▲6六奔獏《ほんばく》

 黒い巨大な駒たちが林立し蠢いている、僕らにとってはもう見慣れた、しかしまともに考えたら相当異様な光景の中、ひとり静寂を身に纏わせながらも同時にこちらを圧倒してくるかのような冷たいオーラを発しながら、その「人物」は佇んでいた。


 三十代くらいの痩身の男だ……整えられた黒髪は一筋はらりと、その聡明そうな広い額にかかっており、銀縁の眼鏡の下の一見柔和な目は、奥にぞっとさせるほどの鋭さを孕んでいる。


 身に着けた紋付羽織袴がしっくり馴染んでいるが、対峙しているだけで何というか「圧」を感じる。いったい……?


「ようこそ……我が居城へ」


 と、いきなりその男が口を開いた。どこか笑みを含んだかのようなその物言いに、僕以外の面々の顔がひきつったかのように見えた。皆、僕の許に力無く集まり、動きを止めてその男の所作に見入っている。どうしたっていうんだ。


「なぜ……貴方がここにいる」


 硬い声のまま、波浪田ハロダ先輩。さっきからずっとシリアスモードですけど。みたいな軽いつっこみすら入れられないような緊迫感が、その男と僕の仲間との間に横たわっている。


「『なぜ』? ……なぜねえ……ははは理由か」


 軽く握った拳を自分の口に当て、その男は相好を崩す。思わず笑ってしまったといった体で。余裕。こちらの焦燥やら驚愕とは無関係に、男は余裕という名の空気の中で微笑んでいる。異様。こいつからは……得体の知れない奇妙さを感じる。


 軽く僕らを睥睨すると、その男は力の抜けた表情のまま、口を開く。


「……決まっている。『二次元人』の地球征服。その足かけとしての日本侵略のためさ」


 しかし、さらっと言ってのけたその言葉は、普段から言動がアレだと指摘されている僕からしても、相当にイカれたものだった。ざわつく面々。泡食って思わず乗り出して来た、みたいなピンクの戦闘服が視界の左端に入ってくるが。


「冗談ですよね? 普段から『将棋星人』『将棋の星から来た異邦人』なんて畏怖と揶揄を込めて言われているから、その意匠返し……みた……いな」


 沖島オキシマが珍しく強い口調でそう言うが、徐々に尻すぼみになってしまっている。何だろう、皆、この優男に格別の畏怖を抱いているようだが。何か僕ひとりだけ取り残されているような気がして、不安になってきた。


「ははは。的を射ていたというわけさ。そいつも」


 あくまで自分のペースを乱さないこの人物に、僕はそろそろ苛立ちを感じ始めている。僕を差し置き、この場を進めること相成らん!


「お前はッ!! いったい何者だッ!!」


 最大限に張った腹からの大音声で誰何した僕。よし決まった。ここでイニシアチブを取り返し、いい流れのまま、この人物と対決するんだ!


 しかし、


「も、モリくん? モリくんモリくんモリくん?」

「え? ……えーと、え? いや、ええ? そこ?」

「知らへんこと……まさか、とかじゃあ、さすがに……えー、冗談には冗談で返すっていうあれ……あるのかわからへんけど、それなんよな?」

「いやでも……と金って、ほらアレだし……」

「……」


 僕以外の面子が固まってしまった。え? 


「……面白いねキミ。どうせこう名乗るのもこれで最後になるだろうし。改めて自己紹介しておこう。『先女郷サキオナゴウ ジュン』。将棋棋士さ」


 ………………あ、ああー、そうそうそうでした。「九冠」を全てを保持する将棋界の第一人者。知ってる知ってる知ってた! いくら僕がアレでもちゃんと途中からはピンと来てましたよ? ええーええー。でもね、あのー眼鏡のフレームがね? 知ってたのと違うかったから、ほら、ね? そういうことってよくあるよね?


「……いや、その……何でその貴方ほどのヒトがですね? ここにいて僕らと対峙しているのか、みたいなことを問いたくてですね、『何者か』みたいな発言になってしまったわけですよ、はは」


 僕の言い訳が、中空を摩擦力ゼロで虚しく滑り去っていく。「非国民?」「売国奴?」みたいな仲間の囁きを背に、局面打開のための妙手を、この時点で振り絞らなくてはならなくなっている自分を自覚し、全身を覆うスーツの中にじんわり嫌な汗が滲んでくる。

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