第十話 親子
「…ねえ、お父さん」
気のない言葉で、ノアは片頬をテーブルにつけたまま、目の前に座るシャノに話しかけた。
窓の外はすでに暗く、村は静寂に包まれている。僅かに虫の鳴き声がしているのみで、時の流れは尚のこと緩やかに感じられた。
「もしも…もしもよ、あたしが…この村を出てみたい、って言ったらどうする…?」
小振りなナイフを研いでいたシャノはその手を止め、ノアに向き直った。
「どうした?…アル達のことか?」
「うん、それもだけど…」
顔を上げてノアが続ける。
「あたし、この世界のこと何も知らないな、って」
ちりり、と天井からぶら下げているランタンの灯が揺れる。しばらくの沈黙の後、部屋の奥からアナトアが静かに戻ってきた。
「…どうだ、親父は」
「豪快にいびきをかいて眠っていらっしゃるわ。珍しくたくさん飲まれていたものね」
シャノの問いに、アナトアが微笑みながら答える。そしてそのままシャノの隣に座った。
「お父さんとお母さんはこの村で出会ったんでしょう?」
ノアが尋ねた。
「うん。正確にはちょっと違うな…。父さんが昔旅商をしていたのは知っているだろう」
黙ってノアが頷く。シャノが続けた。
「母さんとはその時に会ってね。遥か東にある小さな港町だったんだけど…その町を取り仕切る商人の一人娘だったんだ。取引相手の娘さんさ」
「へえ…」
「それで…父さんが一目惚れしてね。なんとか一緒にさせてくれって」
少し照れくさそうにシャノが言う。
「…それで?」
ノアの問いにシャノは首を振った。
「駄目だったよ。そりゃあこっぴどく怒られてね。辺境の旅商風情に娘をやれるか!って。せっかくの取引もご破算になるし、散々だった」
「それじゃあ」
「うん。傷心のままフェイに帰ってきてね。それから…何ヶ月か経った頃だったかな」
「…六ヶ月よ。六ヶ月と八日」
アナトアがシャノの話を補足した。
「そう、六ヶ月。ちょうど今くらいの時期だった。…一頭の荷馬だけを引き連れて母さんがやって来たんだ。あの時はびっくりした。ついに幻覚を見るようになっちまったか、ってね」
ふふっとアナトアが笑みをこぼした。
「若かったのね。もちろんお父さんと一緒になりたかったのもあったけど…。私も、同じように外の世界を見てみたかったの。自分の足で歩いてみたかった」
優しげに語りかけるアナトアをノアは黙って見ている。
「ノア、世界は素晴らしいことだけではないけど…。私達がそうしたように、自分の気持ちに嘘はつかないで。そして」
パチン、と木の乾いた音が鳴る。それを合図にするように、ゆらりとランタンの灯が再び揺れた。
「辛くなったら…道に迷うようなことがあったら、いつでも私達はここで待っているから」
静かに夜は更けていった。
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