『VEIL』(3)
トム・ハーヴェイの大学生時代は、無難の一言に尽きた。
彼は教授に特別気に入られているわけでもないし、サークルで目立つ存在でもなかった。人と話すのが嫌いなわけではないが、話題のレベルを毎回相手に合わせるのはやや面倒だった。ハーヴェイからすると他人と関わることは無償のボランティアに他ならなかった。
彼の提出するレポートにたまたま目を通した教授(実はこの教授はほとんどの学生のレポートに目を通していない)は、面白いことを書くなとは思っていたが、授業中にそれとなくふっかけてみてもハーヴェイはいつも無難な対応に終始するから興味をなくしていた。
ある日、一般教養の講義の最中に、ハーヴェイは恐竜の絶滅についての考察が書かれた書籍を読んでいた。講義の内容は多数の学生に向けたものだからか、非常に低レベルだったため聞き流しているだけでも問題はなかった。教室もかなり広いから、後ろの方でハーヴェイが本に目を落としていてもたいして目立たないし、それを見たところで注意する講師でもなかった。その講師は、自分は講義する職務を負ってはいるが、学生に講義を強いる職務は負っていないという考えを持っていた。
トム・ハーヴェイは夢中で書籍に目を通している。いくつかの書籍を読んでみているが、著者によって癖がかなり違うなと思っていた。文章から思考の傾向はかなり読み取れるから、どの程度まで信頼できる筆者なのか推測することがハーヴェイにも可能になってきていた。一般に、本を読むことは大事だと言われているが、それは鵜呑みにすることを意味しないとハーヴェイは知っていた。必要なのは複数の意見や主義や主張を見聞きしておくことだ。その存在をまずは認知しておくことが肝要なのだ。理解できたと思い上がった瞬間から、不理解は始まるのである。
そのため、ハーヴェイは書籍を読みながら様々な要素を着実に確認していっていた。彼が必要とするのは情報であり、彼がしたいことは情報と情報を己が組み合わせることだった。
「一つの推測。隕石が落下し、大量のゴミが地球に膜を張った。それらが長く日光を遮り、動植物の生態系がなし崩し的に瓦解した。そのために、絶滅したという説」
ほとんどの人間は、その書籍を読んでもトム・ハーヴェイと同じ地点に思考を着地させなかっただろう。隕石が落ちると、それで地球が割れるのでなくても、かなりまずい事態なのだろうと考えるのが関の山だ。しかしハーヴェイは違った。
彼は突然ノートになにかを書き留め始めた。小さな声で呟きながら、紙を破るような勢いで筆を進めている。
「球形。一瞬で包み込むギミックが必要だ。球の一点に力を加えたらどうだ? 風船を爆発させる要領で。そしたら内部に仕舞われていたギミックが、まったく反対に作用する。一瞬で円を描くように球状に広がる膜は、反対側で接着する。膜の完成だ」
彼が本当に恐竜の絶滅に関する本を読んだのか怪しく見えるようなことを彼は書き連ねていた。飛躍しているようにしか見えない。しかしそれらは彼の中で確実に繋がっていた。
「まずは小さいものを作ってみればいい。たぶん大丈夫だ。作れると思う。そしたら今度はそれを売りつければいい。……そうだな。テントの代用品とかって感じで。アウトドア企業とかが良いだろうな。うん。そこそこの値段で買い取られるだろう。名前はどうする? ヴェールとかでいいか。膜を張るんだし」
彼は思考を急速に巡らせながら、ノートにVEILと書き綴った。そして小さく呟く。
「売りつけた金でとんでもなくデカいVEILを造れるだろう。適当な研究所を建てて、そこで造ればいい」
彼は普通の人間に擬態するのが上手なほうだったが、根本的に人々が連綿と受け継ぎ守り育てている社会とは相容れない存在であることが明らかだった。
彼にとって大事なことは、自分の興味関心に正直であることだ。それが、他人に迷惑をかける可能性があるとか、倫理的に問題があるかもしれないというようなことは二の次でしかなかった。そういう感覚に欠けているわけでもない。だけど、彼は明確な自分の意思でもって、自分の気持ちを優先するのだ。だから、彼がそんなアイデアを推し進めたのは、純粋に探究心の為せる業でしかなかった。それがたとえ、傍から見るとどれだけ邪悪だとしてもである。
トム・ハーヴェイは書き殴ったノートをざっと見返して満足そうに頷く。
「地球に膜を張ったら、なにが起こるかな?」
ハーヴェイの発明の目玉は、そのギミックにあるのだ。膜を張るというよりは、膜が取り込む。ゆっくりと建設したりするならまだ対応のしようもあるが、一瞬で膜を張られては、各国は後追いの対応を余儀なくされる。
ハーヴェイは地球に張ったVEILを簡単に突破される心配もしていなかった。それより、光を失った地球がいったいどうなるのか、彼は気になってしょうがなかった。生態系はどのような変化を見せるのだろうか。それに、VEILをどうにか壊すことにしたところで、どうやって壊す? 空を支配するのは頑強な素材だ。下手に崩してそれらが落下してきたらどうなる? ちょっとやそっとの被害じゃ済まない。解決にはかなりの年月を要するだろう。そして、その年月だけで全世界の生態系はかなりの変化を見せるはずだ。
光の無い地球。真っ暗な地球。闇の世界。
待ち受けるファンタジーみたいな世界を想像すると、ハーヴェイは飛び上がって歌いだしたい気持ちになっていた。
ありったけの自制心を総動員したトム・ハーヴェイは、ノートを抱えて教室をあとにした。講師がそれをちらと見たが、特に声はかけなかった。
浮足立って構内を歩くハーヴェイのノートには、いくつかのアナグラムが書かれていた。すでにこの時点で、小さな球形のVEILという文字をアナグラムとして展開することを彼は考えついていた。
そして、ハーヴェイは自分のやろうとしていることが周りからどう見えるのかもわかっていた。だから、地球にVEILを張る時は、それを皮肉った文字を浮かび上がらせようと考えていたのである。
ノートにはいくつかのアナグラムが記されている。
VEIL、LIVE、そしてEVIL。
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