『地下へのエレベーター』
『地下へのエレベーター』(1)
ボタンを押し間違えてしまった。
僕が行きたいのは地下一階だ。
なのに、一階のボタンを押してしまったようだった。いつの間にか一階のボタンのランプが点いていた。
僕はあわてて地下一階のボタンを押す。乗っているのは僕一人なのに、ボタンのランプが二つ点いている。おかしな状況だった。
エレベーターの駆動音が聞こえる。ほんの僅かに体が軽くなったような感覚。僕を乗せたエレベーターのカゴが下りているのがわかった。
まず一階のボタンを二回素早く押してみる。ランプは消えない。長押ししてみる。ランプは消えない。
どうやらこのエレベーターは押し間違えたボタンを取り消す機能が無いようだった。
やってしまった。途中で一階に降りたい人が乗ってくればいいのだが。
しかし僕の気持ちとは裏腹に、エレベーターはすんなりと下りていってしまった。急いでる時はたくさん乗り込んでくる癖に、こういう時はなんで誰も乗ってこないのかな。
僕はため息をつく。
――チーン。
一階に着いてしまった。
ああ気まずい。さっさと閉じてしまおう。
僕はドアを閉めるボタンを押す。
「ちょっと!」
腕が伸びてきて、閉まるドアを掴んだ。ドアはそれを検知して閉まる動作を止めた。一階のエントランスにいたらしい女が立っていた。
「すぐに閉めないでくださいよ。待ってたんですから」
おそらく女は上に行きたいのだろう。
「上ですか?」
「そうですよ」
女は憤慨した様子だった。そんなに怒られても困る。これに乗ったところで上に行けるわけじゃないし。
あんまりにも勢いよく責められるものだから、僕もちょっとムッとしかけたが、同じマンションの住人と争うのは得策じゃないとわかっている。ただ、このまま一方的にやり込まれるのも面白くない。
ピンときた。
以前聞いたことがある。このマンションのエレベーターには老女のお化けが出ると。その噂を利用して、この女に一杯食わせてやろう。
「ちょっと待ってくださいよ。こちらのお婆さんは一階で降りますけど、僕は地下に行くんですから」
僕はそう言いながら自分の後ろのあたりに手のひらを向ける。エレベーターに乗っているのは僕一人だ。そこに誰がいるはずもない。
僕のパントマイムを見て、女は青ざめた顔で気の抜けた声を発した。
「……は?」
おそらく彼女も、僕が聞いたのと同じ噂を聞いたことがあるはずだ。彼女は僕が手のひらで示した先を見て、そこに誰も存在しないのを確認したのだろう。
「ほら、お婆さん。どうぞ降りてください」
僕は見えないお婆さんをエスコートして、エレベーターから出してあげるふりをした。
女はなにも言葉にならない様子だった。傍目には狂ったように見えるかもしれないが、お婆さんの幽霊が出るという噂を聞いたことがあれば、ちょっと信憑性が出てきてしまうのだろう。怯える彼女を見ると、先ほど怒鳴られた腹いせができたと思えた。僕はほくそ笑む。
「それじゃ、次のエレベーターを待ってくださいね」
「ちょっと、あなた……」
まだなにか文句を言おうとしているのだろうか。
僕は気にせずにドアを閉める。
女は僕を見たり、僕がさっき示した架空のお婆さんがいたあたりを見たりしていた。忙しない人だ。
たしかに、その老婆に魅入られた人はまるで神隠しにあったみたいに消えてしまうとの噂だ。あの女もそれが怖かったに違いない。
だけど、こういう噂にありがちな矛盾に誰も気付いていないのだろうか? だって、老婆に魅入られて神隠しに遭うとするなら、いったいそれを誰が伝承しているのだ? おかしな話だろう。矛盾している。だから、僕はこの話が怖いと思ったことがなかった。あの女の怯えようを見ると、堂々としている自分がなんだか誇らしく思えた。
エレベーターは下っていく。
怒鳴られてちょっとムッとしたが、こうもうまく仕返しができると非常にスッキリする。
エレベーターのボタンは地下一階のランプだけが点いている。最初から押し間違えなければ、一階であの女と出くわすことも無かったのに。まあ、結果オーライなんだけど。
エレベーターは下っている。
「…………」
おかしい。
いったいいつまで下りれば気が済むんだ。エレベーターの階数表示のパネルに目を向ける。
パネルには下方向を示した矢印が表示されているだけだ。
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