最終話「木漏れ日色の霊と僕」
◆第13節 霧島闘也と激戦◆
「行かせねえよ……!」
俺たちの目の前にいるレイは、明らかに狼狽えていた。おそらく、奴の目的は臨が持って逃げたアンクレットなのだろう。……俺はまだ、レイの正体が優にぃだったという事実を受け入れ切れていない。昨日も臨たちと話し合い、その可能性が高いだろうという結論には至っていたが、心のどこかで「そんなはずはない」と否定していた。まさかそのタイミングで、優にぃの方から現れるなんて……。
俺はチラリと背後を振り返った。みんなオロチを引き剥がすことができず、レイの方に向かう余裕がないようだ。俺一人でレイに挑むのが無謀なのはわかっているが、彼らを助けている隙に背後から槍で……という展開も避けたい。せめて、誰か一人でも自力で抜けてきてくれれば……。
レイは手にした槍で式神・縦横無尽を叩き落とし、コアのような部分を貫いて破壊した。その視線がギロリとこちらを向き、一瞬で俺の目の前へと距離を詰める。“もはや迷っている暇はない”──そう感じた俺は、レイが構えた槍に意識を集中した。じいちゃんの道場で習った、「敵の武器を奪う」という技術……今こそ、それを使う時だ。
風を切る音と共に、黄金色の刃が俺の方に突き出される。俺は体を傾けてそれをいなしつつ、柄を握って勢いよく手前に引いた。
「くっ!」
俺がやろうとしていることに気づいたのか、レイは攻撃を中断し、槍を奪われまいと力を込めた。──強い。レイの腕は俺よりも筋肉が少ないように見えるが、明らかに俺よりもパワーがある。単に姿を変えているだけではなく、戦うのに必要な力などは一通り備えているのだろう。力負けした俺の体は宙を舞い、入口とは反対側、店の奥にある臨の家の廊下まで投げ飛ばされた。
「ってぇー……」
背中を打ちつけて苦悶の声を漏らす俺に、レイが歩み寄る。まずい、早く立ち上がらなければやられる……!
「闘也君!」
背後から名前を呼ばれ、思わず振り向く。声の主は、家事をしていたのであろう臨の母親だ。
「これを!」
手渡されたのは、長さ1.5mほどの木製の棒で、先端には鉤状の金具が付いている。これは、屋根裏部屋の扉を開けるためのフック棒……?なるほど、これなら……!
棒を両手で握り直し、俺に向けて放たれた穂先を受け流す。そうしてできた隙に、俺は棒を突き立てて勢いよく立ち上がり、レイの腹にフックの部分を叩き込む。
「ぐっ……」
続けざまに二発目を喰らわせようとしたが、レイは軽やかに身をかわし、俺から2mほど距離を取って槍を構えた。どうやら、彼は耐久力も人間より高いらしい。……だが、俺がこうして戦っていた時間は無駄ではなかったようだ。
オロチの拘束を振り解いた翔太さんが立ち上がり、彼の右手首に着けられた銀色の腕輪に触れた。かと思うと、そこから黒い影のようなものが流れ出し、獣のような姿にまとまった。
「いくぞ、シリウス!」
その声に従って、シリウスが鋭い動きでレイに襲いかかる。それに対抗するようにさっきまで翔太さんに絡みついていたオロチがシリウスに飛び掛かったが、その体は空中で牙に捕らえられ、勢いよく食いちぎられて消滅した。
「……厄介だね」
レイは体の向きを変え、俺とシリウスの両方が視界に入る位置に陣取った。
「観念しろ、レイ」
翔太さんが、重々しい声でそう告げる。
「観念?それはないな。僕にはまだ手が残されているからね」
妙な感覚が背筋を駆け上がる。“俺は何かを見落としている”──そんな気がする。そして、すぐにそれは思い当たった。レイが呼び出したオロチは全部で8匹。うち1匹がさっきシリウスにやられて消滅したから、残りは7匹。そして、今オロチに拘束されているのは……6人。じゃあ、あと1匹はどこに……?
「やれ」
カウンターの陰からオロチが飛び出し、翔太さんの首にまとわりつく。そして尾の先端に付いた刃が、彼の頭をめがけて突き刺さる──かと思われたが、その尾は翔太さんの右手によって握り止められていた。
「やらせないよ、レイ」
「……なるほど、アカネか」
翔太さんはオロチを首から引き剥がし、尾を持ったまま床に叩きつけた。さらにそれを踏みつけると、やはりオロチは消滅した。
「人間の体でそこまで動けるなんて、大したものじゃないか。蛇だって怖いんじゃないのか?」
「こいつは蛇なんかじゃない。ただの動き回る槍だ。それに、もし蛇だったとしても関係ない」
そこで俺は、翔太さんが今どういう状況にあるのかを理解した。さっき大蛇の槍にやられて二つの赤い球体に分かれたアカネ。そのうちアンクレットに変えられず床に放置されていた方が、いつの間にか姿を消している。間違いない。今の翔太さんは、アカネに憑依されているのだ。ソラに憑依された臨と同じように……。
「まあ、どっちでもいいか。かかっておいでよ」
「言われなくてもね……!」
そう言って、翔太さんに憑依したアカネは目にも留まらぬ速さの拳を繰り出した。レイはそれを紙一重で流し、反撃はせずに距離を取る。俺も加勢しようと近寄るが、彼らの攻防が激しくて入る隙がない。
「くそっ……なんで当たらない……?」
「そりゃそうだ。それは君の体じゃないんだから」
アカネの動きは次第に鈍くなってゆき、明らかな疲れが現れていた。……そういえば、ソラが言っていた。ソラは臨以外の体に憑依することはできず、臨でも憑依したままだと負担がかかる、と。つまり、アカネは翔太さんに憑依することができたが、その体を使いこなせているわけではなく、動かす上で大きな負荷がかかっているのだ。
「ぐっ……ううっ……」
「そろそろ限界かな?」
レイがそう言って翔太さんに触れると、彼の体から赤色のアンクレットが飛び出し、翔太さんはその場に倒れ込んだ。すると、アカネが憑依してからほとんど動かなかったシリウスが獰猛な声を上げて暴れ始める。
「まずい……シリウス、戻れ!」
翔太さんがそう言うと、シリウスは再び影のような姿になり、翔太さんの腕輪に吸い込まれていった。
「おっと……森の方に動きがあったみたいだね」
「森……?」
「どうやら、君たちと遊んでいられるのもここまでみたいだ。……じゃあね、みんな」
「待て!」
俺はフック棒でレイを殴ろうと飛び掛かったが、レイの扇子が引き起こした旋風に煽られて倒れ、またしても目の前で逃げられてしまった。
「くそっ……」
レイを止められなかった……その敗北感が、俺の背中にのしかかる。なんとかして彼を……優にぃを止めなければ……。
◆第14節 岡崎皆美と勝機◆
レイが姿を消すと同時にオロチも消失し、私たちは解放された。……情けない。私はなんとかしてオロチの拘束を逃れようともがいていたのに、何もできなかった。七星の時もそうだった……。
そんな風に自分の非力さを嘆く中、一つの疑問が頭に浮かんだ。“レイは、なぜ私たちを仕留めなかったのだろうか?”と。私たちを拘束していたオロチの尾には、彼が持つ槍と同じ形の刃が付いていた。ならば、彼は私たちを仕留めて仮死状態に陥らせることもできたはずだ。でも、彼はそれをしなかった。……思えば、レイの行動は不可解というか、最適解ではないように思える。闘也を店の奥に吹っ飛ばした後、彼は入口から出ていくことができたはずだ。でも、彼は背中を打ちつけて悶える闘也にゆっくりと歩み寄っていった。私たちを舐めている?勝てる確信があるから煽っている?それとも、彼の目的は別にある……?
「もしかして……」
オロチに縛られていた痛みの残る脚を引きずって立ち上がる。翔太さんの体から弾き出された赤色のアンクレット──アカネの魂は、そのまま床に転がっていた。元々は球体状をしていたので、アンクレット状になっているのはレイの手によるものだろう。でも、レイはそれを持ち去らず、その場に残している。何のために?その答えは、私には一つしか考えられなかった。
「レイは、私たちに“勝ち筋”を残している……?」
理由はわからない。でも、レイのこれまでの行動を思い出してみると、そう考えるのが一番自然に思えた。
「……ねえ、皆美ちゃん」
満身創痍の状態で横たわる翔太さんが、アンクレットを拾い上げた私に声をかけた。
「それ、あの子に届けてやってくれないかな……彼女なら、アカネさんと一緒に戦えるんじゃないかと思うんだ……」
臨……彼女は空狐ソラの魂を憑依させることができるけど、その理由はわかっていない。普通の人間ではそもそも体に入ることすらかなわないはずのところ、なぜか彼女だけはソラに体を貸すことができるのだ。もし、それが彼女の特殊な体質か何かであるならば、アカネも憑依させられる可能性はある。
「……わかりました。私、行ってきます」
「皆美ちゃん」
続けて、臨のお母さんが私を呼び止める。
「何があったか、全然わかんないけど……気をつけてね」
それを聞いて、優にぃの顔が脳裏をよぎる。1週間前、彼はアカネと戦うために森に向かう臨に同じような言葉をかけていた。もちろん、優にぃはレイなのだから、あの時の「何があるのか知らない」という言葉は嘘だったわけだけど、彼が臨の身を案じていたのは本当なのではないだろうか。じゃあ、レイの行動は優にぃにとって不本意なもの、ということなのか……?
「……今日、誕生日なんですよね?」
「え?そうだけど……」
「……臨は、無事に帰ってきます」
「皆美ちゃん……」
根拠はない。でも、きっと彼女は無事に帰ってくるし、私は全力でそれを助けるつもりだ。
「行ってきます」
そう言って、私は店を出た。レイは森に向かったはずだ。多分、臨もそこにいる。この赤色のアンクレットが、きっと臨の勝利に繋がる鍵になる。私はアンクレットを握り締め、いつも彼女がいる木漏れ日の森へと向かった。
──その道中、私は見覚えのある顔に出くわした。
「あ、岡崎!」
「春海、なんでここに?」
「それより、ちょっとこっち来てくれ!」
「悪いけど、今それどころじゃ……」
「ラークさんたちがやられてんだよ!」
「え?」
確かに、春海のすぐ横にある車は見覚えがある。私は仕方なく駆け寄り、状況を確認した。車のドアは開け放たれ、その運転席ではサングラスをかけた黒服の男が意識を失っている。後部座席では、彼と行動を共にしている二人も倒れている。間違いない、レイが持っていた大蛇の槍によるものだ。
「うーん、呪いによるものではないみたい……」
いつの間にか、私の後ろには詩音さんが立っていた。その手には、かつて願いの机の事件を解決する際に使っていたエクトプリズムを持っている。
「詩音さん!?」
「ああ、こんにちは。皆美ちゃん」
「あれ、岡崎の知り合いなのか?この人はさっき──」
「えっと……すみません。私、行かなくちゃいけなくて……」
「どこに?」
「そこの森に──」
そこまで言いかけて、私は言葉を失った。私の目的地であるはずの森の上から、青い半球状の空間が覗いていたからだ。
「何だよ、あれ……」
春海もそれに気づき、困惑した様子で私を見る。詩音さんもそれに気づいたようだが、私たちとは反応が違う。
「あれは……空の玉の結界?」
「えっ、あれが?」
「うん……多分、そうだと思う」
空の玉の結界……この間七星と戦った時に、私たちはそれを見ている。でも、ここまで大きいものではなかったはずだ。
「……まずい!」
私は脚の痛みも忘れて、森を包み込む結界のそばまで走った。私が危惧した通り、結界は私を拒絶し、森に入ることができない。これは臨が張った結界なのか?だとすれば、どうして……。
「皆美ちゃん、何があったの?」
私を追ってきた詩音さんが尋ねる。
「この森の中に、臨がいるんです!これを渡さないと……」
「……もしかしたら、入れるかもしれない」
「え?」
「ここから森に入ることはできないけど、冥界を経由すればもしかしたら……」
そうか、詩音さんは冥界を通って移動することができる。結界の内側でも、冥界からなら……。
「お願いします、詩音さん!」
「わかった、任せて」
私は詩音さんの手を握り、彼女と共に冥界へと渡った。先程まで視界を覆っていた青色の結界はなくなり、いつもと変わり映えのしない森が広がる。見た目は変わらないけど、これは“かつて森に生えていた木々”なのだろう。私たちはそのまま前に進み、再び現世に戻った。森は不気味なほどに音がなく、静まり返っている。狙い通り、私たちは空の玉の結界内部に侵入することができたようだ。
「行くよ、皆美ちゃん」
「はい!」
──森の奥、結界の中心部では、臨とレイが向き合っていた。私はバッグに入っている爆裂ゴム鉄砲を取り出し、レイにその銃口を向ける。
「……隠れていないで出ておいでよ」
やはり、レイの前で身を隠すことは不可能らしい。私と詩音さんはおとなしく二人の前に姿を現した。
「皆美!それに、詩音さんも!?」
「臨、これを!」
私は臨に駆け寄り、赤色のアンクレットを手渡した。
「これは……?」
「アカネの魂……翔太さんが、臨なら憑依させられるかもしれないって」
「……ありがとう、皆美」
「話は済んだかな?」
レイはそう言って、私に槍を向けた。臨はそれを制するように手を伸ばし、私たちに語りかけた。
「皆美、詩音さん……悪いけど、今は二人きりにしてくれないかな」
「え……?」
「私たちは、今からここで決着をつける。そのために、私は一人で戦いたいんだ」
「どうして……?」
「話すと長くなる。とにかく、二人きりにしてほしいんだ」
臨の表情は、どうしようもない不安と、それを乗り越えようとする覚悟が入り混じっているように感じられた。
「……一つだけ約束して。絶対に、無事で帰ってくること」
「わかってる、そのつもりだよ」
臨はそう言って、レイの方に向き直った。
「……行こう、詩音さん」
「え、本当に帰るの?」
「ここにいても、邪魔になるだけだから」
詩音さんは私と臨を交互に見た後、そっと私の手を握り、冥界へと連れて行った。
「あ、戻ってきた」
戻った先には、春海が待ち構えていた。すぐそばには、ここまで来るのに使ったのであろう自転車──烈風も置かれている。
「岡崎、一体どういう──」
「ごめん春海、今は説明している時間がない」
「何か考えがあるの?」
詩音さんが、私の顔を覗き込む。
「願いの机を使います」
何を言っているのかわからないといった顔をする春海とは反対に、詩音さんはすぐに思い当たったようだ。
「春海、今から学校に行くから、烈風に乗せてもらえる?」
「えっ、学校?」
「それと、ついでにラークさんのサングラスも借りていこう。あれも願いの机を探すのに使えるはず」
「……何かわかんねえけど、振り落とされるなよ」
こうして、私たちは学校へと向かった。臨を勝利へと導くための、最後の願いを託すために……。
◆第15節 衣谷臨と決着◆
――皆美と詩音さんが入ってくる少し前。結界を抜けたレイが、ゆっくりと歩きながら私の前に現れた。
「はろー、臨」
「レイ……」
不意打ちをしてくる様子などはなく、数mの距離を置いて私の正面に立つ。
「結界の中なら僕のエネルギー供給を途絶えさせることができると思ったのかもしれないけど、残念ながらそうはいかない。僕の力の源は、この世界の外にあるからね。空の玉の結界よりも強い力で繋がってるんだ」
「わかってるよ。結界はあくまで気休め……本気で君を止められるとは思ってない」
そう、私にはわかっていた。レイはこの世界の外と繋がりを持つ存在であると。……だからこそ、私は彼を止めなければならないのだから。
「……隠れていないで出ておいでよ」
その声に応えるように、レイの背後の木陰から皆美と詩音さんが姿を現した。
◇◇◇
「……本当によかったの?」
「いいんだ……もう十分に力を貸してもらったからね」
私はそう言って、彼女から受け取った赤色のアンクレットを左足首に着けた。すぐにアンクレットは足首に溶け込み、私の体に憑依した。
≪臨、
≪待って、アカネ。僕たちはレイと話をするつもりなんだ≫
ソラが、私の代わりにアカネを引き止める。
≪話?そんなもの聞く相手じゃないでしょ?≫
≪いいから見てて。ねっ、臨!≫
「えっ?あっ、うん……」
なんだろう……アカネが憑依した瞬間、何かを思い出しかけたような気がしたけど、思い出す前に消えてしまった。……いや、今はいい。とにかく、私が考えてきたことをレイに話さなければ。私は深く深呼吸をして、レイの顔を真っ直ぐに睨みつけた。
「レイ……いや、優にぃ。聞いておきたいことがあるんだ」
「……なに?」
「君の目的は“マスター”をこの世界に召喚すること……そう言ったよね?」
「ああ、そうだよ」
「じゃあ、“マスター”を召喚した後、君は……優にぃは、どうなるの?」
「……どういう意味かな?」
「『マスター』……普通に考えると、『主人』みたいな意味になる。でも、陣さんが私の父さん……喫茶店のマスターと勘違いしていたのを聞いて考えたんだ。もしかして、『マスター』は別の意味なんじゃないか、って」
レイは、何も言わずに私の話を聞いている。
「それで、いろいろと調べてみたんだ。そしたら、ちょっと引っ掛かるものがあってね……この言葉には『オリジナル』って意味も含まれている」
俯いていたレイの顔が、少しだけ上を向いた。
「レイ、君は……“マスター”の
「……答える必要はないね」
「やっぱり……!」
これまでレイは、自身の目的などに関してほとんど情報を与えないふりをしつつ、言葉の端々にヒントを織り交ぜていた。だから、彼が今言った「答える必要はない」は肯定の意味なのだろう。そして、なぜそんな風にヒントを与えるのか……その理由も、なんとなく予想がついている。
「君はマスターの命令に従っているふりをしているけど……本当は──」
「うるさい!だったらなんだと言うんだ!僕は……俺は……!」
これまで常に淡々と振る舞っていたレイが、初めて感情を露にした。揺らいでいる……これまで彼を覆っていたベールが、大きく揺らいでいる。今なら、彼の本心を聞くことができるかもしれない。
「優にぃ、私の予想を言うよ。マスターをこの世界に召喚したら、君は……消えちゃうんだよね?」
レイは何も言わない。が、その手が震えているのを私は見逃さなかった。
「ねえ、そんなに嫌なのに、どうしてマスターに従うの?」
二人の間に、長い沈黙が訪れる。結界に閉ざされ、セミの声すら聞こえない森の中で、私は彼が言葉を紡ぐのを待った。
「……1年前、20歳の誕生日の朝だ。目が覚めた俺の足首に、見覚えのない黄色のアンクレットがあった。アンクレットは、目覚めた俺に語りかけてきた。俺は“マスター”の複製品で、この世界に彼を連れてくるために生まれた存在だ、と」
最初は震えていた声が、次第にしっかりと聞き取れるようになる。彼の感情がゆるやかに落ち着いてきたのだろう。
「それ以来、俺はマスターのために活動してきた。現冥境からソラの魄を取り出したのも、アカネに鬼門の鍵を与えたのも、すべてはそのためだ」
レイはどこか遠くを見つめて、さらに続けた。
「1000年前、涼風世界と朝凪世界は一つだった。けど、ソラとアカネが戦った時、それぞれがぶつけた正のエネルギーと負のエネルギーが中和して、“零”のエネルギーが発生した。そこに両者が持っていた『幽魔を排除したい』『妖狐を排除したい』という意志が流れ込み、世界を二つに分裂させた……」
「それが、涼風世界と朝凪世界が誕生した理由……」
なんとなく、そんな気はしていた。最初に皆美は「並行世界」と言っていたけど、最初から二つあったんじゃなくて、元々は一つだったんじゃないか、と。
「そして、マスターはその零のエネルギーを利用しようと考えた。もう一度ソラとアカネの魄をぶつけ合わせ、今度はそこにマスターの世界と融合させる意志を注ぎ込もう、と……そのために作られたのが、
私は、手にした紅色のアンクレットに視線を落とした。これが、レイが目的を達成するための最後のピース……。
「……マスターは、この世界に来て何をするつもりなの?」
「何もしない。彼の目的はこの世界で、この街で生きることだけだ」
「……納得できないよ。そんなことのために、優にぃが消えちゃうなんて」
「心配はいらない。すべて終われば、君たちは
「記憶を、失う……?」
それはつまり、私が知らない間に優にぃの中身が入れ替わる、ということか。私たちは、その変化に気づくことさえない。……そんなの、認められるわけがない。私が知らない間に、“私の世界”がすり替えられるなんて。たとえ記憶に残らないとしても、私は“私の世界”を守りたい。そのために、レイを倒して“マスター”の野望を打ち砕いてやる。……でも、どうやって?
≪臨、私の魄を返すんだ。私ならあいつをぶっ潰せる≫
≪いや、ダメだ。レイは僕たちの戦い方を知っているし、対策もしている。何の作戦もなしに挑んで勝てる相手じゃない≫
ソラの言う通りだ。レイの力がソラとアカネの魄を手に入れて利用するためのものだというならば、当然彼らを倒すために必要な戦闘力も備えているはずだ。仮に不意打ちなどを仕掛けたとしても、その一歩先を行かれるだけだろう。それに、レイの持っている槍……あの攻撃を一度でも受ければ、アカネであっても一瞬でやられてしまうというのは既に見た通りだ。一歩先を行かれたが最後、敗北を避けることはできない。じゃあ、どうすれば……。
「さて、もういいかな?それを渡してくれれば、全部終わるんだ」
「……本当に、終わらせたいと思ってる?」
「ああ、本当だ」
「……優にぃ、視線が右下を向いてるよ」
私の言葉で、ハッとしたように目元に手をやる。もちろん、その手は彼の顔を覆う面に触れた。
「……見えてもいないくせに」
「見えなくてもわかるよ。優にぃとは長い付き合いだからね」
「ふん、戯言を……」
どうやら、レイに認めるつもりはないらしい。
「……じゃあ、こうしよう。もし本当に私を倒そうと思っているなら、その槍で私を貫いてみてよ」
「なに……?」
「ほら、私は逃げないからさ。やってみなって」
「……本気で言っているのか?」
「私は本気だよ」
紅色のアンクレットを足元に置き、両腕を広げてレイの前に立ち塞がる。レイは震える手で大蛇の槍を構えると、その穂先を私に向けた。……息が荒い。彼の緊張が手に取るように伝わってくる。やっぱり、彼は本気で私を倒すつもりなんてないんだ。
──そう思った時だった。彼の持つ槍がこちらに伸び、私の胸に突き刺さった。痛みはないけど、全身の力が抜けていくのを感じる。なんとか立ち続けようとあがいたけど、私の意識は遠ざかり、やがて真っ暗な闇に飲まれた。ダメ、だったのか……?
◆第16節 と記憶◆
……長い夢を見ていた気がする。僕はぼんやりとした頭の中で、自分に関する記憶を拾い集め始めた。……ここは、どこだ?
──ここは、木漏れ日の森。
僕は、誰だ?
──僕は、木漏れ日の森。
そんなはずはない。僕は人間だ。名前は……衣谷臨。
──いや、違う。僕は木霊──この場所で悠久の時を過ごしてきた、森そのものだ。
……そうだ、僕は……僕は木霊だ。どうして今まで忘れていたんだ。
それをきっかけに、僕の中に失われていた記憶が流れ込んでくる。永遠とも思える時間の、森の記憶だ。
──その始まりは、空狐ソラと茜鬼アカネの戦い。両者の全身全霊を込めた一撃がぶつかり合った時、正と負の二つの力は中和され、その隙間に“零”の領域が生じた。そこに二人の意志が流れ込み、僕が生まれた。「幽魔を排除したい」「妖狐を排除したい」──相反する二つの意志が混ざり合った結果、僕は一つの結論に辿り着いた。「世界を二つに分けてしまおう」……そんなことができるのか、などということは考えなかった。いや、考えられなかったと言った方が正確かもしれない。次の瞬間、僕はこの世界を二つに分けていたのだから。そして、力尽きた僕はそのまま下に落ち、生命力に満ち溢れた森と一体化した。
──その終わりは、8年前の夏。毎日のようにこの森に遊びに来ていた少女が、木から落ちたのだ。僕は彼女を助けるため、長い時を共に過ごした“体”から抜け出した。……誤算だったのは、その際に記憶を手放してしまったことだ。僕が普通の生き物であれば、魂が抜け出したとしても記憶を保てたのかもしれない。でも、僕は森だった。本来、森とは生き物の集合体であり、それ自体が一つの生き物というわけではない。僕はそこに、なんとなく収まっていただけだったのだ。だからそれを捨てた僕は、“僕であること”を忘れてしまった。その結果、僕は自分が人間の少女──衣谷臨であると思い込み、今日まで生きてきたのだ。
……一体、何が起こったのだろうか。僕は今、レイが持つ大蛇の槍に刺されて魂を封じ込められたはずだ。でも、僕は臨の体を抜け出し、森に戻っている……いや、理由なんてどうでもいい。僕がやることはただ一つ、臨を助けること……それだけだ。
◆最終節 木漏れ日色の
俺が槍を引き抜くと、臨の体は力なく崩れ落ち、木の幹にもたれかかった。何が起こったのか、自分でもわからない。一瞬だけ意識が真っ白になって、気がついたら臨を貫いていた。臨も、ソラも、アカネも……そして、彼女の中に眠っている木霊ボクも、大蛇の槍の餌食になったのだ。もはやこの空間に、俺を止めることができる者は誰もいない。
──と、俺はある異変に気がついた。確かに臨は意識を失っているはずなのに、空の玉の結界が解除されていない。じゃあ、この結界は誰が……?
≪レイ、何をしている。早くそのアンクレットを拾え≫
マスターが俺に呼びかける。その時、俺はなぜ臨を刺したのかを理解した。
≪その通り。できればこんなことはしたくなかったが、お前が抵抗するというのであれば仕方がない≫
俺の手が落ちている紅色のアンクレットを拾い上げ、足首に付いている水色のアンクレットを取り外した。この二つの力──正と負のエネルギーをぶつけ合わせれば、再び“零”のエネルギーが発生する。そこに黄色のアンクレットに刻まれた意志を注ぎ込むことで“
≪マスター、臨たちは納得するのかな?≫
≪言っただろう。すべて終われば記憶は抹消される。彼女たちの中では何も変わらない≫
≪そう、か……≫
これから俺は、消えてなくなる。死ぬのではない。存在自体が消失するのだ。今こうして思考している“俺”は無に帰し、この記憶はどこにも残らない。……今までずっと、この時が来るのを恐れていた。自分の運命を呪っていた。だけど、それももう終わりだ。俺にとって唯一の希望だった臨は、大蛇の槍によって魂を断たれた。どれだけ抵抗しようとも、マスターは俺の体を自由に操れる。ならば、せめて自分の最期くらい、自分で決めたい──そう思った俺は、手にした二つのアンクレットを握り締め、重ね合わせようとした。……が、手が震えて力が入らず、繋がる前に取り落としてしまった。
「やっぱり嫌がってるじゃん」
不意に声が聞こえて、顔を上げる。木の幹に寄りかかっていたはずの臨が、ゆらりと立ち上がる。
「そんな……今、確かに魂を封じ込めたはず……」
「なんでだろうね?僕にもよくわかんないや」
この気配、木霊ボクか……まさか、記憶を取り戻したというのか?
≪まだ立ち上がるか……レイ、もう一度やれ≫
俺は大蛇の槍を拾い上げ、再び彼女に向けて放った。──が、槍は突き刺さらず、その刃は彼女の拳によって叩き折られる。
「なっ……」
「はあっ!」
臨の体が素早く回転し、その脚が鋭く空を切り裂く。彼女のスニーカーが柄に叩きつけられ、大蛇の槍は俺の手を離れて彼方へと飛ばされた。
「くそっ!」
槍を再生成するために距離を取ろうとする俺を、臨が手首を掴んで引き留める。レイの力であれば簡単に振りほどけるはずなのに、臨の手は離れない。
「ねえ、優にぃ。君の本音を聞かせて。君は本当に、マスターのために消えてもいいと思ってる?」
「……そんなわけ、ないだろ……俺は消えたくない。この世界で生きていたい……!」
≪そうか≫
頭の中でマスターの声が響き渡る。同時に全身の感覚がなくなり、マスターに肉体の主導権を奪われる。
「その言葉を待ってたよ」
臨はニッと微笑むと、その場で回し蹴りの構えをとった。右足が地を離れ、左足を軸として彼女の体が回転を始める。だが、レイの目を通して見ればあまりにも遅い。マスターは左腕を顔の横に構え、悠々とその攻撃を受け止めた。鈍い衝撃と共に、汗と靴底に付着した土が飛び散る。
「やるじゃないか、臨……でも、
──が、マスターの言葉に対する返事はなかった。かと思うと、彼女の体がぐらりと傾く。
「……臨?」
その時、俺は自分の体の異変に気がついた。彼女の蹴りを防いだ左腕に、じわじわと何かが染み込む。痛み……いや、違う!これは──!
「緑色のアンクレット……!」
臨の足首から、緑色のアンクレット──木霊ボクの魂が現れ、レイの腕と繋がっている。
「そんな……どうして……!」
≪さっき考えたんだ。8年前、どうして僕は臨に憑依できたんだろうってね……一つだけ思い当たった。僕と彼女は“似ている”んだ。僕が取り憑くよりも、ずっと前からね≫
ボクの意識が、レイの中に流れ込んでくる。
≪そして、優にぃもまた僕に“似ている”……≫
≪まずい、このままでは……!≫
≪だったら当然、
≪体を乗っ取られ──!≫
◇◇◇
空は清々しく晴れ渡り、強い日差しが街を照らす。それが木々の葉を通して穏やかな木漏れ日に変換され、心地よい明るさの黄緑色の光が視界を包み込む。森全体がしっとりとした清涼感を伴う空気で満たされており、暑苦しい外の世界から一転、ゆったりと落ち着いた時間が流れる。そうして外界から隔離された結界の中で、クマゼミたちの生命力溢れる律動だけがこだまする。
「あ、起きた?」
隣に座る少女が、視界に顔を覗かせる。
「おはよ、優にぃ」
「……俺は、助かったのか?」
「何の話?」
「……今まで、臨と戦っていただろう」
「さあ?記憶にないね」
臨はすっと立ち上がり、俺に手を差し伸べた。
「さ、こんなところで寝てないで、さっさと帰るよ」
「……どこに?」
ゆっくりと体を起こしながら、そう尋ねた。同時に、臨の右足首にある木漏れ日色のアンクレットが目に映る。
「私たちの日常に、かな」
「ははっ、なんだよそれ……」
俺は臨に手を引かれて立ち上がると、彼女と共に森の外に向けて歩き始めた。俺の心は、空と同じく清々しく晴れ渡っていた。
◆エピローグ「あるべき場所に」◆
「じゃあ、これでお別れですね」
「もう会えないと思うと、寂しくなるな……」
「……いや、私はまたこっちに来るつもり」
「え、なんで!?」
「ソラ、今度会う時までにその体を鍛え直しておきなよ」
「勘弁してよ……僕はもう鬼退治なんてしたくないんだから」
「“鬼退治”じゃない。“真剣勝負”だ」
「はいはい……まあ、人間に危害を加えないならなんだっていいけどさ」
「……いろいろとお世話になりました」
「いやいや、こちらこそ」
「達者でな!」
「それでは皆さん、さようなら!」
そう言うと、翔太さんとアカネは鬼門をくぐり、元の世界へと戻っていった。
「……行っちゃったね」
「うん」
私は鬼門に手を触れ、それを閉ざす。
「もう一つの世界、か……」
闘也が鬼門のあった辺りを眺めながら、そう呟いた。
「せっかくだし、俺もあっちの世界に行ってみればよかったな」
「やめとけやめとけ、鬼に食われて死ぬぞっ」
皆美が闘也の頭を軽く叩く。
「いてっ、なんで叩くんだよ」
「あっ、ごめーん。手が当たったわー」
「お返しだっ!」
闘也が反撃しようとするが、皆美はしゃがんでかわし、その手が空を切る。
「おっと……そもそも、闘也はまだ夏休みの宿題も終わってないじゃん」
「げっ、そういやまだ残ってるんだったな……皆美、手伝ってくれないか?」
「やだよ、私だっていろいろやりたいことあるし」
「頼むよ!なんでもするからさ!」
「別に闘也にしてもらいたいことなんてないしー?」
「ふふっ……なんか、いつも通りって感じだなー」
「本当にね」
「……そういえば、ソラはこれからどうするの?」
私たちの前を歩いていたかえでちゃんが尋ねる。
「そうだな……僕はもう自由の身だし、また前みたいにこの森で暮らそうかな」
「『前』って、300年前でしょ?」
「僕にとっては昨日みたいなものだよ」
「ふーん……」
「まあ、会おうと思えばいつでも会えるし、今までと何も変わらないって」
「それもそうか」
「……さて、帰って母さんの誕生日パーティーだ!」
「おう!」
私たちは、再び日常を取り戻した。もしかすると、また何者かによって脅かされることがあるかもしれないけど、心配はないだろう。今の私には、心強い味方がいるのだから。……自分の右足首に輝く
木漏れ日色の霊と僕 妖狐ねる @kitsunelphin
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