第二十八話 天望む緑翠

 ──風が吹いていた。夜の帳が下りた街、石造りの建物の屋上に銀髪の男の姿が見える。彼は同じく石造りの簡素な手摺に右肘をかけ、左手で髪をかき上げると、目の前から歩いてくる人物に視線を送った。

「これは軍長殿」

「…シュローネ、でよい」

 銀髪の男──ウルヴンの横に立ち、目の前に広がる人影のない街並みに目をやりながらシュローネは言った。先ほどまでの甲冑は着ておらず、飾り立てた軽装具を身にまとっている。兜も外し、長いブロンドの髪を風になびかせていた。

「夜風に当たりに来た男と女がたまたま居合わせた、というだけ」

「なるほど」

 静かにウルヴンが頷く。

「確かに今宵の風は冷たく心地よい…それにしても」

 ウルヴンはシュローネへと向き直った。

「先程は若君をお助けいただいたようで、感謝いたします」

「…耳に入っておったか。大した事ではない」

 そう言ってシュローネは、再び目を閉じたまま風を受けるウルヴンをしばらく見つめ、尋ねた。

「そなた…謁見の結末が分かっていて陛下に陳情したか」

「さて…。何しろ頼る者のない流浪の旅です。何事にも必死ゆえ、あのような見苦しいところを」

 すました顔でウルヴンが答える。シュローネはそれを意に介した様子もなく話題を変えた。

「…ノイ=ウルのサジクラウ王が討ち死にした。私が独自に放っている密偵からの報告だ」

「そうですか…」

 ウルヴンは両手を手摺の上に置き、まっすぐ前方を見やる。

「そうなると私達の処遇にも少なからず影響しますね…。アイガー陛下に報告には上がらないのですか?」

 少し笑みを浮かべながらウルヴンが尋ねた。

「まだしっかりと裏が取れていないのでな。これは私の独り言だと思って聞いてもらえればよい」

 いつの間にか風は止んでいる。鳥たちの微かな鳴き声が星の明かりの下、こだましていた。

「数日の後、貴殿らをジェンマへと送り届ける予定だ。あくまでもタイクン殿を通じて供物を届けさせるという名目でな。グリバと申す者を帯同させる」

「…恐れ入ります」

「理由を聞かんのか?」

「理由、ですか…」

 シュローネの問いにウルヴンはしばらく思案した後、言った。

「では、なぜシュローネ殿は防都軍長に?」

 その質問があまりにも予想外だったのか、少し目を見開いたままであったシュローネはしばらくすると、ゆっくりと口を開いた。

「なぜ、か…。問われれば、任務だからとしか答えようがないが…」

 ウルヴンと同じように両肘を手摺に置き、シュローネは数多の星輝く空を見上げて続けた。

「私は混血なのだよ」

「…混血…ウカ族ですか?」

 表情を変えぬまま尋ねるウルヴンに、シュローネが頷く。

「父がウカ族の元将軍。母はエイレン族という少数民族の狩人の出だったそうだ。各地の反乱を鎮圧していた際に出会ったと聞いている」

「マハタイト興国よりの、民族同士の古くからの諍いについては伝え聞いています。今でこそ他族に跨っての婚姻はさほど珍しくなくなってきましたが、当時は周りの理解を得るのも大変だったのでは」

「…そう。だから理解など得ておらん。力のみを信じる父は、自らの辣腕で全ての意見と誹謗をねじ伏せた。その影で母の内なる思いは如何ほどであったか…。両親とも他界した今となっては知る由もないが」

 シュローネが頭を垂れる。遠くで誰かの喚くような声が聞こえた。酔った者が上機嫌に歌っているようであった。

「ともかく、私は父と同じように強くなる必要があった。若き日より父と共に軍に属し、各地で経験を積んだ。必死になって数年…今はこうして防都軍長という任務についている」

「…アイガー陛下は」

「もちろん知っている。ウカ族の純血である陛下にとっては面白くないであろうが…若き頃から父には頭が上がらなかったようだからな。居なくなって尚、こうして未だに父の庇護を受けられているというわけだ。陛下直属の防都軍とはいえ、一介の軍長でありながら宰相と同等に発言の機会を得られているのも、その辺りが関係している」

 少し自嘲気味にシュローネが言葉を続けた。

「もちろんそれだけではない。マハタイトにて圧倒的多数派を占めているのはゴウ族だ。ウカ族である陛下が王位に就いたことは、このマハタイトの歴史的にもかなり稀なことと言っていい。そして、数で劣るウカ族がゴウ族を力で抑え込むことは至難の業…。ゆえに民族間での対立を禁じるという大義を掲げることで軋轢を可能な限り生まぬようにしている。その狙いはともかくとしてな。…そういう駆け引きのもとに我らは…マハタイトの民は成り立っている」

 しばらくの沈黙。やがてウルヴンが口を開いた。

「シュローネ殿は…マハタイトという国をどうされたいと考えておられるのかな」

 シュローネがウルヴンに向き直った。ウルヴンは先ほどまでの笑みを隠し、まっすぐに彼女を見据えている。

「その質問…答える前にこちらからも問おう。貴殿らはこの乱世を…イセルディアをいかに生き抜くつもりか。イリアス殿下と共にどうあろうとされているのか」

「それは既に見据えていること」

 目を閉じ、しばし沈黙した後、ウルヴンは一片の迷いなく、シュローネに言った。

「イリアス殿下を…正史に名を残す天下の賢王に。このイセルディアを戦なき安寧の地に。そのために私は命を賭し、あらゆる手を尽くすまで」

 しばらくの沈黙の後、シュローネは口を開いた。

「聞けば、まだ十五の若者だと聞く。生まれ落ちた境遇にこそ同情はするが…いったい何が貴殿をそこまで動かすのか」

「…ふっ、そう言いながらシュローネ殿も見え始めているのであろう」

 微笑みながら闇に包まれる街並みに再び目を向けるウルヴンをシュローネは黙って見つめている。瞬く星々は彼の美しい──そう表現するのが最も適しているように思えた──横顔を照らし、まるでそれは一枚の肖像画を見ているようでもあった。ほどいたままの銀髪を左手で優しく撫で、ウルヴンは続けた。

「宰相殿の手からイリアス殿下の命をお救いくださったのも、こうして私を訪ねて来られたのも、全てはあの謁見の間から始まっている」

 どうしてギリの暗謀について知っているのか、なぜウルヴンを密かに訪ねてきたと分かったのか──シュローネにとっては最早どうでもよかった。ただ、自分の心の裡を見透かしたようなウルヴンの口ぶりは、彼女にとって決して心地悪いものではない…そう感じていた。

「グリバとおっしゃる御仁、どのようなお方でしょう」

 唐突なウルヴンの質問であったが、シュローネはその言葉に我に返ったようだった。

「あ、ああ…私の下であらゆる任務の補佐をしている。なかなか見どころのある男だ」

「そうですか」

「…出立の日には私も見送りに参る。その際にあらためてイリアス殿下にはご挨拶させていただこう」

「そうしていただけると私も嬉しい。そう…」

 ウルヴンがシュローネにあらためて向き直った。

「この街にはまさに、貴方にお会いするために来たのだと…今はそう思えるのです」

 再び風が吹く。鳥の鳴き声も、先程までの喧騒も静まり、夜は静かに更けていった──

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