかったよ。意地悪な先生で、まだ習っていない部分にまでテスト範囲を広げていた。馬鹿だと思うよな。そうすれば平均点が下がるのは必死だ。ケンジとしてはやりやすくなるんだよ。元からケンジは、先生が言う範囲とは関係なく勉強を教えていた。授業中だけでも、俺達普通の生徒の倍の内容を勉強していたんじゃないかな。ケンジは教えるのが上手かったし、後ろの奴も無理なくケンジについていっていたんだ。

 しかし、当然というか、カンニングを疑われたよ。先生はしつこいくらいに監視をしていて、カンニングなんてできっこないことは分かっていたはずなのにだ。前にいるケンジの答えを見たんだと言い張った。

 その後も数学の先生は認めていないが、カンニングなんてしていないことは他の先生たちが認めていた。後ろの奴は、数学以外でも以前からは想像できないほどの高得点を取っていたんだ。しかも、ケンジとは違う答えで正解を出していたため、カンニングじゃないと証明されている。


 ケンジはテスト後も、席替えをしてからも、他の授業でも後ろ向きで授業を受けるようになった。ケンジの個人授業が開催されていたってわけだ。後ろの奴が拒んだり、先生が拒否をすると、ケンジは机にうつぶせて時間いっぱい居眠りをしていたよ。それでもテストの点数がいいもんだから、先生達は相当困っていたな。しかも後ろの奴の成績を上げてくれる。認めざるを得なくなっていたんだ。

 当然というか、ケンジは先生から嫌われていたよ。認めるっていうのと好意を抱くってものはまるで別物なんだよ。俺は甲子園のあいつを今では認めているが、好意はこれっぽっちもない。そういうことだよ。

 陸上部の顧問からも、ケンジは嫌われていたんだが、俺と同じクラスだったときには担任のおばちゃんからも大いなる嫌がらせを受けていた。

 ケンジは嘘が嫌いで、先生相手にも決して引かない。なんでそんな嘘をつくんだと平然と立ち向かっていく。

 あの日のケンジは、いつも以上に興奮をしていた。担任のおばちゃんは社会科の先生で、その日は職業についての勉強をしていたんだ。将来どんな職業に就きたいかなんていう小学生に対するような質問をされたんだが、ケンジは真面目に答えたよ。

 外交官になりたいって、ずっと思っています。そのために英語の勉強をしています。そう言っていたよ。

 するとおばちゃんは、そんな仕事はありません! そう一喝したんだ。 あなたはふざけすぎです。もっと真面目に考えなさい。そう付け加えた。

 あんたさ、それでも教師かよ。自分が無知だからってな、それを生徒に押し付けるなよ。いくら教師だからってな、許せない非常識もあるんだよ。外交官も知らないなんて、あんた本当に大人かよ。

 ケンジは相当怒っていたよ。どんなに理不尽なことを言う大人にだって、決して敬語を忘れないケンジだったが、このときだけは忘れていた。そうだよな。あんな言い方をされれば、俺だって怒るだろうな。子供だと思って見下した言い方をし、さらに間違ったことを押し付けてくるんだ。当然の怒りだよ。俺以外にも、多くの生徒がそう感じ、訝しげにおばちゃんを見つめていた。

 先生に対してそんな言い方はないでしょう! おばちゃんはそう言い、ケンジの頬を引っ叩いた。

 ケンジはその行動に驚き、呆れた。この大人は本物の馬鹿だと感じたようだ。自分の無知を他人のせいにしてプライドを保って生きて行く。そういった種類の人間だと悟ったんだ。

 ケンジはその日から、おばちゃんのことを相手にしなくなったんだが、おばちゃんの方からケンジに突っかかってきたんだよな。


 この際だから言いますけど、私がもし男だったら、この子のことを引っ叩いてますよ。この子の態度はそれほどまでに悪いんです。

 三者面談の際、おばちゃんがそう言ったらしい。ケンジの母親は、ただただ謝っていた。ケンジもその場では、なにも言わなかったんだ。本当の理由は分からないが、母親の前で揉め事を起こすのは得策じゃないよな。

 次の日の朝、ケンジはおばちゃんの前に立ちはだかった。そして、

 俺の悪口とか言うのはいいけどさ、嘘をつくのは反則だろ? そう言ったんだよ。

 おばちゃんは面を食らっていたよ。まさかケンジがそんな反応を見せるとは思ってもいなかったようだ。おばちゃんからすればだが、嘘をついている意識すらなかったようだからな。だからこそ、ケンジの言葉にハッとしたんだよ。そしてすぐ、職員室に戻り、ケンジの家に電話をかけた。嘘をついてごめんなさいと言ったようだ。ケンジに対しては、最後までごめんの言葉は落とさなかったけれどな。

 ケンジの母親は、そんなこと気にしないで下さい。そう言ったんだ。悪いのはうちの子ですから。そう付け加えてね。

 そんな事件のすぐ後だったと思うんだが、ケンジは陸上部をクビになっているんだ。理由はただ放課後に飴を舐めていたってだけだよ。

 他の生徒も一緒になって飴を舐めながら歩いていたんだ。そこに俺はいなかったよ。ケンジ以外は陸上部の人間じゃなかった。顧問の先生は、早足で近づいてきて、ちょっと来いとケンジの腕を引っ張って職員室の隣の、職員用トイレに押し込んだ。出て来たときのケンジは、頬骨のあたりを青く染めていた。

 ケンジはその顔のまま、その日の部活動に参加をしていた。俺達はなにも聞いていなかったので、その後の事態なんてまるで予測ができていなかった。青痣についても、電信柱にぶつけただけだと、当初は言っていたんだ。現実にケンジは、俺と一緒に歩いているとき、電信柱にぶつかった過去がある。

 おいケンジ! なんでお前がここにいるんだ?

 部活動後のミーティングで、顧問の先生がそう言った。

 ケンジはその言葉を無視した。帰っていいぞ。お前はもう陸上部員じゃないからな。顧問の先生はそう畳み掛けてきたよ。

 それでもケンジは無視を続け、そこに居座った。次の日からも、普通に練習をしていたよ。ミーティングでも、顧問の先生はなにも言わなかった。

 ケンジがクビを言い渡されたのはそれが初めてじゃなかった。それ以前にも一度、クビになっているんだ。

 その頭、どういうつもりだ?

 顧問の先生はそう言うと、ケンジの髪の毛を掴み、洗面所に向かった。そして蛇口の下にその頭を突っ込み、蛇口を回した。

 整髪料は校則違反だって知ってるだろ? お前はもう今日から陸上部に来なくていいからな。

 ケンジの頭を動かないように押さえつけながら、顧問の先生はそう言った。

 ケンジは放課後、当然のように陸上部の練習に参加をしていた。顧問の先生もこのときはなにも言わず、時折ケンジを睨むだけだった。。次の日ケンジは、前日と同じように髪の毛にベッタリと整髪料をつけて登校してきた。そんなケンジの姿を見て、顧問の先生は、今日はなにも付けていないな。その方が断然格好いいぞ。なんて言っていたよ。

 ケンジが顧問の先生にそんな注意を受けたのは、数学の先生と揉めた翌週のことだった。


 ケンジがイカれていたのは、なにも先生相手にだけではなかった。同級生の馬鹿どもにもそうだったが、先輩への対応はさらにイカれていたよ。

 俺達が通っていた中学校では、体育祭での応援合戦が名物だったんだ。どういうわけか、住んでいる地域で四つの組み分けをしていた。自然と同じ小学校出身者が集まる仕組みになっていたんだ。

 体育祭の二週間前から応援団の練習が始まる。任意での参加と表向きは言われているが、現実は全員参加だ。部活動もその時間だけは休んでいいことになっている。当然陸上部は、その後に練習が待っていたけれどね。

 応援団の練習には、おかしなしきたりがあった。最初の三日間は、別の地域の先輩が一年生を指導するんだ。二年生が主になり、三年生が監督役となる。日替わりで別の地域の先輩がやってきて、一年生を教育する。そういうテイでの公式なイジメだよ。

 ケンジは一年生のとき、そんないじめに耐えた。やられているだけっていうのは悔しいが、耐えることに意味があると感じていたんだよ。俺だって同じだった。理不尽だが、そこで逃げ出したら負けなんだよ。

 ちなみに応援団は、男女別で練習をする。女子も男子同様にいじめが行われている。このことは先生連中もみんな知っていた。俺は一度先生連中が話している言葉を聞いたことがある。転任したばかりの若い先生が、あれはちょっとやりすぎじゃないですか? なんてことを言うと、もう一人の先生は、あのくらいやるからこそ意味があるんですよ。上下関係の厳しさを教えるのは、生徒同士での方が効果があるんですよ。その言葉を受け、若い先生は、そういうもんですかねぇ。なんて言って笑っていたよ。

 二年生になり、ケンジはイカれた行動を取ったんだ。一年生を指導する際に、三年生の見本を見せましょうなんて言い、上辺だけの言葉で三年生を持ち上げ、その気にさせた。そして三年生が見本を見せたとき、ケンジが大声で、そうじゃないだろ! もっと真面目にやれ! そう喚きながら三年生の何人かのケツや足を蹴飛ばした。

 俺達二年は騒然としたよ。三年生も突然の出来事にどうすればいいのか分からず、ケンジの指示に従っていた。一番驚いていたのは一年生だ。新入生いじめの噂は聞いていた。まさかの事態に、全員が固まっていたよ。

 ケンジの行動につられて三年生にきつく当たる奴は、残念というかまっとうというか、一人もいなかった。けれど、ケンジに逆らう三年生もいなかったのは不思議だよな。それほどまでにケンジは狂気じみていたってことだ。

 ケンジは三日間、同じ行動を取った。三年生からは相手にするにはおかしな奴だと敬遠され、同級生からは危険な奴だと恐れられ、一年生からは格好いいと尊敬された。


 そんなイカれていたケンジは、当然女子からの人気が低い。俺はずっとそう信じていたんだ。現にケンジに彼女なんていなかったし、ケイコとカナエから聞く女子からの評判もよくはなかった。それなのに、ケンジは影でモテていたらしいことを知ったんだ。悔しくて俺は、あれは俺が貰ったんだと後から嘘をついて謝っている。母親にあげたと言っておいたんだ。ケンジはきっと、信じている。

 県大会では、プロのカメラマンが会場をうろついている。選手の写真を撮り、各学校に送ってくれるんだ。俺達の中学は出場者が多く、三十枚くらいは送られてきたよ。顧問の先生はそれを、廊下の壁に貼りだしたんだ。ケンジの写真もその中にあった。ケンジはその空中姿勢がとても美しい。あれほど嫌われていた顧問の先生からも褒められている。カメラマンが撮ったその写真は、そんなケンジの美しさを完璧に捕らえていた。

 一週間の展示後、その写真は自由に持ち帰っていいと言われた。ケンジは自分が飛んでいる姿を見るのは初めてで、その写真が貰えることを楽しみにしていた。当然のことだが、写っている本人が貰えると誰もが考えていたはずだよ。俺もケンジもそう思っていたよ。実際ケイコは、自分が写った写真を手に入れている。

 俺はケンジと一緒にその写真を取りに行ったんだが、そこにはあるはずの写真がなかった。ケンジ以外の写真はまだ数枚残されていた。誰が盗んだんだって思ったよ。ケンジへの嫌がらせかとも思ったが、そんなことをしても誰も得しないだろうと思ったよ。

 まぁ、仕方がないんじゃない。ケンジがそう言った。きっと俺のファンじゃね?

 そんなわけないだろと突っ込みを入れようとしていると、背後から後輩の女子に声をかけられた。

 ケンジさんの写真貰ってもいいですか? そう言ったのは、見たこともない女の子だったよ。とても可愛いが、陸上部でもなければ同じ小学校出身でもない。ケンジもその子のことは知らない様子だった。

 残念だけど、ないんだよね。ケンジがそう言うと、その子は、えぇー、さっきここを通ったときはあったんですよ。なんて言ったんだ。

 やっぱり誰かに先取りされちゃったんですね。悔しいなぁ。誰かな? ケンジさんって、後輩からの人気凄いんですよ。

 そんなことを言われ、ケンジは満更でもない笑顔を見せた。そして、へぇー、そいつは嬉しいよ。なんて言っていたよ。俺はふざけんなよとケツを蹴飛ばそうかと考えたが、可愛い子の前だったんで我慢しておいた。

 後日ケンジは、ほんの短い期間ではあったが、その子と付き合っていたんだ。あまり進展はしなかったようだけどな。別れることになった一番の原因は、空を飛ぶことに夢中だったからだよ。まともな人間なら、辞めさせようとするだろうからな。あいつを理解できるのは、家族以外ではきっと、俺達四人だけだろうと思うよ。


 明日決行すると、ケンジが言った。そいつはめでたいなと、俺は言う。これからしばらく入院生活だ。学校が平和になるよ。そう付け加えると、ケイコとカナエも、ヨシオも頷いた。

 そんなに心配するなって。俺が怪我なんてするかよ。生きるか死ぬかだ。まぁ、期待してくれよな。

 ケンジはそう言い、缶ビールを口に運んだ。

 中学生のくせにって、今では思うよ。いくら壮行会だと言っても、褒められたことじゃないよな。そんなことは分かっていて、俺達はヨシオの家に集まったんだ。勘違いはしないでくれよ。ヨシオの父親が酒を勧めたわけじゃない。俺達が勝手に酒屋で仕入れたんだ。飲み終わった空き缶もバレないように外のゴミ箱に紛れさせたよ。

 こんなことを言うのはなんだけど、酒の味なんて俺達にはどうでもいいんだ。大人達だってそうだろ? 楽しいひとときに、酒を飲む。ジュースでも構わない。ようはみんなで集まって盛り上がりたいだけだ。酒なんて、飾りにすぎないんだ。

 とは言っても、中学生の身体はまだ、酒に慣れてはいなかった。ヨシオの部屋でのお泊まり会はいつものことで、月に一度は五人で集まっていた。俺たちの中では一番大きな家に住んでいて、部屋も広い。まぁ、五人もいるとそれほど広いとは感じないんだが、俺の部屋の倍はある。

 酒を飲んだのは実はこの日が初めてだったんだ。俺達は各自で食事と風呂を終えてから集まり、酒を飲みながら翌日のことを中心に話をする。っていう予定だったんだが、アルコールの力って予想以上に強いんだよな。俺達は全員、ほんの数口飲んだだけで眠ってしまったよ。

 翌朝目覚めると、ケンジの姿がなかった。あいつは一人で飛ぼうとしてたんだ。後で聞いたんだが、万が一の事故のとき、俺達にまで責任が降りかかっては困ると考えたようだ。バカなやつだ。そんな責任、俺達にはどうでもいいことだ。ケンジがバカなことをするってことは、俺達がバカなことをしているってことなんだよ。家族ってそういうもんだ。いいことも悪いことも、共有してこそなんだよ。

 俺達は慌ててケンジを追いかけた。行き先は分かっていたからな。ヨシオの母親が一階の廊下にいたのでケンジのことを聞くと、三十分くらい前に出て行ったわよ。なんだかとても楽しそうな笑顔だったわ。そう言った。

 正直やばいなって思ったよ。ケンジは覚悟を決めている。川に落っこちて頭を打ち、血を流し海へと流される姿しか浮かんでこなかった。

 俺たちはとにかくケンジが飛び立つ予定の崖に向かおうとしたんだ。ヨシオの家は川沿いにある。川沿いを走り、田んぼを超え、崖の上へと繋がっている階段を駆け上がった。

 そのときだよ。うおぉーなんていう叫び声が空から降ってきた。

 見上げると、自転車に乗ったケンジが空に浮かんでいたよ。

 誰がなんと言おうと、俺たち四人は見たんだ。ケンジは確かに、空を飛んでいた。


 俺達が目撃をしたのは、階段を半分ほど登ったときだった。叫び声と同時にケンジの自転車が崖の上から飛び出してきたんだ。プロペラはしっかり回っていたよ。ほんの一瞬だったかも知れないが、俺達の目には、空を飛ぶケンジが映ったんだ。数秒間の飛行だってケンジは言い張っているが、俺達にも最初はそう感じられたんだが、現実はあっという間で、一秒も経ってはいなかった。

 崖と言っても、いわゆる断崖絶壁ではなく、斜め六十度ほどの緩やかな崖だった。しかも、草木が生えていた。ケンジの自転車は、ストンと崖に落ちたんだが、なんとかバランスを保って着地した。結局はその勢いに耐えることができなく自転車から身を剥がされ、木に引っかかるまでの数メートルを転げ落ちていったよ。自転車は勢いのままに田んぼまで滑り降りていった。途中で幾度も木にぶつかりながらね。

 俺達四人は、その場でしばらく固まっていた。身動きができなくなったんだよ。正直、ケンジの大怪我は免れないと感じていたんだ。下手したら死んでいるかもとも思ったが、バカはそう簡単には死なないから助かるよ。

 自転車が田んぼに落ちた後の静けさがどの程度続いていたのかは記憶にないが、突然の笑い声がそれを破った。ケンジは一人、大笑いを始めたんだよ。

 ヒャハヒャハ笑いながら、イッテェなんて言葉を途中で挟む。俺達四人は誰にともなく顔を見合わせ、あのバカァ、全くもう! なんてそれぞれに呟き、崖の中に入っていった。

 ケンジは大の字でそこにいた。あちこちに擦り傷はあったが、大した怪我ではなさそうだった。安心した俺は、ケンジにこう言った。

 もう一度挑戦してみるか? 今度はケンジも一緒に田んぼに飛び込もうぜ。チャリンコだけじゃ可哀想だろ。

 あいつは笑いながら呻いたよ。やめろって、変なこと言うなよ。肋の辺りがイテェんだよ。そう言うとまた、笑っては呻いてを繰り返していたよ。

 俺達四人は、ケンジが笑いそうな言葉をわざと落として楽しんだ。心配させた罰ってやつだ。こればっかりは仕方がない。

 ケンジは肋骨を三本折っていたようだが、治療法なんて特になく、普通に学校に来ていたよ。絶対安静って医者からは言われていたようだけど、ケンジにそんな上等な真似はできない。まぁ、俺達がそうはさせないんだけどな。あの日から二週間は、ケンジをいかにして笑わせるかに、学校中を巻き込んで夢中になっていたんだ。


 高校受験になんて、正直興味がなかった。俺は勉強なんて好きじゃないし、大学に行きたいとも考えていない。かといって、中卒で働こうとも思ってはいなかった。

 ケンジと一緒の高校なら、行ってもいいんだけどな。俺がそう言うと、だったら決まりだなとケンジは言った。そしてその日の放課後から、秘密の勉強会が始まったんだ。

 当初は本当に秘密だった。俺とケンジで部活後にケンジの家で勉強をするんだ。受験の半年前だったけれど、ケンジはまだまだ余裕だと言っていたよ。

 俺が目指した高校は、その学区では一番頭のいい学校だった。当然だが、俺がそこを目指したわけじゃない。ケンジがそこに行くと決めていたから、そうしたってだけだ。

 ケンジの勉強法は、単純だった。教科書を読んで、考える。それだけなんだ。覚えるってことを意識した勉強はしない。どうしてこうなるのか? どうしたらこうなるのか? それを考えるんだ。分からなくて苦しい気持ちになることもあったけれど、なにかを考えるってことは、とても楽しかった。

 俺はすぐに、結果を出した。テストで始めて百点を取ったんだ。そんな俺の異変に、カナエが一番驚いていたな。カナエはケンジとは違う本当の天才だったからな。勉強が苦手な俺を不憫に思ったのか、何度か勉強を教えてくれたことがあったんだ。けれど結果は出なかった。

 カナエは自分が頭がいいってことを理解していない。自分ができることを、他人ができないことに不思議がるんだ。ここがこうだからこうなるのよ。分かるでしょ? よく言うセリフだった。

 ケンジは違う。あいつはただ単純に頭がいいっていうわけではなく、どうすれば答えに辿り着くかを考えていて、その説明が上手だった。自分に理解できることを、当然のように他人が理解できているとは考えていなかった。もちろん、その逆もある。他人が理解できていても、ケンジには理解できないことがいくらでもある。ケンジはそんなとき、少しでも理解をしようと考える。勉強だけじゃなく、その他のことに対しても同様に。

 俺が志望校を口にすると、みんなが驚いた。けれど、その理由を聞くと納得する。だったら私もそうすると、ケイコが言い、私の志望校はもともとそこしかないのよとカナエが言った。ヨシオは、僕も勉強をすれば受かるかな? と、ケンジに向かって言っていたよ。ケンジは即答した。タケシより頭がいいんだから、問題ないってね。

 こうして俺たちは、五人揃ってこの高校に入学したってわけだ。なかなかにいい高校だよな。元々は女子校だったらしく、女子率が高いのが最大の弱点だよ。俺はあまり、甲高い声が好きじゃないんだ。ちょっと男っぽいハスキーな声が好みなんだ。ユウキのようにね。

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