第八話 記憶(二)
軽快に扉を叩く音がする。しばらくして内から扉は開けられた。
「おはよう。遅いから迎えに来たんだけど…」
「…ああ、ごめん。寝過ごしちゃって」
アルがノアにどこか気のない返事をする。ノアは特にそれを咎めるでもなく、出て来るアルを黙って見守った。
「…」
二人は黙って歩き続ける。ガトラが帰ってから十日ほど。穏やかな気候が続き、村は平穏そのものに包まれていた。
(そういえば、少し前にレトの王様が亡くなったという話を誰かがしていた気がする。後継者争いが起こっているとも…)
しかしそんな事も含めて、まるで世界に争いごとなど何もないような、この村ではそんな時が流れているようだった。
「…最近、元気ないわね」
「そう?」
「心、ここにあらずというか…ガトラに何か言われた?」
「何かって…何もないよ」
「そう…」
会話は続くことなく、やがて二人は村の西方にある小さな森の入口へと辿り着いた。北、東、南と三方を荒野に囲まれたこの村が豊かでいられるのは、この名もなき森の恵みのおかげだと言っても過言ではない。鳥のさえずりが遠くにこだましている。二人は慣れた様子で森へと入っていった。
「赤い樹の実だっけ」
「そう。あまり大きく成長してるのは駄目よ。毒を持ってしまっているから」
ガサガサとそれぞれが屈みながら収穫に入る。陽の光が遮られる森の中は、少しひんやりとした空気が流れていた。
「…ねえ、アルってさ」
「ん?」
「普通じゃないよね」
「は?」
「あ…ごめん。普通じゃないっていうのは…その…生い立ちとか」
「ああ」
気の抜けた返事をして、アルは手際よく小枝からライの実(果実の一種。一般的に飲まれている酒の原料)をもぎ取っていく。それを持ってきた籠へと次々に入れていった。
「記憶を失っている、ってこと?」
「それもだけど…ウルヴンとガトラみたいな従者がいるわけじゃない?若君だなんて呼んでるし…。もちろん豪商とか、一部の貴族とかでそういう人たちは聞いたことあるけど…ほら、あたしはこの村しか知らないから」
「…シャノとアナトアはこの村で出会ったんだっけ」
「そう聞いてる。お祖父さんはあんな人でしょ。流浪の民を受け入れることでこの村は発展してきているし、実際そんな人達ばかりだから、貴方達も別に不思議ではないんだけど…なんか、その…気になっちゃって」
「…急にどうしたんだよ。この村に来て、もう八年にもなるのに」
アルが作業の手を止め、ノアに向き直った。
「最近、雰囲気変わったよね」
ノアがアルの方にまっすぐ向き合い、言った。
「そんなこと…」
「ううん、変わった。前はのんびりした単なる弟くんだったのに…ねえ、ウルヴンとガトラから何か聞いたの?」
ノアが先ほどと同じ質問をアルにぶつける。
「…聞いてないよ。いつも通りに旅商と旅をして、土産話を持ち帰ってきただけだって」
「嘘」
「嘘じゃないよ」
詰め寄るノアに、頑なにアルは否定してみせた。しばらくノアはアルをじっと見つめていたが、やがてふーん、と言って、元の作業へと戻った。
「あたし、自分では勘がいいつもりなんだけどな…」
アルはノアの丸まった背中を見ていた。なんと声をかけていいか分からぬまま時が流れる。陽は少し傾きつつあるのか、いつの間にか辺りは薄暗くなっていた。
「そろそろ戻らないとね…」
ノアが立ち上がり軽く服を手で払うと、少し早足で森の入口へと歩いていく。少し俯きながらアルがその後を追った。
「──きゃっ」
突如、目の前のノアが態勢を崩した。木々の間をすり抜けていく鳥を避け、倒れ込むノア。アルは近づいて彼女を起こそうと手を差し伸べた。…と、突如、バチンと頭の中で何かが弾けるような感覚に襲われた。
──ノアの顔に別の人物の顔が重なる。
──まだ年端もいかぬ幼子。アルと同じく栗色の髪。その年齢に似つかわしくない強張った表情がこちらに向けられている。
…兄様
──助けて、兄様…
…兄様、早く…
──誰かが…来る…
…駄目、兄様、置いていかないで…
──はやく、早く、逃げろ…
──すぐに逃げなくては…ティア…ボクは…
…兄様…
──すまない…スティア…
「…セスティア!」
──我に返った。目の前には大声を上げられて、驚いたノアが立ち尽くしている。
「…どうしたの?急に謝ったりして…それに…セスティア、っていうのは…」
たまらずアルはその場に蹲った。息が荒くなっている。心配そうに声をかけるノアの声が遠くに聞こえ始めていた。
「そうか…セスティア…ようやく思い出した…。ボクは…」
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