第9話 膝枕とおかわり

 心地よいそよ風に顔を撫でられ、俺は微睡みの中から這い上がる。

 

 重い目蓋を上げれば、映り込んでくるのは鮮やか朱色に染色された空。どうやら俺は眠っていたらしい。

 

 いや、正確には気絶していた、か。

 

 目が覚めてくるとどうして俺が倒れているのか、その理由が連なりになって思い返される。

 

 確か、帰ろうとした一之瀬いちのせさんが躓いて……助けようとしたら胸を触っていたのか。

 

 あのときは気付かなかったが、今思い返せば僅かに柔らかい感触があったような気がする。

 

 それでこの仕打ちかぁ……はぁ。

 

 仕打ちの割りに得たモノがほとんどないとは、なんとも悲しいことだろうか。

 

 とそこで違和感に気付く。

 

 俺は今旧校舎の屋上に倒れているはずだよな? それなのに頭には柔らかい感触が……。

 

 ハッと目を見開き、俺は改めて現状を把握した。

 

 視界の端にはなにかを耐えるような表情を作っている一之瀬さんが映る。そして頭のこの感触。

 

 つまり、俺は一之瀬さんに膝枕をされているのだ。

 

 いやマジでなんで?

 


「お、おはよう?」

 

「あっ、目が覚めましたか」

 

 声を掛けると、一之瀬さんは碧の瞳で俺を見据え表情を変えることなく言葉を掛けてくる。

 

「どうして俺は一之瀬さんに膝枕されてるんだ?」

 

「いえその……」

 

 一之瀬さんは戸惑いながらも、この状況に至った理由を説明してくれた。

 

 俺が助けたとき胸を触ってしまい、それに驚いた一之瀬さんが反射的に俺の顔面を攻撃。ここまで記憶にあった。その続き、一之瀬さんは倒れた俺を見て罪悪感が湧いたらしく、目が覚めるまで膝枕してくれていたそうだ。

 

 ふむ、まぁお互い様かな。痛み分けってやつか。

 

 俺はそう納得し体を起こそうと力を入れる。

 

 

「……あの、手を退けてくれませんかね?」

 

 が一之瀬さんに上半身を押さえられ、起きることができなかった。

 

 いや、もう少し力を入れれば起き上がれるのだが、なぜがそうしようという気が湧かない。

 

「折角なので、もう少しこのままでいさせてください」

 

 俺を見下ろす彼女の瞳は、まるで夢が叶ったような満足感に満たされていた。

 

 俺はため息を一つ溢して頭を掻く。

 

「あと少しだけだぞ」

 

「ありがとうございます」

 

 一之瀬さんは嬉しそうにはにかむと、細く白い手で俺の頭を撫でてきた。

 

 さすがにそれはさせまいと反抗するが、普段無愛想な彼女がこうも嬉しそうにしていると気が抜ける。

 

 はぁ……先輩とは違った意味で面倒だ。

 

 俺は諦めて、少しの間一之瀬さんに体を任せるのであった。

 

 

 

 あれからどのくらい経っただろうか。体感では十分くらい経っている気がする。

 

 俺はそろそろ帰らないとマズいと思い、体を起こす。

 

「ほら、帰るぞ」

 

 俺はいまだ座り込んでいる一之瀬さんに手を伸ばす。

 

 一之瀬さんはゆっくりと、躊躇うように手を伸ばしてきた。

 

「ほら、早くしてくれ」

 

 俺はその手を掴み、起こそうと力強く引く。

 

「あたたたっ」

 

「なんだ、ケンシ○ウの真似か?」

 

「違いますよ。……足が痺れたんです」

 

 一之瀬さんは自らの太ももを優しく撫でながらそう言った。

 

 まぁ長い間俺に膝枕してたんだし、当たり前か。

 

「一之瀬さんはバカだな」

 

「失礼な先輩ですね」

 

「生意気な後輩だな」

 

 一之瀬さんの言葉に合わせてそう返すと、彼女はおかしそうに微笑んだ。

 

「私は痺れが治るまでここにいますので、先輩は先に帰ってください」

 

「妹さんが待ってるんでしょ?」と優しく微笑み掛けてくる一之瀬さん。

 

 俺は頭を掻き彼女の手を離す。そして──お姫様抱っこをした。

 

 

「あ、あのっ、東原あずまはら先輩っ、恥ずかしいので降ろしてください……っ」

 

 一之瀬さんは顔を夕日よりも真っ赤に染め、そう懇願してくる。

 

「ヤダよ、めんどくさい。早く治らない痺れが悪いんだから我慢しろ」

 

「いやですから、私は治るまでここにいると……」

 

「もう遅い時間だ、これ以上暗くなると女の子一人じゃ心配だろ?」

 

 そう言うと、彼女は更に顔を赤く染め上げ、瞳を忙しなく走らせる。

 

「あ、あぅ」

 

「だからまぁ、仕方ないから送ってやるよ。半分は俺が原因なんだし」

 

「あの、じゃあお願いします……」

 

 急に一之瀬さんが素直になったが、まぁ気にすることではないだろ。

 

 俺は扉近くに置いてあった一之瀬さんの物らしき鞄を取りボロい扉を開く。

 

「あの、先輩」

 

「なんだ後輩」

 

「興奮しませんか?」

 

「やっぱビッチか?」

 

「違いますよ!?」

 

 変なことを言うのでそう返すと、一之瀬さんは心外そうに声を荒らげた。

 

 距離が近い状態でやらないでくれ、耳が痛い。

 

「その、今先輩は私の太ももと胸を触ってるじゃないですか」

 

「いや触ってねぇよ。膝裏と肋近くに腕通してるだけだ」

 

「あの、ガッツリ胸掴んでます……」

 

「……」

 

 いや、故意ではない。事故だ。

 

 そんな叫びを呑み込み、どうしようか考える。

 

 まぁ一旦降ろせばいいだけだが。

 

 と考え付き降ろそうとしたが……一之瀬さんは「そのままでいいです」と頑なに断った。

 

 

「それで、私の胸を鷲掴みにして興奮しませんか?」

 

「投げてやろうか」

 

「そんなことしたら先輩の妹さんに泣きつきます」


「……」

 

 そんなことをされたらかおるにどれほど怒られることか……。

 

 俺は素直に諦めた。

 

 結局、俺は一之瀬さんの要望通りそのまま階段を降りていく。

 

 意識すると、そんな膨らみあるなー程度なのだが……。

 

 ギロリと一之瀬さんに睨まれる。

 

「失礼なことを考えないでください」

 

 そう言いながら、心なしか体を俺に寄せてくる一之瀬さん。

 

 なんか、昔の薫みたいだ。

 

 そう和みながら、俺は一之瀬さんを抱えたまま旧校舎を出て、彼女の家近くまで送っていくのであった。

 

 以外と家が近かったことに、少しだけ驚いた。

 

 

     ◇   ◇   ◇

 

 

「ただいまー」

 

「お帰りなさい~」

 

 帰宅すると、エプロン姿の薫が迎えてくれた。

 

 癒されるなぁ。

 

 靴を脱ぎ薫の前に立つと、薫は眉をひそめスンスンと俺の体を嗅ぎ始めた。

 

「ん? 汗臭いか?」

 

「いえ違います。これは……女の匂いですね?」

 

 どんな嗅覚をしているのだろうか。我が愛しの妹ながらちょっと怖い。

 

「この匂いは鳴美なるみさんでもありませんね。一体誰なんですか?」

 

「彼女ですか?」と尋ねてくる薫に俺は一言「違う」と否定する。

 

「ならセフレですか?」

 

「ぶっ──!?」

 

 次に妹の口から零れた言葉に、俺は思わず吹き出しそうになった。

 

 いや、その前に、だ。

 

「そんな言葉どこで覚えたんだ」

 

「女の子にもいろいろあるんですよ」

 

 その発言にまさかと目を見張る。

 

 もしや薫はそちらに手を染めて……!?

 

 想像するだけでも恐ろしい。と身震いしていると、俺の考えを読んだのか「私はしてませんよ」と薫は否定してきた。

 

「そうか、ならよかった」

 

 俺はひとまず、安堵の息を吐く。

 

 

「で、お兄ちゃんはこんな遅くまで女の人となにをしてたんですか?」

 

 まるで浮気を攻め立てる妻のように、薫はグイグイと迫ってくる。

 

「誤解だ」

 

「誤解?」

 

「あぁ、実は──」

 

 

 ──かくかくしかじか。

 

  

「ということなんだ」

 

 説明と弁解を終え、俺は薫の様子を伺う。

 

「まぁ、わかりました」

 

「そうか、よかった──」

 

「なので、私も膝枕します」

 

 なぜそうなった。

 

「妹として、負けられない闘いがあるのです」

 

 グッと拳を握る薫。闘い(物理)になりそうで怖い。

 

「いやいや、夕飯はどうするんだ?」

 

 半開きになった扉からは、とてもスパイシーな香りが流れてきていた。多分カレーだろう。

 

「ならご飯のあとに膝枕するのです」

 

 頑なに膝枕をしようとしてくる薫。

 

 この討論は十分と続き、俺が折れることで幕を閉じた。

 

 

 

 夕食を済ませ、俺はリビングのカーペットに横になる。


 頭を預けるのは薫の太もも。ちょっと肉感があり柔らかく、俺をダメにする魅力たっぷりの枕だ。

 

「どう? 気持ち良い?」

 

「最高だ、もう動きたくない」

 

 素直な感想を口に出すと、薫は嬉しそうに「そっかぁ♪」とはにかんだ。マジ天使。

 

「お兄ちゃんは私がいないとダメダメだねぇ♪」

 

 どうしてそんなに嬉しそうにしているのか。可愛いから気にしないけど。

 

 と和んでいると、薫が手を俺の頭に乗せてきた。そしてそのまま、ゆっくりと撫でてくる。

 

「撫でられるのもいいけど、撫でるのもいいね~」

 

 そうだな。撫でるのもいいけど撫でられるのも悪くない。

 

 あぁ、このまま何時間でもいられそうだ。

 

 太ももの感触と撫でる手の優しさに、俺の心は懐柔されていく。

 

 やべぇ、依存しそう。というか眠くなってきた……。

 

 食後だからか、こうしていると睡魔が手加減なく襲い掛かってくる。

 

 ダメだ、寝るな俺ぇ……。

 

 

「眠たいなら、寝ていいよ?」

 

 

 必死に眠気を耐える中、薫からの悪魔の囁き。今の俺に抗う術はなく──。

 

 俺の意識は、夢の海に沈んでいった。

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