『理想宮』(4)
そして男は目を覚ます。
この夢は何度も見ている。恒例のパターンだった。どうせ夢なのだから、現実をそのまま繰り返さなくてもいいだろうにと男はいつも思った。
すでに男は老人と言っていい年齢になっていた。仕事もとっくに退職している。男は加齢にしたがって自分の感覚が鈍くなることを自覚していたが、こういった夢だけはなぜだかいつまで経っても鮮明なことが不思議だった。かつて娘と夢想した幻想の宮殿や彼女との読み聞かせで没入した架空の物語なども、なぜだか未だに色褪せない。
男は水を一杯飲む。
窓ごしに外を覗くと、月明かりが煌々と宮殿を照らし出していた。自分で造り上げた石造りの宮殿ではあるが、なんと幻想的な光景だろうと男は感動する。そもそも、あれは彼の創造性が創り上げたものというよりは、娘と一緒に歩いた宮殿なのだ。だから、どちらかというと、実際に見たものをそのまま石で再現したに過ぎなかった。
ちょっとした気まぐれで、老人はドアを開けて外に出た。庭の宮殿に向かっていた。
そして老人は思わず自分の目を疑った。
月の光を受けた宮殿が輝いているのだ。それに、彼自身が造ったよりも、もっと大きく見えた。あの日、娘と一緒に夢見た宮殿そのものだった。いったいなんの光なのか、眩しくは感じないのに、あらゆるところから光を湛えているような不思議な宮殿。荘厳であり、しかし慈愛を感じる美しい宮殿だった。
宮殿の庭を抜けると、入り口には召使いの悪魔や天使たちがいた。それぞれ老人に向かって会釈をする。老人もなにがなんだかわからないままに会釈を返した。
男は知っていた。入り口を抜け、階段を上り、廊下を抜けた先には、男と娘の寝室があるのだ。この宮殿を男は知っている。娘と夢想した、あの宮殿だった。
男は妙な直感を得ていた。娘がいる。この宮殿のどこかに娘がいるのだ。
老体に鞭打って男は駆ける。足が痛むだろうと思ったが、しかしまったく痛みはなかった。まるで若かりし頃のような感覚だった。
寝室のドアを勢いよく開ける。
「エマ!」
寝室もかつて夢想した通りの部屋だった。大きめの窓ガラスからは光が差し込み、薄いホコリがちらちらと光を受けて舞うのが見える。娘が大好きな天蓋付きのベッドもある。各国の名作を揃えた巨大な本棚もある。下から七段目の右から三冊目の本には実はギミックがあり、その本を傾けると隠し戸が開くのだ。隠し戸を抜けるとそこには小部屋がある。もともとは別の国に襲われた時に隠れるためのものだったが、彼の娘はいつも別の使い方をしていた。召使いたちにいたずらをして彼らを怒らせた時などに、彼女はその隠し部屋に駆け込むのだ。部屋に逃げ込んだはずの彼女を見つけられなくて、召使いたちは不思議な顔をする。そして召使いの天使や悪魔の怒りが静まったころに、少女はおずおずと小部屋を抜け出てごめんなさいと言いにいく。
男は知っていた。ここは、娘と男が過ごした寝室だ。
しかし、寝室にいると思っていた少女はそこにはいなかった。
男は部屋に足を進める。きっとここにいると思っていたのだ。しかし娘はいない。呆然としたまま、男はベッドに腰掛けた。およそ普通の庶民では一生体験できないであろう心地よい反発をベッドが返した。疲れが癒えるような感覚があった。ふわりとお日様の香りが浮かび上がっていた。
男は呟く。
「エマ、どこにいるんだい。今君はどこにいる?」
どこからともなく、娘の声が返ってきた。
「パパはいつもの寝室にいるのでしょう?」
「ああそうだとも、エマはどこだい」
「私はいつでも、そばにいたわ。いまもそうよ」
その言葉を受けた男は勢いよく振り返る。
そこにはエマがいた。ベッドに腰掛けている。隠し戸が開いているのが見えた。どうやら小部屋にいたらしい。
血色の良い顔で笑いかけてくる最愛の娘を見て、男は顔を綻ばせた。
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