第五十三話 谷深くへ
「ここだね……」
イリアス達は谷を更に東に進み、やがて少し丸く開けた場所へと出た。南の山を見ると先程まで二峰見えていた尖った二つの山頂は重なり合い、一つの山のように見える。そこから視線を落とすと、窪みのような地形が見える。
「なるほど、こうして見ると保護色のようになっているけど……」
イリアスが南の崖下へと近づいていく。一見行き止まりのようだが、窪みの右手に僅かながら入り込める余地があった。
「ここからは馬を降りて進もう」
五名ほどの騎馬兵が馬上から降りる。そしてイリアスに続いて窪地へと進んでいった。
「これは……自然に出来た地形ではないですな……。それでいて新しいものでもない。ルシュ時代のものでしょうか」
ガトラが見上げながら呟く。先頭を進むイリアスが少し振り向いて答えた。
「どうだろう。ウルヴンが言うには昔はこの辺りも豊かな緑があったそうだよ。その頃の名残なのかも」
「ふむう……死の谷と呼ばれる今となっては想像も出来ない光景ですな」
一団はそれ以上言葉を続けることなく進む。曲がりくねった回廊のような地形は徐々に南へと抜けていっているようだった。ほどなく目の前に広がりが見えてくる。
「見て、ようやく抜けて──」
イリアスが言いかけたと同時に、その足元に矢が刺さった。びいん、と揺れる矢をしばらく見つめていたが、状況を理解すると視線を上げる。
「どんな軍勢が来たかと思えば……たったこれだけか。命知らずもいいことよ」
しゃがれた声が峡谷に響き渡る。それを合図に前方の左右──一段上がったようになっている岩場から二十名ほどの男たちが飛び降りてきた。その先頭に立つ男は一際大きく、この集団の頭目であることは明白だった。その後ろでは数人が弓をイリアス達の方に向け構えている。
「安心しな。出すもん出せば命まで奪おうとは思わねえ。俺たちは手荒い真似が嫌いだからな」
「……ここに根を張る盗賊たちですね。なぜこのような真似を……。街で働けば平穏で恵まれた生活も出来るのに」
「ほう……」
巨漢の頭目はイリアスの前へと進み出ると興味深そうにしげしげと見つめた。
「おめえみてえな坊っちゃんが兵を率いているのかい? どこの軍か知らんが、最近は人を集めるにも苦労すると見える」
頭目の言葉を合図に、その後ろからどっと笑い声が漏れる。イリアスはそれを気にした様子もなく、続けた。
「私達はただこの峡谷を南へと抜けたいだけです。黙って通してもらえれば手荒な真似もしません。今後干渉することもないことを約束します」
「おい、聞いたか。随分立派な坊っちゃんだ」
頭目が振り返り、男たちに声を掛ける。再び大きな笑いが起こった。頭目がイリアスの方に向き直る。
「いいか、状況をよく考えろ。てめえらに与えられた選択肢は二つ。荷物をまとめて置いてみっともなく逃げ帰るか、ここにてめえらの骸を捨て置くか」
「……どちらを選ぶつもりもありません。もう一度言います。黙って通してもらえれば手荒な真似はしません」
「ふうん……どうやら本気で痛い目に遭いてえみたいだな。おい、少しコイツらに──」
頭目が言い終わらぬうちにひゅん、と矢の放たれる音が鳴り響いた。それと同時にぎゃ、と複数の悲鳴が響き渡る。驚いた頭目が振り返ると、弓を持っていた男達の手に矢が刺さっているのが見て取れた。
「馬鹿な! どこから──」
言い終わらぬうちに、先程盗賊が現れた岩場の更に上方、崖の上から十名ほどの弓兵の姿が覗いた。その中にササクの姿も見える。
「さあ、選択肢を迫られるのはお前らの方だ。どうする? ここで降伏するか、骸を晒すか……」
ガトラは余裕の表情を浮かべ、剣の切っ先を頭目に向けてみせた。
兵達が盗賊を手際よく縛り上げた。不機嫌そうな顔で頭目がイリアスを睨んでいる。
「くそっ、よりによってこんな小僧に……」
「おい、自分の置かれている立場をわきまえろ」
ガトラが頭目の頭をぐいと押す。頭目はぐぐっ、と低い呻き声を上げた。
「……先程も言った通り、ボクらはあなた達に危害を加えるつもりはありません。ここを通してもらいたいだけです」
「ふん、だったらさっさと通っていけばいいじゃねえか。なんでわざわざ俺たちを縛り上げる」
「ええ、当初はそのつもりだったんですが……」
そう言うとイリアスはガトラの方を向いた。ガトラは黙ったまま首を横に振った。
「このまま進むには少し不都合があって……。あなた達に協力してもらいたいことがあるんです」
「……協力?」
訝しげに頭目が尋ねる。イリアスはこくんと頷いた。
「ええ。実は……」
◇ ◇ ◇
「……隊長、あれを」
兵の言葉に隊長と呼ばれた男は右前方へと視線を送った。砂埃の中に複数の人影が見える。よく見ると馬も数頭引き連れているようだった。
「怪しいな、何者だ」
「軍の類いではないようですが……確かめてまいります」
そう言うと、兵は数名を引き連れて前方へと向かっていった。その間にも隊は前方へと進む。ほどなく、先程の集団の元へと隊長は辿り着いた。
「分かったか」
「はい……なんでも先の戦いにおいて北方の村を追われた流浪民だと……」
「……北方? この北に集落などあったか」
「いえ、レト側からは何も聞いておりません」
「ふむ……」
兵の報告を受けると、隊長は前へと進み出た。辺りには酷い悪臭が立ち込めている。隊長は鼻を押さえ不機嫌そうな顔をしながら質問した。
「おい、この者が申したことは本当か」
集団の一人、ローブを被った髭面の男がそれに答えた。
「……はい……八十名ほどの者が点々と……タッド山脈の麓にて細々と暮らしていたものです……」
「それが、何用で南へと渡る……?」
「つい先日、山間にて大きな戦が起こりまして……我らは事が収まるまで身を潜めていたのですが、戦が終わり集落に戻ってみると……唯一の井戸には毒が投げ込まれておったのです。水なくしてあの地に住むことは出来ませぬ。仕方なく儂らはこうして彷徨っている次第。……どうか兵隊様!」
そう言うと、髭面の男はガッ、と隊長の両肩を掴んだ。
「お願いします。我らを……お助けくださいませ! このままでは全員野垂れ死んでしまいます!」
「……ぐっ、ええい、離さんか!」
隊長は乱暴に髭面の男を突き放した。
「我らは重大な任務を担い行軍中だ。これ以上つきまとうと容赦せんぞ! 自分たちの身は自分たちでなんとかせい!」
「お助けいただけないのでしたら……せめて南へ向かうことをお許し頂きたく……」
「ああ、ああ、勝手にせい。行軍の邪魔はするなよ」
隊長の言葉を受け、髭面の男は何度もぺこぺこと頭を下げた。
「さあ、兵隊さんの邪魔をせんようにな……」
そう言って、髭面の男達の集団は隊列の合間を縫って南へと向かった。近くを通られた兵たちはたまらず鼻を押さえている。その中にあって一人の兵だけが不思議そうな顔をして南へと通り抜ける集団を見つめていた。
「おい、どうした?」
尋ねる一人の兵に、怪訝そうな顔をした兵は首をひねりながら答えた。
「……いや、ずたぼろを纏った連中だが……馬はそこまで痩せ細ってないと思ってな……。それに……女子供達はどうしたんだ……?」
「水源をやられたんだ。先におっ死んだんだろう。いやあ、それよりも酷い臭いだったな。俺はもう絶対にそばに寄りたくないぜ」
そう言って兵は大げさに鼻を摘んだ。
「確かに……。しかし……何かおかしいような……」
兵が呟いている合間にも、流浪の民は南の地平線へとその姿を溶かそうとしていた。
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