第二十九話 再びの出立

 慌ただしい旅立ちの朝は、この地方には珍しく風一つ無い穏やかな日だった。

「…イリアス殿下、このようにご出立を急くことになってしまったこと、陛下御自らがお見えになれぬこと、あわせて心よりお詫び申し上げる」

 深々と頭を下げる甲冑姿のシュローネに慌てふためいた様子でイリアスが両手を振った。

「とんでもない!…ボクの命を救ってくれたこと、あらためてお礼を申し上げます」

「もったいないお言葉。…しかし私はあくまでもマハタイトを思い行動したまで。どうかお気になされませぬよう」

「…分かりました。そういうことにしておきましょう」

「はい。…間もなくグリバが参ります。今しばらくお待ちいただければ」

 まだ軽く頭を下げたままのシュローネは、少し置いてイリアスに話しかけた。

「イリアス殿下…一つ尋ねてもよろしいでしょうか」

「ええ、もちろん」

「昨日仰られた…人を信じるところに道が開くというのは…」

「ああ、あれは…」

 鳥の鳴き声に、イリアスは空を見上げる。小さな影は薄雲の中へと隠れ、もうその姿を確認することは出来ない。それをしばし見届けると再びシュローネへと向き直った。

「何か明確な根拠があるわけではないんです。人が持つ曖昧な感情…。しかし、そこに確固たる思いさえ備わっていれば…それは響き合い、お互いを結ぶことが出来る。それが絆となり、更に伝播していくのだとボクは思っているんです」

「それは…ウルヴン殿から?」

 イリアスが頭を振る。

「いえ。しかし…それ以上にウルヴン、それにガトラも…ボクへの接し方でずっと示してくれていたんだと今は感じています。ボクを見守り育ててくれた、村の人々も…」

「……」

「ここへ来るまでにも命を狙われることもありました。しかし、それ以上に周りにはボクを思い、ボクを助けてくれる人がいる。守り、導いてくれる人がいる。それに報いられるのはボク自身が人の力を信じ抜くことじゃないかと思うんです。きっとその思いは国や民族を超えていける。そう信じています」

「…それが殿下の、国を統べるための標というわけですか」

 シュローネの問いにイリアスは再び頭を振った。

「そんな大げさなものではありません。しかしこの先…ボクがどんな道を進もうとも、その礎として存在するものだと思っています」

 シュローネは口を噤んだまま視線を落とした。この若者はなぜこれほどまで──胸の中に何かざわめくものが生じるのを彼女は感じていた。

「…部下の者が遅れているようです。いましばらくお待ちいただけますと…」

「いや、大丈夫ですよ。天気もいい。気持ちのいい出立になりそうです」

 そう答えた後、イリアスはしばらく考え込むようにしていたが、やがて再び口を開いた。

「あの…ボクはまだ若輩者ですし、こんなことを言う立場ではないですが」

 イリアスの声に、シュローネはゆっくりと顔を上げる。

「…シュローネ、ぜひこの国…マハタイトを末永く守っていって下さい。貴方の国を思う心、王を思う心、そして民を思う心。短い期間でしたがボクにも十分に伝わってきました。対話で未来を切り開く…それは並大抵の覚悟で出来ることではありません。ボクに人を信じることについて聞いたのも、きっと…民との信頼を、王との信頼を築いて行きたいという貴方の希望と重なるところがあったからでしょう。その貴方の真っ直ぐな願い…。アイガー陛下にはきっと必要です」

 シュローネは呆然とした顔でイリアスを見つめている。イリアスは特にそれに気づく様子もなく続けた。

「昨日はウルヴンが随分と手前勝手なことを言いましたが…あれも、あくまでボクに現実を見せるためにと行なったことなのでしょう。ウルヴンの要求は叶いませんでしたが、代わりに多くのものを得られたとボクは思っています」

 そう言って、イリアスはにこやかな顔でシュローネを見直した。

「本当に短い間でしたが、この街に来れて良かった…。貴方達に会えて良かった。ボクもこの出会いを糧に成長を遂げられるよう頑張ります!」

「イリアス殿下…」

 シュローネは今まで見せたことのない笑顔でこくりと頷いてみせた。

「おい…」

「ええ」

 ガトラとウルヴンがその様子を少し離れたところで見つめながら頷き合う。

「私達の目に狂いはありませんでした」

「…おうとも。血筋だけではない、まさにレトの正統たる後継者よ」

 しばし談笑するイリアスとシュローネ。その様子を見守るウルヴンとガトラの元へ、男がガシャガシャと音を立て、走ってやって来た。

「──お待たせいたしました!ジェンマまで帯同させていただくグリバと申します。よろしくお願いいたします!」

 鎧の継ぎ目から覗く褐色の肌に、小柄で幼顔のグリバと名乗った男はそう言うと、ゆっくりと呼吸を整えている。

「あ…貴方は…」

「ええ、先日もお会いしましたね。イリアス殿下とは知らず、その節は大変失礼しました」

 にこやかな表情のままイリアスに頭を下げるグリバへ、シュローネが話しかけた。

「グリバ、頼むぞ。…ところで殿下と同じ背くらいの女性と恰幅のよいご老人は見なかったか?」

「ああ、ノア様とタイクン様ですね。なんでも用意するものがあるとかで…。先刻、市場の方へ」

「なあにやってやがるんだ、まったく…」

 ガトラがため息を付きながらこぼす。ほどなく、二人が大きな荷物を抱えてやってきた。

「…お待たせ!色々用意してたら遅くなっちゃった」

 よろよろとした足取りで、ノアが辿り着く。

「これはまた、大げさな…」

 ウルヴンが珍しく驚きを隠さないまま呟いた。

「やっぱりね、日々の食事は大切なのよ。昨日、皆で一緒に食卓を囲んで気持ちを新たにしたわ」

 そう言いながら、ノアがどんどんと馬車に荷物を積んでいく。

「おいおい…。どうでもいいが俺達が座る分くらい空けておいてくれよ…」

「ほっほっ。情けない。その力を誇るなら、全行程を歩きで参るくらいの気概を見せてみんかい」

 タイクンが面白そうにガトラを煽ってみせる。

「俺はな、無駄に体力を消耗するような真似はしないんだよ。…よし、全員乗り込んだぜ」

 ガトラがその身体を窮屈そうに馬車の中に丸め込みながら、グリバに話しかけた。

「それではシュローネ様、出発いたします」

「よろしく頼むぞ。…イリアス殿下、ウルヴン殿。他の者もお気をつけて」

「ありがとう。…また、このイセルディアのどこかで!」

 イリアスにシュローネが小さく頷く。グリバの先導する騎馬が掛け声と共に走り出すと、後ろから続く御者の引く荷馬車もたちまち走り出した。やがてその姿は地平線の向こうへと小さくなってゆく。

「…不思議な若者達よ。次に会う時は如何なる時代を迎えているのか…」

 揺らめく地平線、二つの影はもう見えなくなっていた。


 ◇   ◇   ◇


「ふん…」

 古い尖塔の上階、薄暗い小部屋の窓からギリが外の様子を静かに覗いている。ぎょろりと見開いた、その視線の先には遥か彼方の地平線を臨むシュローネと従者の姿があった。

「危うい輩よ…近い将来、このマハタイトに災厄をもたらすかもしれん…」

 ギリは窓から体を離し、螺旋階段の方へと向かっていく。

「まあよい。私は私で自らの考えに従い、国のために尽くすだけ。まずは…」

 口角を僅かに歪め、そう呟くとギリはカツ、カツとゆっくりとした足音を立てて、階段を降りていった。

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